昼食を終え一服済ませてからルームに戻ると、私の席の隣に座した同僚が大きく伸びをして生理的な涙を瞼の縁に溜めながら潤んだ瞳で此方に視線を送った。

「おかえり。私もそろそろ休憩行かないと」
「おつかれ。食堂混んでたよ」
「いつもの事でしょ」

 机に堆く積まれた書類の山から資料のファイルを漁りタンブラーに注がれたルイボスティーを一口飲みながら声を掛ければ、彼女はうんざりした様子で肩を回し立ち上がる。そしてモニターの端に下げたIDを手に取りストラップを掴んで振り回しながら、重い足取りでルームを出て行った。
 私達の様な一般職員はいつも決まった時間に休憩を取れる訳ではなく、管理者が現場の状況を見て少人数のローテーションで60分の休憩を回している。今日は火急の仕事が無かったので多くの職員が12時丁度に休憩に出る事が出来たのだが、彼女だけは面倒な演算に捕まり休憩に出そびれてしまった様だった。
 吐息だけで笑みその背中を見送ってから、勤務予定が記されたホワイトボードを見やれば、午後2時より管制室でのコフィン定期メンテナンスと微調整の欄に私の名前が入っていた。現在は13時05分。管制室へ向かうには些か早すぎる時間だ。一度腰を落ち着けてデータの整理をしてから向かっても充分間に合うだろう。キャスター椅子を引き腰を下ろした瞬間に、腰のあたりから顔にかけて熱が滲む感覚が襲い僅かに寒気も催した。先程までなんとも無かったのに突然どうしたのだろう。何か悪いものでも食べただろうか。食堂で摂った昼食を振り返っても思い当たる節がない。早期の風邪を疑った私はデスクの一番下の引き出しを開け、常備している風邪薬を2錠手に出してタンブラーを傾け流し込みデスクワークに手を付けた。
 
13時45分。管制室への道のりを歩いている最中も動悸と寒気は治らず、額が少し汗ばむ程に身体が熱い。疑う余地も無く完全に風邪をひいてしまった様である。発熱が始まったという事は恐らくこれから吐き気や頭痛が来る筈だ。明日も通常業務であるし何よりこれから大切なコフィンのメンテナンスであるのに体調を崩してしまった自分が情けない。熱に浮かされた頭を覚醒させるべく一度頬を両手で叩いてから管制室のロックにIDを翳して解除すれば、滑り開いたドアの向こうにはマグカップに口をつけながら此方に視線を向ける技術開発顧問の姿があり、ドアを開いた人間が私であると確認した彼女は小さく手を振りマグカップを離した口の端を緩やかに持ち上げて名画の微笑みを見せた。

「お!おつかれ〜。今日のメンテは名前ちゃんが担当なんだね」
「お疲れ様です。少し早かったですかね」
「いいのいいの。今日はレイシフトの予定無いし、メンテに付き合うマスターももう来てるから。それじゃ報告始めちゃおうか」
「ええ!?顧問直々にですか?」
「他の子は休憩に出してあげたいからさ。それとも私じゃ不満かい?」
「滅相もないです。ではお願いします」

 手近な椅子を引き寄せて腰掛けるダヴィンチに倣い腰を下ろすと、彼女はデスクに置いていた眼鏡を掛けて端末をスワイプしチェック項目を読み上げた。コフィンのメンテナンスの際はこの様に、管制室の職員がメンテナンス担当に使用時の不具合や微調整が必要な箇所を伝え、正常な数値を擦り合わせるところから始まる。レイシフトは人間であるマスターを擬似霊子に変換し異なる時間軸に送り込む事を指し、僅かでも異常が有ればマスターの命が危ぶまれてしまう。少しの間違いも許されない作業であるからこそ万全の状態で臨みたかったのだが今日の私は体調が悪い。いつも以上に集中して女史の話に耳を向け、一項目も漏らさずにチェックを入れた。

「報告は以上。質問は?」
「ありません。作業を始めさせて頂きます」
「よろしくね〜」

 緩く手を上げる女史に一礼した後、資料を片付けて立ち上がり椅子を所定の場所に戻しコフィンが並ぶ区画へ降りると、白を基調とした魔術礼装に身を包み壁に寄りかかり腕を組んで私を見ている男の存在に気が付いた。その姿を視界に入れた途端、頸に電流の様な悪寒が走って思わず身体が震え其処を手で押さえてしまった。動悸も激しくなり、顔も先程以上に熱を帯びている。
 彼はデイビット・ゼム・ヴォイドだ。立場上何度か顔を合わせた事があるが真面に会話をした事はただの一度も無く、私は彼に対して他のマスターと比べて何処か浮世離れした青年であると言う印象を持っていた。今日は彼がメンテナンスに立ち会ってくれるらしい。

