咎の森 01
夜の帳は雨を齎した。しとどに濡れたアスファルトが黒曜石の様に街灯を反射して不規則な煌めきを見せる。
名前は、自身の恋人と彼の「運命の番」を名乗る女が肩を並べて歩いている様を、虚ろな目で凝視していた。
春の雨と眼の前で行われている裏切りは早鐘を打つ胸の芯と指先から熱を奪い、傘の柄を握る冷たい手は白む程に力んでいる。
初めから、恋人に絶対的な誠実さを求めていたわけではない。相手がαである以上、いつかこの関係が破綻する予感は、常に心の片隅にあった。それでも、共に過ごした時間は、名前にとってかけがえのないものだった。
『運命には逆らえない』
彼の隣で優越に微笑むあの女の声が、繰り返し名前の脳内で木霊する。降りしきる雨音は、まるで名前の心に開いた無数の傷口から溢れ出す悲鳴のようだった。
二人の影は遠ざかる程に鮮明さを増し、名前の視界を鈍色の絶望で塗り込めていく。運命という抗えぬ力の前で、自身の存在はあまりにも脆く、春の雨に打たれる花弁のように踏みつけにされる。
行き交う人々は傘の下、それぞれの日常へと急ぎ足で過ぎ去っていく。その喧騒は名前の世界だけが静かに崩壊していく様を、より一層際立たせていた。
雨音だけが容赦なく降り注ぎ、打ち砕かれた名前の心に、深く染み渡っていった。
一.
休日の午後、新宿バルト9にて。
水滴にまみれた紙カップを片手に大きなスクリーンを凝視していた名前 は、多少なりとも楽しみにしていた作品のあまりの出来の悪さに、これ以上此処に留まるのは時間の無駄遣いだと悟った。
原作は気に入っていた小説だった。原作の情景描写や、散りばめられた伏線を最終的に事細かに回収していく爽快さが好みであったのに、今回公開された実写映画は、陳腐なメロドラマと成り下がっていた。αとβの固い友情が魅力であった主人公達は、αとΩに改変され、当然のように恋人関係にある。
名前は、αとΩがシーツに包まり甘い言葉を囁きながら口付けを交わしてるスクリーンから逃れる様に、空のカップと荷物を掴むと足早に劇場を去った。
鞄から取り出した端末の電源を入れながら人気(ひとけ)の多い商業施設エリアを抜け、出入り口の自動ドアを潜れば、南に天高く輝く太陽がちかちかと瞳を刺激し、思わず瞼を細めた。家を出る時は肌寒かった外気は、映画館を出る頃には穏やかな陽気となっていた。休日ということもあり、往来は賑やかで家族連れやカップルが商業ビルへ続々と吸い込まれていく。
沈丁花と砂の匂いが乗っている春の風に吹かれ、軽い足取りで道を行く散歩中の大型犬の愛らしさに、落胆していた心と強張った表情が次第に解れていく感覚がした。
春の街は、まるで一枚の絵画のように華々しく、長い冬の終わりに皆が歓喜している様に見えた。色づいた花々と淡いヴェールのように人々を包む優しい陽気と、コートを脱いだ人々の華やぎが、穏やかで幸福な情景を描き出している。
その古びたビルは、新宿の喧騒からほんの少し離れた場所にひっそりと佇んでいた。御苑の新宿門から大通りを挟んだ向かい側、新しいオフィスビルや商業施設が立ち並ぶ中で、その存在はまるで時代に取り残されたかのようだ。陽光が新緑の葉を通して降り注ぎ、アスファルトを斑に照らしているが、そのビルだけはどこか陰影を帯びている。
古びた階段は一段踏むごとに軋む音が響き、壁には色褪せたポスターや落書きのようなものが残っており時の流れを感じさせる。階段を上るにつれて微かにコーヒー豆の香りが漂ってくる。
三階への踊り場に辿り着くと、そこには古びた木製のドアが静かに佇んでいた。中央には、使い込まれた真鍮製の丸いドアノブがくすんだ光を放っており、足元には営業中の木の札が立て掛けられている。
