甘い血の匣3

 電話口の低い声が告げたのは確かに私の父の名前で、警察署内にて安置している為顔を確認して欲しいとの事だった。防波堤に引っかかっているのを釣り人が発見し、通報を受けた警察官が引き上げたのだという。この電話番号は、ズボンに収まっていた財布の中の免許証から割り出したらしい。
 父が海に身を投げたというのは聞かずとも理解出来た。精神的に疲弊している姿を、共に生活している中で痛い程見てきたからだ。母が“亡くなって”以来、父は笑顔を努めて今まで以上に良い父親であろうと明るく振る舞っていた。きっと彼は、私が呪いの存在に気付いていないと思っていたのだろう。宿命を悟られまいと母の存在と行方をひた隠しにしていたが、私は彼女が亡くなったという言葉を鵜呑みにはしていなかった。
 母が消えた日。母の部屋には外側から三重に錠が施され、私が立ち入る事を固く禁じた。思い出を残す為だと言っていたが、恐らくはあの部屋に大蛇と成り果てた母が生活していたからなのであろう。娘への隠し事と妻が人外となった事実に耐えきれず、父は緩やかに壊れていった。

「お父様で間違いありませんか?」

 安置所の寝台に横たわる、水分をたっぷりと吸って変わり果てた醜い遺体は間違いなく父の姿をしていた。私は取り乱して泣き出すでも無く、ただ冷静に「父です」とだけ返し、薄暗く暗澹とした安置所を出て帰路に着いた。
 葬儀はしなかった。ただ警察官に勧められるまま火葬をして、木製の骨箱に納められたつるりとした小さな白い骨壺の中に収まった父を自宅へと連れ帰った。
 父方にも母方にも頼れる親戚は居らず残された財産は私が生活していくには不十分で、高校を卒業する年になるまで売春で生計を立てた。スマートフォンで連絡を取り合ったり、案内所に来た男に身を売りつける事もあった。胸が膨らみ、身体が丸みを帯びていくにつれ私の足には薄らと鱗の様な痣が浮かび始めていて、宿命を忘れさせまいとしている様でもある。欲を晴らす事で頭がいっぱいの男達が痣に関して聞いたとしても、生まれつきなのだと答えればそれで良かった。穴があってそこそこ見てくれの良い若い女であれば痣など大した問題では無かったのだろう。

「美しい痣だ。」

 メッセージアプリで知り合った男が、私の脛を撫でながら恍惚とした表情で言った。今までの男とは明らかに違う痣への強い興味が何処か気持ち悪くて慌てて足を引っ込めると、男は私の髪の毛を掻き分けて耳殻に唇を触れさせ「売春よりももっとお金をあげられるから私の所へ来ないかい?」と蕩けるような甘い声で告げた。正直な所、私は男と身体を重ねる色事が得意ではなかった。気持ちが悪いというのも苦手とする要因の一つであるが、何より体力的に辛い物があったのだ。
 男の手をとり連れて来られたのは繁華街の裏路地にある小さなビルの一室で、ドアの外には「桃源郷」と明朝体で書かれたネオン看板が煌々と光り輝いていた。真っ赤なドアを押し開けた男の後ろをついて室内に入り込むと、薄赤色の淫靡な照明で照らされたステージの下に幾つかの椅子が置かれた小さなホールが視界に広がっている。

「此処は、非凡な美を持っている人間が持て囃される素晴らしい店だ。君の様な人が沢山働いているからそんなに緊張必要もない。お給料も沢山あげるよ。」

 男は自身を座長と名乗り、ステージ裏のある部屋へ私の手をとり入っていく。爛々と光る幾つもの目玉がドアを開けた私達を見ている。男も女も入り混じり、椅子に座っている者もいれば床に座り込み身体を解している者もいる。座長の言う通り、この部屋に押し込められている者達は身体の作りが他の人間とは違っていた。下半身が無い女に両腕が極端に短い男。深い襟ぐりから覗く谷間が二つある女や、子供程の背丈しか無い男等、俗に言う奇形ばかりなのだ。
 思わず座長を仰ぎみれば、彼は前歯に嵌った金属をちかりと煌めかせ厭らしく笑っていた。