「お疲れ様です。今日はよろしくお願いします」
「ああ」

 短い返事の後で沈黙するコフィンに視線を移した彼に小さく息を漏らしてからコフィンの裏に回り手動調整板のプラグにケーブルを差し込んで自身の端末に接続すると今までのレイシフト記録と各回の全工程に於ける文字列が雪崩れ込んで来て、今日の作業がかなりの時間を要するであろう事を悟った。
 アンサモンプログラムを微調整しレイシフト完了後のマスターの存在証明に必要な数列を僅かに弄り正常値に戻す。基本的にメンテナンスは自動解析と少し手入力を加える程度で済むのだが、私は後々自動解析に漏れた不具合が見つかると面倒でうんざりしてしまうので、初めから手入力で行う事が多いのだ。
 端末に接続したキーボードを叩き作業を進めている間、集中しなくてはいけないと理解しているのに何故かコフィンを隔てた向こう側に居る彼の事を意識して風邪の症状が悪化した気がした。彼は今どんな顔で自分の役割が来るのを待っているんだろうだとか、何を考えているのだろうだとか、全く生産性の無い考えを、大事なメンテナンス中に浮かべていたのだ。今まで彼を目の前にしてこんな感情を抱いた事があっただろうか。何故今更、こんなにも彼の事が気になっているのだろう。
 雑念を振り払う様に瞼をきつく瞑り手元の端末に意識を集中させ漸くひと段落付いたあたりで、
待ち草臥れているだろう彼に声を掛ける。

「お待たせしてすみません。最終調整を行うのでコフィンに入って頂けますか」
「分かった」

 返ってくるのはやはり素っ気無く短い言葉だけであったが、嫌な顔をせず素直に指示に従ってくれるだけでも演算に疲れた私の気分は高揚した。
 彼がコフィンに入ったのを確認し、手動で扉を閉じてマスターのバイタルを正常にチェックできているかのモニターチェック作業に入る。血圧、心拍共に問題なし。魔力量と適正率、自動存在証明システムも正常で不備はない様だ。一通りの作業を終えてコフィンを開き、瞼を閉じたまま動こうとしない彼に向かって平静を努めて事務的な文言を告げる。正直その姿を前にして昂りは激しさを増す一方であったが、不審に思われては恥ずかしいのできっと赤みを帯びている顔を見られない様俯いたまま告げた。

「以上でメンテナンスは終了です。お疲れ様でした」

 無言で段差を跨ぎ脇を通り抜けた彼の次第に遠ざかる足音に言い様のない寂しさを覚え、肩を落としてまたコフィンの裏に周り端末と基盤からケーブルを抜いて後始末を済ませてコフィンの影から出ると、何故か先程の場所で同じように腕組みして壁に凭れ未だその場に留まっている彼の姿が見え、ダヴィンチ女史に報告に向かう為に進めた歩みが止まってしまった。
 不審に思ったものの声を掛ける事はせず段差を登ると、それに倣って彼も後ろをついて来る。報告中も入り口に近いところで黙り込んでいる彼は私が出た後で女史に話でもあるのだろうか。

「では私はこれで。失礼します」
「おつかれ。デイビット君もありがとね〜」

 話があるのであれば邪魔であろうとさっさと退散しようとする私を他所に、彼は女史の言葉に頷き管制室を出る私のに続いて退室した。まさか私の作業が終わるのを律儀に待っていたのだろうか。それを裏付ける様に未だ私の後ろを歩きついて来る彼に、たまらず振り返り声を上げる。

「あの、」
「頬が赤らんでいる。僅かに息切れも見られるが、体調が悪いのか」
「え?」
「オレは医者ではないから詳しい事は分からないが、恐らくダヴィンチも同じ事を思っていた筈だ」
「少し熱っぽいだけです。ご心配ありがとうございます」

 何の表情も持たない彼は無関心そうな顔をして私を案ずる言葉を吐いた。ヴァイオレットに一心に見つめられるのは今の私には些か刺激が強すぎる。視線を逸らして誤魔化そうとしても、彼はその場を動こうとはしなかった。