重厚な木の扉を押し開ければ、コーヒーの芳醇な香りとピアノ曲のゆったりとした旋律に包まれた。
此処には名前も何度も訪れた事があった。 金のタッセルに纏められた重厚な別珍のカーテンとよく磨かれた飴色の家具、バーガンディの壁紙に設えられた風景画など、古い洋館の一室を思わせる店内は、非日常を感じるが何処か落ち着く空間だ。
来客に気が付き寄って来たウェイターに待ち合わせである事を告げる。店内を見渡し一番奥の窓際にあるソファ席に連れ合いの姿を見つけると、席を指し示した後でケーキセットを注文して席へ向かった。
徐々に近付く見慣れたシルエットの男性。日光を浴びて金色に輝く髪が、その存在を際立たせている。
彼は窓を向いて設えられた二人掛けのソファに腰を落ち着け、銀色のフレームの眼鏡をかけて真剣な眼差しで文庫本のページを追っていた。窓から差し込む柔らかな光が、彼の横顔を優しく照らし美術品を思わせた。時折、長い睫毛がレンズの下で蝶の様に羽搏く。テーブルの上で湯気を立てるカップも相俟って、絵画と見紛う美しさだ。
「デイビット」
名前が囁くと、男はゆっくりと顔を上げた。 金糸の髪の隙間からアメジストの瞳が彼女を捉える。一瞬、読書の世界から引き戻されたような、どこか散漫な表情を浮かべたが、すぐに柔らかな微笑に変わった。
名前が彼の隣に空いていた席に腰を下ろすと、革張りの椅子が静かに沈む。
「ごめん、お待たせ」
「予定より早いな」
「つまんないから抜けてきた」
デイビットは手に持っていた文庫本に栞を挟みテーブルの隅に置いた。繊細なデザインの装丁に視線を奪われている名前に気が付き、自身も手元に視線を落とす。
「ヴァンサン・ルルー、咎の森だ」
「初めて聞いた。どんな話?」
「十五世紀フランスの身分違いの恋愛がテーマの話だ……なんだその顔は」
「デイビットが恋愛物読んでるの見た事ないから珍しいと思って。面白い?」
「もう読み終わる、読んでみると良い。お前が思っている様な話ではないから、恋愛物が苦手なお前でも読めるだろう」
「そう?じゃあ貸してほしい。返すの二か月後くらいになるかも知れないけど」
「構わない。前回の森崎髏も今日で三か月目だ、覚悟はしている」
「ごめん、あと十ページくらいで読み終わるの……」
彼の皮肉に名前が決まりの悪そうな顔を見せた刹那、生成りのエプロンを下げたウェイターが落ち着いた足取りで二人のテーブルにケーキセットを運んできた。四角い白い皿の上には、ホイップクリームが添えられた淡いベージュのシフォンケーキが行儀よく佇み、つるりとしたカップに注がれた香り高いコーヒーは湯気を立て、その脇には小さなミルクピッチャーと砂糖入れが添えられている。
「お待たせいたしました。本日のケーキセットはオリジナルブレンドとプレーンのシフォンケーキでございます」
ウェイターの控えめな声が静謐な空間にそっと響き、説明を終えると丁寧に頭を下げてその場を後にした。名前は銀色のフォークを手に取り、目の前に置かれた白いホイップクリームと淡い色合いのシフォンケーキを慎重に切り分けた。小さな一切れを口に運ぶと、舌の上で繊細な甘さが広がり、良質な卵のふくよかな風味と、焼かれた小麦の優しい香りが鼻腔をくすぐる。
もう一口とケーキにフォークを立てた瞬間、名前はふと一点に注がれる熱い視線を感じた。顔をゆっくりと上げると、湯気を静かに立ち昇らせるカップを片手に持ったデイビットが、レンズの奥からじっと、まるで時が静止したかのように名前を見つめていることに気が付いた。
「……食べる?」
思わず漏れた言葉に、彼は一瞬目を見開いたが少し考えて頷く。
