MermaidStrategy
「慰安旅行、ですか?」
「そう慰安旅行。私も知らなかったんだけど、福利厚生の一環で四年に一回企画してるんだって。とはいえカルデアをもぬけの殻にする訳には行かないから、此方で少人数の班を編成して、班ごとに順番に行って貰ってるんだ。で、次に出発するのが名字ちゃんが居る班ってわけ。あ、行き先を言ってなかったね。今年はなんと…ハワイだよ〜!仕事の事は忘れてパーッと羽根を伸ばして来てね」
微睡みを誘う穏やかな空気に満ちた昼下がりの医務室にて睡魔に襲われながら電子カルテを打ち込んでいた名前を自室に呼び出した万能人レオナルド・ダ・ヴィンチが、何やら怪しげな装置を弄る手を止め表情に不安を湛えたまま突っ立っている名前に向かって絵画の微笑を向けながらそう告げたのが三週間前の事。
目の前に広がるのは白い砂浜と頭上で燦然と輝く太陽に照らされ煌めく何処までも続く青い海面。
名前はハワイのとあるビーチに降り立っていた。
宿泊用の荷物は飛行機まで迎えに来たホテルのスタッフが運んで行ったので、彼女の手元に残っているのは海水浴に必要な道具のみ。至れり尽くせりな状況と最高のロケーションで有るにも拘わらず、名前の頭は混乱していた。
此処までの移動中にずっと目隠しをさせられていた事やこのビーチがカルデア所有のプライベートビーチであるという事も要因の一つであったが、それらは些事であり、名前が一番苦慮していたのはダヴィンチが編成した旅行の班のメンバーについてである。
ダヴィンチは名前にだけメンバーを隠しており、終始目隠しをされている中では誰が一緒に居るのか等判別出来なかった。唯一分かったのはカルデアを出発する際に挨拶を交わしたオフェリアのみであり、仲の良いオフェリア・ファムルソローネが居る事に対しては不満などなく寧ろ喜ばしい事で有った。しかし問題は現地に到着してから発覚したその他二名、キリシュタリア・ヴォーダイムとデイビット・ゼム・ヴォイドという人選だった。
“確かに自分は、シミュレーション設備を用いたトレーニングやメディカルチェック等で正規マスターAチームを担当するしている為に他のスタッフに比べて接触が多い事は事実である。しかし、其れを考慮してオフェリア並びにAチームのメンバーと班を組ませるのであれば、ろくに会話もした事が無いこの二名よりも自身と交流の多いスカンジナビア・ペペロンチーノや同性である芥ヒナコを入れるべきでは無いだろうか”と不満を募らせていたのだった。
対してオフェリアはと言うと、長いフライトで固まった身体を伸ばして南国の爽やかな風を大きく吸い込み、何とも気持ちの良さそうな声を上げた。
「良いところね。初めて来たわ。貴女は?」
「ハワイは二回目だけどビーチには初めて来た。写真で見るよりずっと綺麗」
「それじゃあ今日は思い切りハワイの海を楽しみましょう」
オフェリアは晴れやかな表情で名前の手を取り、未だに周囲を眺めている男集団を置き去りに熱砂を駆け出す。一歩踏み出す度に粒の細かい砂が弾けて舞い、太陽に照らされて星のように光って落ちる。確かに不満は有ったが、手を繋いで友人と砂浜を駆けるなど名前にとっては学生時代以来の事でありこのひと時だけでも旅行に赴いた価値を見い出せた。
砂に足を取られながら走り続け二人の息が弾み始めた頃にたどり着いたのはガーデンパラソルとデッキチェアが設えられた一角だった。砂浜の後方に広がる岩場をくり抜くように建てられたこじんまりとした建造物は、ビーチの入り口で分かれたガイドの話が確かであれば此処の管理を委託されている業者のものであり、コンシェルジュが常駐している。小さなバーやトイレ、シャワーが備え付けられた施設である。
建物の前で控えていたコンシェルジュらしい男性が二人を恭しく饗した。施設の説明を聞いた後で、デッキチェアに下ろしたバッグの中から水着や日焼け止めなどの必要なものを取り出していると僅かに遅れて男性陣が到着する。暑さをものともせず涼やかな表情をしている二人に対し、小さな建物を指差してオフェリアが声を上げた。
「シャワーやお手洗いはあの中にあるそうよ。場所を聞いたから一緒に着替えに行きましょう」
「ああ、それなら心配いらない。私はカルデアで着替えてきたからデイビットと此処で待っているよ」
「え!?」