「薬は飲みましたから」
「…レイシフトが無い今日は、どの部署もそれ程忙しくは無いだろう。明日に備えてもう休むといい」
「そんなに酷くありませんし…」

 何故彼が私の心配をするのか理解できないままに言葉を返していると、彼は煮え切らない態度を取る私の手首を掴んで半ば引き摺る様に私の所属部署が使っているルームの前に連れてきて、上長の元へ向かい「彼女は具合が悪い様だ。早退させても問題無いか」と疑問形にすらならない強引な文言を以て私の早退を許可を得た。私と親しいわけでも無い正規マスターが何故私の早退を願い出たのか分からないという顔をした上長に、ルームを出る為にまた引き摺られながらも何度も頭を下げた。

「あの、何処に行くんですか?」
「?君の部屋だが」
「送って頂かなくても大丈夫です。一人で歩けますから」

 彼の手が触れている箇所が焼ける様に熱く、側から見たら手を繋いで闊歩しているようにしか見えないだろうこの状況が気恥ずかしくて声を上げても彼の歩みは止まらなかった。居住区画に入り道中に伝えた部屋の前まで辿り着いた時、漸くこの胸の高ぶりから解放されるのだと安堵すると同時に彼の手が離れた煢然さを感じ、薄く声が漏れる。ロックを解除しドアを開けば彼はこの場を立ち去るだろう。当然の事なのにそうあって欲しく無いと願う自分が居る。

「如何した」
「いえ…何でもありません」
「伝えたい事があるのなら相手に伝えた方が良い。追々後悔はしたく無いだろう」

 口を濁した私を諫める言葉にふと顔を上げれば、其処にあったのは非難では無く何かを期待する焦がれるような彼の顔だった。霞掛かった脳内は言うべきでは無い言葉さえ言えと指令を出している。

「迷惑じゃなければ、眠るまで居てもらえませんか」

 視線の先のヴァイオレットが細められた瞼によって歪んでいる。
 結局その日は会話らしい会話をせず、彼はベッドに潜り込んだ私の側に黙って座っているだけだった。けれども確実に私達の距離は縮まっていき、風邪らしい症状が落ち着いた後も彼を前にすると身体が熱くなる感覚を覚える様になり、これは私が彼に恋慕を抱いているのだと自覚するまでそう時間は掛からなかった。
 休憩時も気付けば彼と共に過ごしていたし、夜はお互いの部屋を行き来して恋人のようなひと時を過ごす事もあった。彼、デイビットは抱いていた印象とは違いとても優しくて私を労ってくれる。久しぶりに感じる恋の甘さとに悦楽を感じ、私は着実に彼に依存していった。

 談話室にて、いつもは口元を隠す為に所持しているだけの本を開き文字を追っていたヒナコは、自身の元に近付いて来る足音に気付き頁からその顔を上げた。
 彼女の元にやって来たのは彼女が予想していた人物であり、彼の存在にさして驚く事はない。

「まさかあんたにあんな薬を頼まれるとは思わなかった。恋の霊薬なんて」

 本を閉じてローテーブルに置きながら呆れた様な声を上げたヒナコに対し、デイビットは意に返さず彼女の脇に腰を下ろし言葉を返す。

「よく効いた。腕は確かだな」
「そう、急拵えだったけど意外となんとかなるものね。食事にでも混ぜたの?」
「彼女がデスクを離れている間にタンブラーの中へ入れた」
「へえ。…でもせいぜい10時間しか保た無いのよ。そんな短時間で何する気なの」
「仕込んで終わる筈がないだろう。薬はただのトリガーだ。既に手は打ってある」

 平然と言って退けたデイビットは、人ならざる身であるヒナコにすら「人でなし」だと感じさせた。人の心というものは、複雑に見えて至って単純である。自身が抱く感情を好意であると思い込めば真に好意を持ち始め、嫌悪であると思えば次第に嫌悪し始める。其れを利用し、この男は意中の女を絡め取ったのだ。

「…私には関係のない事だからあんたに道徳とか倫理とかを説くのはやめておくわ」

 薬を作ってやったのは自分であるというのにやや軽蔑の色を瞳に浮かべてデイビットを睨める彼女の後ろでドアが開く音がし、振り向けば見知らぬ女が顔を覗かせ室内を見回しているのが見えた。女は此方に気が付くと表情を明るませ彼女の隣に座す男の名を呼ぶ。

「ではヒナコ。この礼はいずれ」
「…期待しないでおくわ」

 彼と共に出ていった彼女こそ件の女であると理解したヒナコは、瞳を覆う眼鏡のつるを摘んで外しソファの背もたれに背を預けて天井を仰ぎ見る。

「男も女も…人間ってのはどうしてこう愚かなのかしら」

 一人呟いた言葉は彼女以外誰一人としていない静寂の談話室に溶けて消える。彼女が馬鹿と評した者の中には自分も含まれていると理解しつつ、読書で疲れた瞳を癒すべく瞼を閉じた。