「紳士淑女の皆様方。名残惜しくは有りますが、本日の見世物は此れにて最後と相成ります。トリを務めますのは我が小屋のスタア、蛇女の名前で御座います。」

 座長の口上と歓声の中、私はステージの中心で男が喜ぶ笑みを浮かべる。緩く身に付けた赤い襦袢をはだけさせ鱗の浮いた脛をわざとらしく見せつけて、握り締めた白い蛇の身体にねっとりと舌を這わせた。悲鳴まじりの歓声は、私の行為に喜んでいる証。その先を見たいと言う懇願でもある。暴れる蛇の頭と尾の少し上を掴んで引き其の身体を張り詰めさせ、中心に齧り付いた。蛇は声を上げる事はないが、苦痛は尾の震慄から痛い程感じられる。顎の力を強めて歯列を肉に埋めさせると、とうとう其の身は真っ二つに分かれて両側にだらりと垂れ下がった。腥い腑と血の香りが鼻を抜け、嗚咽しそうになりながらも笑顔を絶やさない。切断面をパックリと咥えて尾の先から断面へ向かって扱き上げると粘性の液体がどろりと口の中へと流れ込んできた。
 観客達はこれが見たいのだ。異形が動物を貪り食う奇奇怪怪なこの見せ物のためにこの小屋へと通い詰める。金銭の為に其れをする私は、どうにか麻痺せずに自身が行う行為が気味の悪いものであると自覚し続ける事が出来ていた。
 開店時間が近づいていつもの様にメイク室へ入ると、座長が知らない外国人と何やら話しているのが見えた。英語で行われる会話は全く理解が出来なかったが、時折二人の視線が此方に向けられるので私の事を話しているのだろうとは薄々感づいていた。メイクを終えて服を着替え、いつもしている様に出番まで本を読んで過ごしていると、座長がこそこそと私の脇まで来て言い辛そうに声を漏らす。

「名前ちゃんが欲しいっていう外人さんが居るんだ。」

「欲しい…?其の人はサーカスでもやってるんです?」

「そういうわけじゃあ無いんだけどね。此処に居るよりももっといい暮らしが出来るかもしれない。どうかな?」

 疑問形ではあったが、彼の中では答えが既に決まっているのだろう。色の強い瞳は有無を言わせまいとしている。私としては、もうどうでも良かった。一生此処にいるわけにも行かないし、此処を出たからと言って自力で真面な職につける筈もない。踠いても足掻いても宿命は変えられないのだ。
 頷いた私は其の日の仕事を熟してすぐに、その外国人に連れられて日本を出た。
 気が付くと、私は寒々しい石室の檻の中に全裸で寝そべっていた。いつの間にか眠ってしまったらしい。酷く頭が痛み、其の外国人が所有しているという飛行機に乗った後の記憶が朧げである。重厚な黒の檻に手を掛けて私を覗き込む老年の外国人が、汚らしい歯を見せて何やら私に話し掛けている。座長の言葉は嘘だったのだ。いい暮らしをするのは私ではなく、私を売った金を手に入れる座長の方で、私の行く末などどうでも良かったのだろう。
 薬を盛られたのか、厭に火照った身体に冷たい床が心地よい。この厭らしい老人が新しい飼い主なのだとしたらあまり機嫌を損ねない方が良いだろう。一切の抵抗を放棄し、瞼を閉じて只々眠り、飼い主の方からの接触をひたすらに待ち続けた。
 ちらつく光に瞼を持ち上げると、其処は石室では無かった。月明かりが差し込む部屋にのソファに、御丁寧にコートまで掛けられて寝かされていた。5日程何も食していなかった私の足はうまく自立出来ずにふらついて、硬い床に腰を強く打ち付けてしまった。立ち上がろうともたついていると、入口のドアに嵌め込まれた硝子が橙色に濡れるのを見た。誰かが部屋に入ろうとしている。動きを止めて一心にドアが開くのを待っていると、ゆっくりと開いた其処からは美しい顔立ちをした妙齢の男が姿を現したのだった。
 異形の身で擦り寄る私を彼は恐れなかった。ただ黙ってされるがままに接触を受け入れ、食事まで与えた。男は私の呪いについても知っていて、其れが目的で私を購入したのだと言う。呪いについて調べたいと言った彼を私は受け入れた。彼が私を受け入れたからだ。
 共に生活を送る中で、男基デイビットは私を慈しみ愛そうとしてくれた。肉欲の対象としてでも只の被験体としてでもなく、名前という人間を知り、育もうとしてくれたのだ。
 徐々に人で居られる時間が短くなり1日の大半を蛇の姿で過ごしても、彼が向ける瞳は暖かく優しい物に変わりなかった。