驚愕で声を漏らしたのはオフェリアか名前か、はたまた二人ともだったかもしれないが、其れほどまでにキリシュタリアの発言は驚くべきものであったのだ。
出発地点から水着を着て来るというはしゃぎすぎた小学生の様な奇行を、あのキリシュタリア・ヴォーダイムがしているのだから無理もない。そしてそれをあのデイビット・ゼム・ヴォイドもしているというので驚きは増すばかりである。
二の句が告げないでいる二人を前に、眉を潜めてキリシュタリアを見遣る人物が一人。貰い事故の被害にあったデイビットは「心外だ」とでも言うような不機嫌さを乗せた声で抗議した。
「待て、オレは着てない」
「着てないのかい?君は私と同類だと思っていたんだが」
「着替え自体大して時間はかからないのだから移動中も水着を着ていなければならない理由は無いだろう」
「海で泳ぐなんてほぼ初めてだからね。浮かれてしまった」
「浮かれ過ぎだ」
「それじゃあ行ってくるわね…」
戸惑いつつも荷物を託すオフェリアの声に、ひらひらと手を振り返す彼を残して三人は着替えに向かう。道すがら、名前は声を潜めオフェリアに問うた。
「ねえオフェリア。もしかしてヴォーダイムさんって変な人なの?」
「変…というより仕事中とプライベートの温度差が激しいのかもしれないわ。たまに可笑しな事を行ったりするし。まあ、あそこまでの奇行は見た事がなかったけど…。キリシュタリアの事は私よりもデイビットの方が知ってると思うわよ。仲が良いから」
「特に仲が良いという訳でも無いが…。あのはしゃぎ様は普段の彼奴しか知らない人間が見れば驚くのも無理はないか。今回はオレも驚いた」
驚いたと言いつつもデイビットの顔に其の色は伺えず、名前は「へえ…」と気の無い返事をしただけで其れ以上聞こうとはしなかった。
正直に言って、名前はデイビットを苦手としていた。
特に何かをされた訳でもなく、酷い言葉を放られた訳でも無かったが、彼のように感情が顔に出辛い人間は、日本人らしく相手の顔色を伺いながら言葉や態度を選び会話をする名前にとっては接し方が難しいと感じてしまうのだ。特にデイビットは聞き上手であるから、口が滑って何か余計な事を聞いてしまいそうで恐ろしかった。
着替えを済ませた後は、各々に海を楽しむ運びとなった。デイビットはデッキチェアに寝そべってパラソルの下で読書をし、キリシュタリアは波打ち際で色とりどりの貝殻を拾っては投げ捨てを繰り返し、其の様子を眺めてそわそわとしていたオフェリアの背中を押して半ば強引に合流させた名前は一人で海に浮かんでいた。
コンシェルジュに用意してもらった大きな浮き輪の上で波に揺られ、気まぐれに掌で水を掬い上げてその煌きを楽しむ。波の音以外には何も聞こえない静かな世界であるのに、其の静寂は医務室の其れとはまるで違う。人類絶滅の未来がそう遠くないという恐怖すらも薄れてしまう程にこの場は酷く穏やかだったのだ。
名前は帽子のつばを抑えながら浮き輪にくくったビニールのポーチから、なんとなく煙草を取り出して火を点けた。
特別吸いたいと思った訳では無かったが喫煙が習慣になっている為に、手持ち無沙汰になるとついつい煙草に手が伸びてしまう。ライターの火が踊るように小さく揺れ動き、薄くもなく厚くもない梅肉色の唇から漏れ出した紫煙が空の青へと溶けていく。メンソールの清涼感と共に重いニコチンが器官を通って染み渡り、煙草の香りに浸るように瞳を閉じる。潮風と煙草が混じった匂いは、嘗て父に連れて行ってもらった故郷の海を思わせた。
「随分沖まで行くんだな」
遠い記憶に思いを馳せていた名前は、不意に聞こえた声に瞼を上げた。白目の日焼けを防止する為に掛けていたサングラスをずらしながら上体を起こして其方を見遣れば、浜辺で本を読んでいた筈のデイビットが海面から頭を出して紫色の瞳を向けている。濡れて萎れた髪の毛から水滴が流れ、整った顔を伝わって海へと戻っていく。澄んだ水に沈んだ身体には水面の揺らめきが影となって張り付いていた。
気配も音もなく直ぐ側まで近付いてきていた事にも、彼が自身に声を掛けてきた事にも驚きながら、一対一で話し掛けられては無視することも出来ず当たり障りのない返答をする。
「ヴォイドさん、いらっしゃったんですか。気付きませんでした」
「君が沖に流されているのを見掛けて声を掛けに来たんだ」
「目を閉じてたのはほんの数秒目なのに…離岸流でしょうか」
「人魚の仕業かもしれないな。君を気に入って連れさろうとしたんだろう」
