Dirtyhero
正午の院内は、休憩に出る者や昼食の配膳をする職員、食堂へ動く患者や見舞客で騒々しく人の気配に満ち満ちていた。
名前は、書類を届けにナースステーションへ向かっている最中に一緒になった仲のいい看護師と「寒くて毎日嫌になる」だとか「忙しくて滅入る」だとか然もない会話をして4Fからエレベーターが降りてくるのを待っていた。彼女が、沸き立つ水面のように音が犇めき溢れかえる空間にうんざりしながらもアナウンスと共についた頭上のランプをふと仰いだ瞬間にテープの一時停止のように今まで聞こえていた院内の喧騒もアナウンスも全てが止み、妙に思って振り向くと会話をしていた看護師は話の最中に浮かべていた穏やかな笑みのままその場で静止していた。一瞬理解ができず思考回路が凍結したが、彼女だけではなく窓の外で羽ばたく鳩や誰かが取り落としたボールペンなどその場にいたモノすべての時間が止まっている事に気が付いた。
脳が理解するよりも先に足は動いていた。走りながら気づいた事は、これは固有結界の類で、それを展開できるのは高度な魔術師だ。そんな魔術が“名前”に行使されなかった理由は一つ。名前を標的にしているからだという事で、名前は宛も無く構内を駆けながら、往来で敵マスターからの襲撃を受けた事に驚き酷く動揺していた。
フロアにはどこにいるかも分からない敵から出来るだけ離れるために走る彼女の足音と喘ぎだけが鉄筋コンクリートの壁にしつこく響き焦燥を煽り、窓から見える澄み渡った空は穏やかで現状も相俟って不気味であった。太陽は煌々と燃えリノリウムの床に窓枠と階段を駆け上がる名前の影を濃く焼き付けどこまでも睨み付けていた。3階の扉を半ば殴るように押し開け、すぐ近くにあった配膳ワゴンで扉を抑えて自身はナースステーションのカウンター裏へ身を潜めた。
耳に届くほどの鼓動と浅く激しい吐息で場所がばれてしまうのではないかと思うとそれらはますます大きくなって、血の気が失せて掌が冷たく汗ばんでいく。夜襲は何度もあった様だが、全てガンナーが処理し自分で迫り来る脅威を目の当たりにした事が無かった彼女は冷静さを欠いており次に何をすべきか判断が出来ないでいた。
諦めて帰ってくれる奇跡を思い声が漏れださないよう口を両手で押さえ込みじっと瞳を閉じてこの異常が解けることを願うも遠くで聞こえた革靴のような足音に肩がびくりと跳ねた。足音はすでに名前の居場所が分かっている様に、迷いなく、確実にこちらに向かってきていた。名前は居てもたってもいられず、音が出ないようにサンダルを脱いで、足音とは反対方向へ移動を始める。呼吸は依然ふうふうと野を駆けた兎のように落ち着かず、目の際には零れんばかりに涙が溜まって視界が歪み恐怖で足が震えた。病室に逃げ込んだ所で魔術師の前では施錠など無意味だ。先ほどから令呪で呼び出してもサーヴァントからの反応がないところを見ると、この結界は結界内から結界外への魔力の干渉を絶つ何かが仕掛けられているのだろう。そっと鉄扉を押し開けて階段へ出ると元来た階下へ一気に駆け降りる。
このまま無様に殺されるのだろうか。考えただけで気を失いそうな恐怖。嗚咽を漏らしながら、死にたくない一心で足を動かし続けた。硝子張りの渡り廊下はこんな状況でも美しく、天井にあしらわれたステンドグラスの中で微笑む聖母マリアは異様で気味が悪かった。
「御嬢さん、鬼ごっこはお終いですか。」
聞こえた声に慌てて振り向くと、廊下の突き当たりに差し込む太陽を燦々と受けて煌めく黒衣の男と大きな杖を携え、目元にはマスクを、ボンテージにドレスを組み合わせた様な服を着た、肌も髪も透ける程に白い女が立っていた。足音の正体は此奴等だったのだ。走り去ってしまわなくてはならない。一刻も早くここから逃げなくてはいけないのに恐怖で体が動かない。目を見開いて立ち尽くす名前に、男は笑いながら、一歩、また一歩と近づいてくる。
「貴女のサーヴァントがどのクラスかも存じませんし貴女の様にか弱い女性を痛めつけ剰え殺してしまうだなんて心が痛んで仕方が無いのですが。敵は少ないに越したことはないので少し死んでいただきましょうか。」
「あら、もう殺してしまうの?それなら私が、」
「いいや、私がやる。一度女を殺してみたかった。君は飽くほどに経験したのだろう。」
「殺戮に飽きは無くてよ、マスター。」
「そうか!それなら御嬢さん。どんな死に方をお望みかな!私としては時間をかけて殺したい!まずは命呪が宿ったその愛らしい舌を焼いて…。」