 
「君は動物と会話が出来るのかい?」

 談話室にてティーカップを傾けていたキリシュタリアヴォーダイムが、本の頁を繰るデイビットに対し、徐に問うた。デイビットは文字列から視線を上げ、自身に向けられたグレーの瞳を見つめ返す。何も答えない彼に対し、ヴォーダイムは軽く笑みを返した。

「いやね。君は特例で自室に動物を持ち込んでいるだろう?稀に部屋の外へ連れ出して施設内を散歩させたりしている。私の聞き間違いでなければ、あの見事な鱗の蛇と君は言葉を交わしていた。蛇の言葉が分かるのかと思ってね。」

「素面で何を言い出すかと思えば。蛇の言葉が分かる訳が無いだろう。」

「そうか。では私の聞き間違いだな。すまないね。」

 ヴォーダイムの言葉を聞き届け、デイビットは本を閉じると談話室を去っていった。残されたヴォーダイムは彼の回答に納得してはいなかったが、追求したとて彼があれ以上の答えを寄越す筈がない事は分かっていたので敢えて腑に落ちたふりをした。異端者と呼ばれる彼には秘密が多く、蛇と話が出来ると言われても不思議では無かったのだ。

 談話室を出たデイビットは寄り道をせず真っ直ぐに居住区画にある自室へと戻って来た。自室には彼女が居るのだ。必要以上に出歩きたくは無かった。電子ロックを解除して開いたスライドドアの向こう側。彼のベッドの上には漆黒の大蛇が蜷局を巻き、太い胴を僅かに上下させて眠りについている。デイビットが近づきベッドに腰掛ければ、彼女は瞬膜を開き黄金の中に沈んだ瞳孔を丸々とさせて彼の姿を認めた。そして開いた彼の足の間に其の巨体を滑り込ませ、頭を持ち上げ彼の首元に自身の頬を摺り寄せる。

「起こしたか。」

「…。」

 蛇は何も答えない。けれどもデイビットは静寂の中から彼女の答えを聞き出して、其の顔に笑みを浮かべた。
 緩やかに人の形を忘れていく彼女を見て、デイビットは名前に言われた通りその血を口にしたのだった。死ぬまで面倒を見ると言った手前、言葉が通じなければ彼女の要求を汲む事は難しい。迷いは無かった。

「蛇と話が出来るのかと聞かれたよ。」

「…。」

「出来る訳が無いだろうと返答した。間違ってはいない。オレが会話できるのは君だけで、すべての蛇の思考を読めるわけでは無いからな。」

「…。」

「君の存在は周知の事だ。君を此処に連れて入る事を条件にカルデアに入所したのだから。」

 裂けた口の隙間から覗く薄い舌が彼の顎を舐り、愛おしそうに瞬膜を閉じる。デイビットもまた彼女の顎下を指で摩り上げ、うっとりと瞼を細める。彼女が人の形であったのならばその光景は仲睦まじい恋人同士に見えていた筈だ。
 成長と共に動物の姿に変わり、最終的には人の姿に戻れなくなる血の呪いを受けた女達は、未だに幻想種や魔物に分類される未知なる存在である。多くの魔術師が集うフィニスカルデアで名前の正体を知るのはデイビットのみ。彼が口外しない限りはこの時代に現れた其の希少な女の存在も闇の中へ葬り去られる事になるだろう。
 けれども名前という女が存在した事実に変わりは無く、デイビットと名前が共に居るだけで意味を為すのだ。知的好奇心や損得感情を超えた二人だけが築き上げた関係は、信頼と親愛という絆で固く結ばれていた。
 喩え如何なる物が其の仲を引き裂こうと思案したとて因果とも呼べる結び付きは決して解く事は出来ない。この先にどんな未来が待ち受けようとも二人はお互いを愛し、労り、慈しみ続けるだろう。


終話