名前がフォークを差し出すと、フォークを握る滑らかな手を自身の温かい掌で掴みそれに合わせて顔を寄せた。先端の小さな一切れを口にし、呆気なく解放された手の熱と所作の優雅さに、名前は僅かな緊張を感じていた。
二度、ゆっくりと味わうように咀嚼し喉を通した後、デイビットは静かにコーヒーカップを口元へ運び一口啜った。湯気が彼の眼鏡のレンズを僅かに曇らせる。カップをソーサーに戻すと、穏やかな声で名前に問いかけた。
「ところで、今日は好きな作品の映画を見に行くと聞いていたんだが。つまらなかったと」
「うん、つまんなかった」
「原作は何度も読んでいただろう」
「全然違う話になってたの。お金の無駄って感じ」
「そうか。オレは無駄な金を使わずに済んだな」
「貴方も原作読んだよね?絶対見ないほうがいいよ。キャラの性格も設定も真逆にされてて、最後はただのラブストーリーになってた」
「お前は恋愛に関してはリアリストだからな」
デイビットが何気なく放った一言に、名前は喉の奥がつかえたように言葉を失った。
彼は「SF作品が好きな割にラブストーリーやヒューマンドラマにはリアリティを求める」という皮肉のつもりだったのだろうが、名前が恋愛においては現実主義者である事は紛れも無い事実だった。
彼は名前にとって理想的な恋人だった。彼は完璧を体現したような男だ。名前を思いやり、紳士的で知性もあり趣味も合う。何より、名前は彼よりも美しい男を見たことがなかった。
しかし名前の心には、見えない壁が築かれていた。
交際を始めてすぐにデイビットがαだと気が付いた瞬間、それまで温めていた未来への想いは、脆くも崩れ去った。彼の存在は、いつか現れるであろう“ふさわしい”βと巡り合うまでのかりそめの時間のための存在へと、無意識のうちに貶められていった。
深い感情の淵に足を踏み入れることを恐れ、名前は二人の関係に、そっと蓋をしたのだ。
「そうだね」
名前は平静を装って答えたが、デイビットはその唇が僅かに戦慄いている様を認めていた。
デイビットが訝しく感じ何かを言いかけようとしたその瞬間、背後から彼の名を呼ぶ聞き慣れない女性の声が響き渡った。二人の視線は、まるで磁石に吸い寄せられるように、声のした方へと一斉に向けられた。
「偶然ですね」
ソファの脇に控えめに立つベビーブルーのニットに白いロングスカート姿の女は、愛らしい素朴な顔立ちに似合わない挑発的な眼差しを名前に向け、遠慮のかけらもない態度でデイビットに話しかけた。その声は蜜のように甘く、それでいて確信に満ちている。
名前には、女のデイビットに対する並々ならぬ好意を察知し、無意識に彼の腕をとる。大切なものを守るような、小さな抵抗だ。
デイビットは名前の腕を引き寄せ、女の不躾さと遠慮のない好意的な態度に、不愉快を隠す様子も無く思い切り眉を潜めた。
「二度とオレに関わるなと警告した筈だ」
「ごめんなさい。お邪魔でしたか?」
「何故此処を知っている」
「ケーキでも食べようかなと思ってたまたま入ったんです。そしたら貴方が居て……やっぱり運命の番ってすごいですね」
恐ろしいほど温度の無く鋭い言葉が、デイビットの唇から次々と放たれる。名前はその豹変ぶりに息を呑み話を聞いていたが、女が口にした「運命の番」という言葉がの耳朶に触れた瞬間、名前の感情は一瞬にして凍りつき、心臓は鉛の様に重く沈んでいく感覚がした。
「こちらは?妹さん、ではないですよね。お友達ですか?」
「オレの恋人だ。お前の出る幕は永久に来ない」
「ああ……彼女」
血の気が引き張り詰めた面持ちで固まる名前を、女は静かに頭の先から足のつま先までゆっくりと舐め回すように見つめた。そして、女の唇の端が僅かに歪む。それは声にならない嘲笑だった。言葉を持たないその笑みは、名前の凍り付いた心を深く抉る。
