夏至

 夏が近づくと匂いに敏感になる気がする。三角コーナーで痛む野菜屑とか、排水口の奥から這い上がる下水の香りだとか、兎に角不快な臭いに意識を向ける瞬間が多いのだ。

 基本的に夜にしか立ち入らない浴室は、陽が有る内に入るとまた違った場所に見える。自然光に照らされた空間は、照明の光では出来ない場所に影が落ちていたりして違う顔を見せてくれる。たっぷりと水と洗剤を含んだスポンジを床に落として冷水の降り注ぐシャワーヘッドを翳してやれば人工大理石の浴槽はつやつやと光る。窓から降り注ぐ陽射しが水に融けて泡と共に排水溝へと吸い込まれていく様を見るのも、濡れてすうすうする手足に触れる湿気を孕んだ夏の風を感じるのも好きだった。掃除した後の浴室は水の清潔な匂いで満たされるのに、何処からか漂うすえた臭いが鼻につき思わず眉根が寄る。きっと台所の三角コーナーから流れてきた臭いだろう。虫が湧く前に片付けなくては。
 ラックからタオルを取って手足を拭き取り念の為に手を石鹸で洗ってリビングに向かうと、恋人はカウチに横たわり本を顔に載せて黙り込んでいた。きっと居眠りをしているのだろう。普段きちんとしている彼の気の抜けた姿に好奇心を擽られ、喉仏が浮く所に少し濡れている掌をぴたりと触れさせれば、身体の横に投げ出されていた腕が気怠げに持ち上がり顔を覆っていた本を僅かにずらした。端から覗くヴァイオレットの瞳には非難の色が滲んでいる。

「冷たい」
「お風呂洗ってきたから。気持ちいいでしょ?」
「オレは眠っていたんだが、おまえにはそうは見えなかったようだな」
「寝てたの?ごめんね、死んでるんだと思ったから」

 軽口に軽口で返してやれば小さな溜息が返ってきた。本を閉ざして座り直した彼の表情は眉根を寄せて口も真一文字に引き結ばれて居るけれど、付き合いの長い私はこれが決して怒っているではないと知っていたから、彼の脇に腰掛け今度は両手で首を覆ってやる。喉に親指を触れさせて、首を締める格好で熱を吸い取ってやった。

「満足したか?」
「ううん。でもそろそろ夕飯作らないといけないからやめる。今日は何食べたい?」
「何でも良い」
「何でも良いが一番困るって知ってるでしょ。またうどんにするよ」
「うどんは…」
「ね、嫌でしょ。肉とか魚とか、何でも良いから案出して」
「何でも良いが一番困る」
「ほんとむかつく」

 私の言葉を借りて小馬鹿にしたように笑うデイビットの肩を軽く叩いてから立ち上がりキッチンへ入ると、籠もった空間には風呂場で感知した悪臭が充満していてまた眉を潜める。窓を開け、気は進まないが腐敗臭の元を断つべく棚の中からビニール袋を一枚だけ引張り出してシンクを覗き込むと、三角コーナーには取り替えたばかりのネットが張られていて、野菜屑一つ入っていなかった。「あれ」とは思いつつも生ゴミの処理をしなくても良くなった事で用の無くなったビニールを元の棚に仕舞い込み、冷蔵庫の中から鶏肉と野菜達を取り出して調理に取り掛かる。
 夏場に揚げ物の調理をするのは気が引けたが、今日はそれ程暑くもなくて私自身が唐揚げを食べたかったから唐揚げと添え物を何種類か用意して、心地よい風が通り抜けるベランダにて食事を摂る事にした。

「やっぱり夜はまだ涼しいね」
「本格的な暑さは梅雨明け以降だろう」
「其の言い方、天気予報みたいでうける」

 唐揚げを器用な箸使いで摘み上げながら言うデイビットは、口調と行動が絶妙に噛み合っていなくて私の眼には滑稽に写る。彼はいつも堅苦しくてぶっきらぼうな話し方をするし表情の変化も乏しく、あまり人間味を感じさせない。それでいて時には皮肉も言うし私が巫山戯て見せれば笑ったり不機嫌になったりもする。私の事情に無遠慮に踏み入ったり、心無い言葉で傷つけたりもしない。
 彼は私の理想の男性なのだ。
 良く冷えたビールを注いだせいで涙を流すグラスコップを手にとって煽り、徐ろに夜空を見上げれば、月が綺麗に見えた。真っ黒の帳にぽっかりと孔を開けて真昼の光を放つ月の周りには、その輝きには敵わずとも淡く光る星が群れを為して静かに地表を濡らしている。

「ねえ、今年の夏も二人で花火見ようよ。貴方が人混み嫌いなのは知ってるからベランダでこうやってお酒飲みながら静かに。海にも行きたいね。滝でも良いかな。今年は暑くなりそうだし、取り敢えず水辺に行きたいな。そうだ、今年こそはシャチが居る水族館に行こうよ。貴方の運転で」

 ペラペラと要望を羅列する私を、デイビットは静かに傍観している。まるで他人事の様な、憐れむような、そんな眼で。
 彼の反応は寂しくあるが、此れは仕方が無い事だと理解している私は其れ以上何も話さずに黙々と皿の上の料理を片付けるに徹した。
 食事の後に一人で食器を洗っていると、何故か虚しい気持ちになる。自分で使った調理器具とか、あれだけ手間を掛けて作った食事も只の汚れになって私の手を汚すのが何とも言えない侘びしさを齎す。ふと鼻に付く此の悪臭も要因の一つかもしれない。
 食器を片付けてから濡れ手を払ってリビングへ行くと、デイビットがベランダから下りて来ていた。ビールの空き缶も中身の残りが僅かになったグラスもきちんと持って来て、長い足を組んでカウチに腰掛けて食事の前に顔に置いていた本に視線を落としている。
 背後に忍び寄って食事の前にしたように濡れた手を首筋に触れさせても、今度は期待通りの反応を見せる事無くゆったりと首を捻って私を仰いだ。

