夏至
「お待たせしました。ご要件は…いいえ、聞かなくてもわかります。皆さん同じ事をお聞きになりますから。六月二十二日の事、それに付随して私が見えている物を知りたいのでしょ?時間もあまりありません。全てお話しましょう。
六月二十二日の夜は月が綺麗でしたね。仕事が終わって家に変える道中、夏の香りを孕んだ涼しい風が吹いてとても気分が良かったのを覚えています。月明かりに照らされて星団みたいに煌煌光るアスファルトを踏みしめて愛する人が待っている家を思うと、今日有った嫌なことなんて全部忘れられる気がして。…嫌な事ですか?参加を有耶無耶にしていた飲み会を断ったら上司に嫌味を言われたんです。まあ、大した事ではないんですけど。
夫には遅くなると伝えていたんですが、夕食も用意せず自分だけが楽しむなんて悪いじゃないですか。だから今日は週末に買って冷凍しておいた鮭を焼いて肉じゃがを作って、なんて考えながら家に向かってたんです。
耳障りな金属音と共に開いた玄関の内側には、夫の革靴とスニーカー、私のパンプスとつっかけのサンダルが揃って私を出迎えてくれました。いつも通りのの光景です。けれど、あの日は“いつも通り”に不純物が混じっていたんです。10cmヒールのミュールでした。私は8cmヒールを好むので、そのミュールは絶対に私のものではないんですよ。嫌な予感がして、黒い仕事用のパンプスを脱ぎ捨てて家の中を駆け回りました。夫を探していたんです。私ではない女と共に居るであろう夫を。
真っ暗なリビングにはいませんでした。浴室にもいません。トイレにもいません。
彼は私達夫婦の寝室に居たんです。私の帰宅に気付いたのでしょう、慌てて下着を身に着けようとしていた女性は、私よりもずっと女らしい色っぽい体つきをしていました。申し訳無さそうな、気不味そうな顔をした女性とは反対に、裸のまま神聖なベッドの上に横たわって煙草をふかしていました。呆然と彼を眺める私の脇を、衣服を抱えた女性が駆けていきます。
何をしているのか、私は彼に問いました。そうしたら、彼は一切悪びれる様子もなくこう答えたんです。
お前じゃもう勃たない、と。
怒りも憎悪も屈辱も感じる間もなく、気が付いたら彼は死んでいたんです。真っ白なシーツもベッドサイドのランプシェードも、私の体も彼の体も真っ赤になっていました。飛び散る赤が綺麗で、ずっと見ていたいと思いました。そうそう、私は赤い色が一番好きなんです。彼女も赤が好きなんです。
彼女の話をしましょうか。貴方が一番聞きたいのは彼女の話でしょう?
私の隣にはいつも彼女が居るんです。世間は精神疾患だと言いますけれど本当に居るんですよ。私が幼い頃からずっと一緒なんです。幼少期はままごとを、いじめの標的にされていた学生時代は毎晩私を慰めてくれましたし、社会に出てからも私の支えになってくれました。私をいじめていたクラスメイトはひとり残らず“原因不明“の怪我をして私を恐れるようになりましたし、私をいびって笑っていた上司は“不運”な事故で亡くなりました。きっとあれは彼女の仕業だったんでしょう。
彼女の名前ですか?私にはカーミラと呼ばせていました。そう、シェリダン・レ・ファニュの女吸血鬼と同じ名前です。カーミラは名の通り、淡雪の白さを湛えた肌と、猫のように細い瞳孔が沈んだ黄金の瞳を持っています。彼女はおとぎ話のお姫様よりも愛らしく、神話の女神よりも気高い、本当に美しい女性なんです。私以外に見えないなんて信じられないし勿体無いと思う程に。貴方も彼女を見たらきっと魅入られてしまう筈です。
先程も言った通り、彼女はいつでも私の味方をしてくれるんです。どんな私も受け入れて、どんな時も寄り添い慰めてくれる。
夫の不貞を目の当たりにした私の脇で彼女も其の様子を見ていました。私を愛し何よりも慈しんでいた彼女は、夫の裏切りに対して私よりも怒り、憎悪し、そして彼を殺めてしまったんでしょうね。
…何です?殺したのは私だ、と?
いいえ、私は殺していませんよ。貴方は彼女の存在を疑っているみたいですけど、彼女は本当に存在するんです。私以外には見えないだけで、居るんですよ。
罪の意識は…無いと言えば嘘になりますね。私の為にカーミラの手を汚させてしまった。夫が死んだのは自業自得ですから、それに関しては特に。
まあ、刑期を終えるまでは規則正しく獄中生活を楽しみたいと思っています。辛くなんて有りません。私には彼女が居ますから。
彼女は居ますよ。ほら、今だって私の脇に立って貴方を見ていますよ。黄金の瞳をぎらつかせて貴方を睨みつけているじゃないですか。
でも、大丈夫です。私が檻に入っている間は彼女も此処から出られないんです。きっと私の事が心配なんでしょうね。だから貴方が彼女に殺される事は有りませんから安心して下さい。
其の恐怖は、私が此処から出た年の夏至の夜まで取っておいて下さい。
もう時間のようですね。これ以上話す事はありませんからもう来ないでくださいね。失礼します。
行きましょう、カーミラ。今日は何をして遊ぶ?」
虚空に話しかけながら嬉しそうに微笑む名字名前は幽鬼のようで酷く恐ろしかった。自身の夫の眼球をボールペンで抉り出し、腹を裂いてベッドの上に内蔵を撒き散らした女は、存在しない女に向かって無垢な笑顔を浮かべている。誰の目から見てもあの女は正気ではない。
乖離性同一障害と診断された名字は刑事責任能力は限定的との判決を受け、五年後には出所する。
あそこまで凄惨な事件を起こした人間は令和どころか平成の世にも居なかった。『夫殺しの名字名前』は、後世に語り継がれる存在となるだろう。
私は彼女の言葉を書き留めた手帳を閉じ、何処か晴れない気持ちと共に手帳を鞄に仕舞い込んで冷ややかな面会室を後にした。