夏至

 酷い倦怠感で力の入らない指先でカーテンの裾を持ち上げれば、窓の外は乳白色の夜明けを迎えていた。まだ午前四時を迎える前だというのに、月を残して西の彼方へと追いやられた夜は見る影もない。
 性行為は篝火に良く似て真っ暗だから燃え上がると言うのが私の持論であり、闇の中で体液に濡れた身体が清廉な陽射しに照らされれば情事の艶など只々厭らしく穢らわしく思えてしまう。
 窓の外を眺めて居る私の隣では、肌を交える前に脱ぎ捨てたジャケットの胸ポケットから取り出した潰れたソフトパッケージのマルボロを手にしたビリーが一本咥えてZippoを擦った。薄く開けていた窓の隙間からは、遠くを走る車の大袈裟なマフラーの音と湿った夏の匂いがして、煙草の匂いと混ざりあって鼻腔を擽る。

「夏って大嫌い」

 漏れた呟きは思いの外大きくて、一人で勝手に驚いて彼を見れば彼もまた驚いた顔で私を見ていた。

「急にどうしたの?」
「もう外が明るいから、なんか冷めちゃって」
「あんなに興奮してたじゃない」
「だからこそだよ。セックスの後は暗いのが好きなの。夏は夜が短いから大嫌い」
「ふうん。でも気分とは別に魔力は今までにないくらい高まってるよ?」
「そりゃそうでしょ。今日は夏至なんだから」

 夏至は魔力が高まる、というのは有名な話だ。魔女達は夏至の夜にサバトを開き、妖精達が集まって宴を催す夏の始まりは、私達魔術師にとっても特別な日だ。英霊でなければ魔術とは縁遠いだろう彼が、其れを知らなくても無理はない。
 全裸のままぶすくれた私を宥めるように、煙草を少し離してから薄い唇を落としながら彼は笑う。きっと馬鹿らしいと思ったのだろう。色っぽい紫煙の香りとは別に、彼の髪の毛からは柔らかい陽だまりの香りがした。

「僕は別に明るくたって構わないよ。君の肌が見られるし、むしろ大歓迎」
「ちょっと…っ、気分じゃないって言ったばっかりでしょ。もう疲れたんだってば」

 彼の指の間で燻る紙巻きを抜き取って唇に挟み吸い込んだ紫煙を顔に吹きかければ、彼は諦めたのか眉を上げて身を引く。片腕を頭の後ろに回して枕に沈み、私から取り返した煙草を咥えてぷかぷかとふかしながら、紫煙と共に声を漏らした。

「夏が嫌いなのは、夜が短いからってだけじゃないだろ?」
「まあね、暑いのも嫌。化粧がすぐに溶けちゃうから」
「あとは?」
「あと?それだけだよ」
「本当に?」
「何が言いたいの、」
「君は夏が嫌いなんじゃない、夏至が嫌いなんだ。夏至の夜は魔力が高まる。去年の夏至を覚えてる?」

 声音は柔らかいのに、何処か責めるような言い草をする。本来ならば私が嫌いな物は私自身が一番よく知っているのだから他人である彼に其れを言われる筋合いなど無いのだが、彼の言いたい事がよく分かっていた私は反論を飲み込んで曖昧を返す。

「よく覚えてない。どうだって良いじゃない」
「君がそれでいいなら良いけどね」

 いつの間にか此方を向いて眼孔に嵌った青に私を映す彼は、ビリーザキッドであってビリーザキッドではない。此の街で行われた聖杯戦争の為に私が引き当てたビリーは、酷く冷える冬の日に、ランサーによって打倒された。
 彼の温もりと陽だまりの香りが恋しくて毎夜涙を流していた私の元に、半年後の夏至の夜、彼が帰ってきた。
 あの日は雨が降っていた。髪をうねらす霧雨に腹を立てていたのを覚えている。
 食事を買いに外に出て帰宅すると彼は何事も無かったかのように、寝室のカウチに腰掛けて煙草を蒸していたのだ。初めは幻を見ているのだと思った。寂しさでとうとう頭がおかしくなってしまったのだと絶望し、爪先が冷える感覚がした。けれど彼は、玄関に立ち尽くす私に笑顔で駆け寄り、煙草の香りが色濃く残る口付けを齎した。
 彼は言葉を発せなかった。あんなに饒舌で皮肉を言っては私を笑わせていたのに、彼から言葉と言う概念をごっそり抜き去ったかのように、唇を動かし話を始める素振りすら見せなかったのだ。それでも暫く生活している内に、いつの間にか会話が出来るようになっていた。子供の様に単語を話せるようになって、徐々に会話が上達するだとかではなくて、気が付いたら以前の彼に戻っていたのだ。
 此の幻のような存在をなんと呼ぶのかは分からない。私以外に視認できない彼は元は英霊という非現実的な存在だったのだから、幽霊と言われても驚きはしないが、眼の前に居る彼は幽霊とも幻とも違うと頭の何処かで理解していた。
 彼が実際に存在しているのかは分からない。会話も食事もするし、触れ合うことも出来て体温や陽だまりの香りもする此の存在が現実なのか、考えようとする度に後頭部に鋭い痛みが走る。

「現実かどうかなんてどうでもいいって思ってるでしょ。其の通りだよ。現実と幻の違いなんて、見てる本人にだってわからない。君が求めたから僕が現れて、君は僕で安らぎを得ている。その事実だけで良いんじゃない?どっちにしろ、僕は二度と君から離れないし君も僕から離れる事は出来ない。君が死ぬまでずっと一緒にいるから。何も考えなくて良いんだよ。其の方が楽でしょ?」
「やっぱり貴方はビリーじゃないけどビリーなんだね」
「ビリーザキッドでもウィリアムヘンリーマッカーティJr.でも幽霊でも幻でも無い。君だけの僕って事にしておきなよ。ビリーが君にした事を僕はそっくり真似してやれるし」

 煙草の臭いも初夏の青い香りも現実なのに、自分は現実ではないのだと遠回しに言われている。死ぬまで彼と一緒なら、死ぬまでには彼の正体を突き詰める事が出来るのだろうが、私はきっと其れをしない。偽りの安寧と幸福に盲目になって、よく分からない存在であの寒い夜の悲しみに上書きしながら生きる事を選択するだろう。
 夏が嫌いなのは夜が短くて暑いし化粧が溶けて顔が砂糖がけのドーナツみたいになるからで、夏至が嫌いなのは考えないようにしていた“ビリーザキッド”の消失を思い出してしまうからだ。
 髪の毛に触れる柔らかな掌が心地よくて瞳を閉じても、夜明けの空は瞼を透かして光を齎す。
 目覚めた頃にはきっと彼が用意した遅い朝食を食べながら、此の夜のことはすっかり忘れて次の夏至の夜までは何の疑いもなく“ビリーザキッド”と共に一日を過ごすのだろう。