前述した通り、デイビットと名前は業務以外では殆ど会話をしたことが無い。本当に心配して声を掛けに来たのだとしても、人魚などという冗談を言い合うような仲では決して無いのだ。
不自然な間が空いている事を気にしながらも、真顔で放たれた言葉に気の利いた返答を出来る気もせず驚愕を隠すこと無く率直な感想が口を突いた。
「すみません、貴方が冗談を言うとは思っていなかったので驚いてしまいました」
「冗談くらい誰だって言うだろう」
「ヴォイドさんはそういうタイプに見えなかったもので」
「…もっと沖に行くのか?」
「嗚呼、其れを教えに来てくれたんですね。もしかしてオフェリアに言われて来たんですか?」
ぷかぷかと浮かぶデイビットの顔から辺りに視線を巡らせれば、確かに浜辺からはかなり離れた場所まで来てしまっていた。とはいえ名前は泳ぎに覚えがある為、浮き輪に乗ったまま戻る事が出来なくとも最悪浮き輪を押して泳いでしまえば充分に帰れる距離である。勿論デイビットが其れを知っているとは思っていなかったし、彼が碌に話した事の無い女を案じる人間にも見えなかったので一番可能性の高い推論を投げかけた。
デイビットは何も言わず背泳ぎの格好をとって浮いている。
居心地の悪さを感じた名前は、煙草の灰が肌や浮き輪のビニールに落ちない様に先端を携帯灰皿の縁に打って灰を落としてからフィルターを咥えて一吸いした。
肺まで届いて器官を逆流した紫煙と共に聞こうとも思っていなかった質問が気不味さ故に唇から漏れ出していた。
「私と休暇を過ごしても楽しくは無いでしょう」
「何故そう思う」
「まともに話した事も無い女と海に来て楽しいんですか?」
「では君はオレと余暇を過ごす事に不満が有るのか?」
まともに話した事が無いのはお互い様であるのだから、確かに今の返答ではそう取られても仕方が無い。危惧していた「余計な事」を言ってしまったと、今度は煙草ではなく潮風を大きく吸い込んで、デイビットに気付かれないように溜息を吐いた。
名前は弁解に適切な文言を弾き出さんと必死思考を巡らせていたが、最適解は一向に出てこない。表情が読めない人間が苦手だと言う名前も大概ポーカーフェイスであるのだが、デイビットは彼女の内に隠れた焦りを悟ったのか、薄く笑みを浮かべて言った。
「君がオレに抱いている印象が如何あれ、現にオレは会話を楽しんでいる。今回の旅がオレにとって退屈か如何かはまだ分からないだろう」
「でも其れはオフェリアが心配してるから声を掛けに来てくれたのであって結果論じゃないですか。せっかくの旅行なんですから私の様な良く知らない人間と来るよりも気の合うチームメイトとの方がきっと楽しいでしょう」
「君の元まで来たのはオレの意思だ。君はオフェリアがオレを寄越したのだと勘違いしているようだが、彼女はキリシュタリアと貝を集めて回っている。君が此処に居る事にすら気付いていないだろう。それに泳ぎが得意である君であれば、この程度大した距離では無いだろう?」
「私が泳げるって知ってたんですか?」
「以前カルデアで泳いでいる姿を見た。フォームからして初心者ではなかったからそう推測したが、間違っていたか」
「いえ、仰る通り子供の頃に水泳を習ってましたけど…泳ぎに行くのはいつも深夜なのでまさか見られてたとは思わなくて。しかも、それなら尚更貴方が此処まで来た理由が分からないんですが…。普通は放っておきますよね?」
デイビットの行動と言動には謎が多く只でさえ真意を図りかねていると言うのに、彼の遠回しな物言いが彼女を更に翻弄し混乱を呼んでいた。此れがフレンドリーな人間であればいざ知らず、名前の中で、デイビット・ゼム・ヴォイドという男は特に危険に晒されている訳でもなく仲が良い訳でもない女の側まで来て必要のない会話をする人間では無かったからだ。
ぴたりと会話が止まり、二人の間には漣だけが聞こえる。今は問いかけに対しデイビットが答える番であったから、名前は彼から視線を逸してすっかり短くなった煙草をもみ消しライターも煙草の箱も灰皿も全てポーチに仕舞い込んで水面に放る。ポーチに内蔵した浮きはライターの重みに負けずきちんと機能して海を揺蕩い、時折海面に浸けた名前の指先に触れては離れを繰り返していた。
「君の瞳が好きだ」
「え?…あっ!」