「お風呂入る?」
「オレは後で良い」
「じゃあ入ってくるね」

 柔らかな金糸の隙間に見える額に口付けを落として、私は浴室へ向かう。
 裸足が廊下のフローリングに張り付いて、歩く度にぺたぺたと好ましくない音を立てた。着替えも持たずに脱衣所へ入れば、あの腐敗臭が充満している。鼻が曲がりそうな程の悪臭の元は三角コーナーの生ゴミなどではない。嗚咽を齎す匂いの中で一枚ずつ衣服を剥ぎ、浴室の扉を開け放つ。
 臭いの元は此処だと、私は浴槽の掃除をしているつもりになっていた時点で理解していた。本当は夏の気配が近付くもっと前から臭いはしていたしこの臭いが台所から漂う物ではないとも知っていたのに知らないふりをしていたのはデイビットが居たからだ。
 裸のまま、茶気た汚れがこびり付いた床に座り込んで天井を仰ぐ。真横の浴槽には、もう原型を留めていない“彼”がカルガモの子供のようにぷかぷかと浮いている。黒ずんで溶けた肉には白い点が疎らに散って、良く見れば点達はうぞうぞと蠢いている。

「こんなクズでも命の糧になるんだね」

 嘲笑を孕んだ呟きが浴室に反響し、残滓を残して照明に溶け入った。
 “彼”というのは酷い男で、私に見えるように他の女に手を出して遊び回るクズだった。酒浸りで暴力も振るうし、いつも私を見下して、挙げ句の果に私の金を使ってパチンコに行く。それでも彼と別れなかったのは暴力が怖かったからという理由も有るが、単に一人になるのが怖かったからだ。彼と居ても幸せは得られないが、彼から逃げれば確実に孤独になる恐怖が頭を支配して、正常な判断を下すこと出来ないでいた。
 あの夜は今日のように涼しい初夏で、三日月が空に浮いていた。いつものように理由もなく殴られて憔悴していた私は、頭を打ってぼんやりしていた。彼に伸し掛かられて抵抗する内に興奮してきて、身体の中が熱くなり、持てる力一杯に彼を押し返したら彼が後ろ向きに倒れて、其の先に有った棚の角に頭を強打して動かなくなったんだっけ。
 幾ら呼びかけてもピクリともしない様を見て、言い様のない喪失感が押し寄せたが何処かすっきりしている自分もいて、この肉塊を如何処理しようか冷静に考える事が出来たのだ。
 一人では脱力した成人男性を運び出すことは出来ないから関節事に切り分けて少しずつ運んで、残り湯が張られた浴槽に放り込んだ。
 やっとの事で頭を運び、遺体を全部運び終えた所で話しかけてきたのがデイビットだった。
 何処から入ってきたのか、誰なのかも分からない紛れもない不審者なのに、「此の人は大丈夫」と本能的に感じ取り、私を縛る存在からの開放に安堵してデイビットの前で一晩中笑い続けた。

「そう言えば、あの日も夏至だったかも」

 天井を眺めているから口がだらしなく開いて、鼻からも口からも“彼”の香りが体内に入り込む。何処までも不愉快な男だ。
 “彼”から離れれば孤独になると思っていたが都合よく理想の男が表れた事でその不安も解消されたし、今の私はあのままでは絶対に知り得なかったであろう幸福を味わっている。
 夏至の夜に表れた彼が誰なのか、一年一緒に居ても未だに分からない。謎の中で一番大きいのは“彼”との思い出をデイビットが断片的に知っているという事だけど、彼と生活を共にする中で生まれる幸せの前では些事だ。

「名前」

 開け放たれた浴室の扉の前にいつの間に来たのかデイビットが立っていて、ぼんやりと喉を晒す私を見下ろしていた。逢魔ヶ時を思わせる瞳は冷たく、其の表情には一切の感情が無い。

「はあい」
「そろそろ出た方が良い。逆上せるぞ」
「うん、もう出るよ」

 脱衣してから何もしていないのに脱衣所に上がって彼の眼の前に立つ。僅かに上下した喉仏が厭に扇情的で熱を奪った時のようにゆっくりと手を伸ばせば、彼は身長差を埋めるように腰を折り、従順に首を差し出す。喉元に添えた親指に力を入れてじわじわと締め上げても顔色一つ変えやしない。

「ねえ、此のまま締め上げたら貴方も死ぬの?」
「オレの死はおまえの死と共にある。これでは死ねない」
「私が死なない限り貴方は一生私の側に居るのね」
「オレはおまえの望む通りに存在する。花火も海でも滝でも好きな所に連れて行こう。ただ、今年は浮き輪を流されないようにな」
「…やっぱりいい。貴方が此処に居てくれるだけで」

 曖昧に微笑んでから、首を掴む手を頬へ移して眼前に迫る彼の唇を喰む。体温の一切無い薄い唇は僅かに震えて甘みがあった。
 彼の言葉に素直に喜べなかったのは、海での出来事も、滝も花火も水族館も全て数年前の“彼”との記憶であり、浮き輪を沖に流されたことなど彼が知っている筈が無い思い出だから。
 生きているのか死んでいるのか、現実なのか幻なのかも分からない彼と吐息を交換しながら息継ぎをすれば、室内の腐臭と彼の体温で温まったムスク、そして廊下の奥から吹き抜ける夏の夜風の香りがした。