銀のフレームの内側の瞳は燃えている様に紅いのに視線は氷雪よりも凍てつき、名前を人とも見ていないような口ぶりで淡々と排除すると告げた彼は如何にも魔術師らしい魔術師で、喉の奥から声にならない声が漏れだす。とうとう立っていられなくなって腰が落ち、勢いよく臀部を打ち付けたが痛みは感じなかった。恍惚とした表情でダンスをするようにゆらゆらと近づいてくる男を、冷たい床に尻をついてただただ見ていた。生きたまま痛めつけられ弄ばれてじっくり殺されるのに、体がまるで言う事を聞かない。
もう二人との距離は10M程になっていて立ち上がって踵を返して駆け出したところで間にあわないと、名前は涙を零して死を覚悟し、嫌に神々しい淡黄の光と狂った魔術師が最後の光景なのだと目を見開いて焼き付けようとした。
その瞬間に、地獄の底の咆哮のように地を揺らす轟音と共に、黒い獣が廊下の側面の硝子を破って双方の間に立ち塞がった。粉々になった硝子達は日光を受けて輝き祝福するように散り散りに降り注ぎ軽やかな音を立てて床に爆ぜる。
黒い獣は、黒光りする身体に無数の配管を抱え太いタイヤで地を駆ける大型のオートバイだった。轟音の正体はその駆動音で、排気管を震わせて先ほどまでの名前の鼓動の様に脈打っている。呆然とその様を凝視する彼女に向かって騎手は漆黒のフルフェイスを脱ぎ去って振り向き、勝ち気で闘志を燃やしたその瞳に彼女を映して言った。
「マスター、おまたせ。」
ライダースーツを身に纏った黒づくめの騎手、基ビリーザキッドは脱いだヘルメットを名前に投げ後ろに乗るように促し、太もものホルスターから愛銃を引き抜き敵マスターに銃口を向けて相手のサーヴァントに向かって声を張り上げる。
「僕の射撃は必中だ。魔術での防御なんて関係なくお前のマスターをぶち抜く。でも僕のマスターは今此処での戦闘を望んじゃいないのさ。…見逃してやるからさっさと失せな。」
「アーチャーはすでに仕留めたはず…。お前は何だ?」
「そんなにお喋りが好きなら、目と目の間にもう一つ口を開けてやろうか?お前達がこの場を退くか、僕が引き金を引くかを特別に選ばせてやってるんだぜ。」
「どうせハッタリだ。クラスの無いサーヴァントがそんな弾丸を持っているわけがな」
鞍に跨る彼の腹に手を回し、フルフェイスのバイザーを開けて状況を見ていた名前には今の一瞬が数十秒に感じられた。そのくらいはっきりと、ゆっくりに見えたのだ。黒革に包まれた指が引き金を引き、撃鉄が打ち鳴らされて銃口が火を噴き反動が彼の腕を伝って肩を押す。放たれた弾丸は仮面に隠れた眼孔とその隣にいた男の左肩と右の腿を貫き、廊下の突き当たりの窓ガラスを道連れにして消えた。衝撃で外れた仮面の下は、精巧な人形のように美麗で冥府の冷気を体現したかのような恐怖をもたらす。見開かれた金色の瞳は確かに絶命しているのに強い憎しみや恨みを孕んで名前を射殺し、銀の粒子となって宙へ消えた。
「腰抜け、アサシンの真名は?」
「痛、いだいッイヤだ!!死にたくない!!!!」
「はは!!さっきまでの威勢はどこに行ったんだろうね。」
「殺さないでェ…嫌だ死にたくないッ…!!」
「それはさっきも聞いたよ。思考を止めるな。口を閉ざすな。喚き続けろよ。僕への命乞いはお前が唯一生き延びる手段だ。」
ヘルメット越しに聞こえる彼の声は、名前のベッドで共に眠り、部屋で朝食をとって快活に笑う少年のそれではなく、命を奪うことを躊躇しない悪漢王そのもので、背筋に稲妻が走る。足を撃ち抜かれ、その痛みと出血量に狼狽しひたすらに泣き叫ぶ男に憐みの視線と銃口を向けながら「なあ、質問には答えろよ。聞かれたことには正確に答えろと、お前のママは教えてくれなかった?」と柔らかな声音で語りかけ、今度はゆっくりと丁寧にもう一度同じ質問をする。
「アサシンの真名は?」
「カーミラ!!!!カーミラだ!!!」
「…そうか。カーミラ、君は気高い女性だった。生前の行いは僕が言えたことじゃないから省くけれど、此度の聖杯戦争に参じた君は、愚図の三流に召喚された哀れな女性だ。君の無念は、君を殺した僕が晴らすよ。」
雷鳴が轟く。彼のいう通り、額に大きな瞳をあけた男は、涙で頬をしとどに濡らし、口を開けながら糸の切れたマリオネットの様に真後ろへ崩れ落ちた。絶命した男から視線を外さず、ホルスターへ銃を仕舞うビリーが何を思っているのか、名前には分からなかった。
「アーメン。」
廊下の突き当たりの鉄柱に取り付けられたスピーカーから誰かを呼び出す院内放送が流れ出す。術者の死で固有結界が解けたのだろう。この散乱した場所とこの死体と共にいるところを見られるのは非常に上手くない。
「マスター、帰ろうか。まずは教会に連絡しなくちゃ行けないけど。」
「…うん。帰ろう。」
名前の返事は囁く程に小さく、吐息を含んでいたが、ビリーはそれで満足だった。腹を抱き、敵の死に涙を流す主人のバイザーを下ろしてから、アクセルを回し、黒い獣に跨ってその場を後にした。