デイビットの口から漸く出た答えは耳を疑う内容で、不意を突かれて驚きのあまりにバランスを崩した彼女の身体は浮き輪の上を滑り、飛沫を上げて海の中へと落下した。
ごぼごぼという音が耳に触れ、開いた瞳には海の青に散りばめられた水泡の白が映る。下ろしたままの黒髪が筆を滑らせた紙上の墨の様に弧を描き揺らめく様と顔から外れて水底へ吸い込まれて行くサングラスを見届けてから水面に顔を出して大きく息を吸込めば、デイビットは僅かな驚愕と愉快さを表情に浮かべ、彼女の頭から逃げ出した帽子をしっかりと捕まえながら名前の様子を眺めていた。
「そんなに動揺する事はないだろう」
「動揺というか驚いたんです!唐突にそんな事を言われたら誰だってこうなるでしょう!嗚呼、サングラスが…」
「確かに脈絡は無いな。語弊も有る。瞳其の物というよりは視線の運びが好ましいと言うべきか…。それにしても驚きすぎだとは思うが」
「視線の運び、ですか」
「他人に対する畏れや怯えを秘めながら其れを悟られまいと虚飾の自信を纏う歪さを感じる。まるで小動物の様な視線の運びだ」
「周りにはそんな風に見えていたんですか。気を付けないといけませんね。生意気な女だとは思われたくないので」
「カルデア内の君への評価は概ね良好の様だ。君が他人に対して上手く振る舞えている証拠だろう。注意深く観察しなければ君の内に有るものには気付く事は難しいだろうからな」
「それって、」
「…オフェリアが呼んでいる。そろそろ戻ろう」
名前が「私の内を暴いた貴方は私を注意深く観察していたという事ですか」と質問する前に彼が浜を見て声を上げたので、言葉は遮られてしま聞く事は叶わなかった。
デイビットが浮き輪を引いて泳ぎ出したので、名前はそのまま浮き輪を任せてゆっくりと浜へ引き返す。彼と並ぶ事はせず、少し後ろに着いて移動する。日焼けではない身体の火照りに気付かれたくは無かったのだ。
髪の毛から大粒の水滴を落としながら暑い砂浜へ足を踏み出せば、少し離れたところで貝殻を拾い集めていたオフェリアとキリシュタリアも丁度戻って来て、デイビットと名前という珍しい組み合わせに対し好機を孕んだ視線を向けた。
名前は其の視線を感じながらも気付かない振りをして、彼から浮き輪を受け取り素知らぬ顔でパラソルの下まで行き頬に集まる熱を散らそうと用意されていたカクテルを煽る。
出来れば自分にも彼にも何も聞かないで欲しかったが、彼女の願いとは裏腹にオフェリアは嬉々として名前の元まで駆けつけて問うた。
「ねえ名前、デイビットと何か話したの?」
何も言いたくは無かったが此処で渋れば何か有ったと勘ぐられるので要らない部分を選り分けて答える。
「沖まで流されたって心配して声を掛けに来てくれただけだよ。人魚に攫われたのかもって言われてちょっと吃驚しちゃった」
「デイビットはそういう冗談を言う顔には見えないものね。目を離している間に距離が詰まっていて驚いたけど仲間と友人が仲良くなれて嬉しいわ。旅行は始まったばかりなんだもの、余所余所しいの寂しいしね」
「別に仲良くなった訳じゃないんだけど…」
「それに貴女を気に入ってるのは人魚なんかよりも彼の方かもしれないわ。私の口からはあまり言えないけれどデイビットはいつも貴女を見てるのよ」
「え?」
「これ以上言えないわ。…もう日が傾いてるし迎えも来たみたいだからホテルに向かいましょう」
迎えに来たホテルのボーイに荷物を手渡し、名前は砂だらけの足でサンダルを履いて前方に揺れる杏色の髪を追いかけた。
すっかり傾いた西の太陽が海岸を真っ赤に照らす。場所は変わらないというのに太陽の位置一つで来た時とまるで違う風景になる。
けれども名前の視線は一変した景色よりもキリシュタリアと並んで彼女らの先を歩くデイビットに吸い寄せられていた。
光を受けて橙にも見える金髪を一心に見つめていると、彼は一瞬だけ横顔を見せ紫色の瞳を彼女に向けて微笑む。逆光を受けてよく見えない筈であるのに、柔らかく優しさが有りながら何処か挑発めいた色を持つ其の笑顔はしっかりと彼女の瞳に映り、彼を苦手だと感じていた自分も、濃密なひと時が二泊三日の旅の始まりに過ぎないという事も忘れて彼女の心臓は甘く締め付けられ、確実にデイビットを意識してしまっていた。
オフェリアの言う通り旅行は始まったばかりである。デイビットによって海でのひと時とは比べ物にならない程の出来事が今夜名前の身に起こるのであるが、其れはまた別の話。