そして女が再び口を開こうとした瞬間、遮るように立ち上がったデイビットが声を上げる。
「まだ居座るつもりか?もう一度警告してやる。二度とオレに関わるな」
「ええ?でも、」
「彼女を侮辱するのは許さない。失せろ」
デイビットの視線は研ぎ澄まされた刃のように、女を見据えていた。獲物を追い詰める狩人の眼光は、逃れることのできないプレッシャーを放ち、これまでどんな言葉の奔流も巧みに操り煙に巻いてきた女でさえ、その鋭さに息を詰まらせた。
重苦しい沈黙から逃れる様に、女はゆっくりとその場を離れた。去り際にデイビットに対して何かを言い残した様だが、名前の耳には届かなかった。
残された空間には、先ほどの張り詰めた空気がまだ微かに漂い、まるで静寂がその余韻を留めているかのようだった。
幸い傍目に見ればそれ程の騒ぎでは無かった為、残された二人が店側に咎められることは無かった。
女が言い放った「運命の番」という言葉が、まるで呪いのように名前の脳裏に焼き付いて離れない。
運命の番というのは、名前が一番恐れていた存在だった。
αとΩの間には、βには分からない引力がある。αとΩにはフェロモンで惹かれ合う“運命の番”と呼ばれる存在が居る。
精神的にも肉体的にも、お互いと番う為に生まれたと言っても過言では無い程に相性の良い個体が存在し、必ずしも番と巡り合うという訳では無いが、この地球上には必ず存在するという。
もし運命の番がデイビットを見つけ、目の前に現れたのなら、彼が名前をいくら愛していようときっと抗えない。名前は自身が番には勝てないと理解していたが、デイビットとの付き合いを刹那的なものと捉えていつつも、彼との別離が頭を過れば平静ではいられなかった。
「名前」
デイビットの声が、名前の耳に届いたのは、ずいぶんと時間が経ってからのように感じられた。名前はゆっくりと顔を上げ、心配そうに自分を見つめるデイビットの瞳に焦点を合わせた。
「顔色が悪いが、」
「……大丈夫。あの人、知り合い?」
「気にするな。ただの厄介者だ」
名前は、デイビットの曖昧な言い方に引っかかりを覚えた。運命の番が成立しているのであれば、知り合い程度の関係では済まない事は分かっていたからだ。
デイビットは名前の問いに僅かに目を伏せたが、名前の悲痛な表情に耐え兼ね、少しだけ困ったような顔をして口を開いた。
「あの女は、お前が思っている様な関係じゃない。二か月前に仕事の関係で初めて顔を合わせてから、運命の番だとオレに関係を迫るようになった只の変質者だ」
「それ、ストーカーってこと?そんなの、なんで教えてくれなかったの?」
「相手は女性だ。オレにとっては大した脅威ではない。それに、お前が心配するだろう。現に酷い顔をしている」
デイビットの温かい手が、名前の冷え切った指をそっと包み込む。その微かな熱は、凍てついた心に一筋の光を灯すようだった。
「オレには、お前だけだ」
真摯な瞳が名前を捉え、その言葉は、不安に揺れる心にわずかな安堵を与えた。それでも、深く根を下ろした疑念の芽は、容易には消え去らない。名前は細い声で感謝の言葉を紡ぐのが精一杯だった。その声には、まだ拭いきれない憂いが滲んでいた。
店内に流れる穏やかな旋律は、まるで隔たりのように二人の間に静かに横たわっている。名前は、デイビットの温もりを確かめるようにその手を握り返しながらも、心の奥底では、これから訪れるかもしれない運命の波にひそかに身を震わせていた。
未来への不安という名の暗い霧が二人の足元に静かに立ち込めている。
続く