Queen of the night01
「いらっしゃい、かわいい貴女。恐れることはありません。此処はこんなにも華やかで幸福に満ち溢れている。さあ、迷わないで」
優しい女性の声に揺り起こされて瞼を開けば、視界に広がるのは何処までも続く濃紺の夜闇。何もない空間の最奥には白いドアが設えられ其の隙間からは強い光が神々しく漏れ出している。呼吸の度に陽向と花々の香りが鼻腔を擽り、耳元ではまろやかで甘い女の声囁きが聞こえる。それは母親のようだった。誘われるように一歩踏み出せばワルツが聞こえる。軽快なリズムで私を誘い私の歩調を早めんとしている。踊るように辿り着いたドアにはノブがない。手で押しても軋むばかりで開くには至らなかった。扉の向こうでは子供達がはしゃぐ声と小鳥の囀りが楽しそうに私を誘っている。私は堪らずドアを殴りつけ声を張り上げていた。
「開けて。開けてよ。私も其処に入れて。」
「このドアは貴女が開けなくては。自分の意思で、その腕の白百合で押し開かなくてはなりません。」
「開かないの。其処はきっと楽しいんでしょ。此処は寒くて暗い癖に背中に視線を感じて怖いの。助けてよ。」
「私は貴女を呼ぶことは出来ても招くことが出来ない。きっと扉は開きます。貴女には資格があるのですから。」
「気配がする。誰か居るの!早く此処を開けて!中に入れて!早くドアを、」
背後に迫る者の呼気が髪の毛に振れた瞬間に、ドアに叩きつけていた拳が空を切り、腕の先に見えたのは床に入る前に瞳が映した自室の天井だった。横たわったまま首を捻って辺りを見回しても何も見えず、ワルツも花の芳香も全てが消え失せていた。幻の様な出来事に狼狽する事もせず乾いた喉から大きく息を漏らして瞼を閉じればあの情景が思い浮かぶ。あれらは全て夢の中の出来事だ。私の人生に焦げ付く忌々しくも不思議な夢。
あの夢は物心ついた頃から私に付き纏っていた。呼び声の聞こえない夜は無い。当時は眠りながら夢に従って歩き出すという睡眠時遊行症に似た症状を度々引き起こしては体中に擦り傷や痣を作り両親に心配を掛けていた。しかし一度両親に夢の内容を聞かせれば二人の表情は一転し「大丈夫。それは良い夢だから。」と微笑むばかりでそれ以上は何も言わなかった。
私の両親は魔術師でありながら秘密裏に邪教を信仰する異端者であった。当時幼かった私には詳細な記憶は無いが、立ち入りを堅く禁じられていた奥の部屋で月に一度何らかの儀式が行われていた事は覚えている。薄暗い室内で発音の難しい詠唱を行い、床には見た事も無い魔法陣が描かれている。そして私と同じ年頃の子供が必ず一人連れてこられ普段は温厚で優しい両親が豹変する姿を見るのが恐ろしくて儀式の日は自分の部屋に閉じ籠り布団を被って夜を明かした。魔術と信仰の違いなど分からない私は自身の呼気で湿る息苦しい布団の中で魔術を憎み一生関わりを持ちたくないと願った。
中学三年の冬に両親が消えた。遠縁の親戚は事故で亡くなったのだと言っていた。遺体の損傷が激しいらしく棺の窓は葬儀が終わっても閉ざされたままで最後まで両親に別れを言えぬまま、何故か集骨すら許されずに軽すぎる骨壷を菩提寺に預け、私は生家を離れる事となった。
遠縁の親戚の家に引き取られてからはぱたりと夢を見なくなったと同時に夜中に歩き出す事は無くなっていた。瞼を閉じれば意識が落ちて、瞼を開けば朝が来る。擦り傷も痣も身体には無く、そんな当たり前の循環が酷く新鮮で、安堵から涙を流して喜ぶ程だった。此れで全てから開放され、普通の人間として生きていけると信じていたのだ。しかし過去の自分を裏切り、私は魔術師として着実に成長していた。花が色を選べないように、人は人生を選べない。魔術師の家系に生まれた娘が魔術とは無縁の人生を送りたいと願う事こそ愚かだったと気付くにはあまりに遅すぎた。父の魔術刻印を受け継ぎ魔術師として生きる道しか残されていなかった私は高校を卒業した後、時計塔で魔術を学び高名な霊媒医師の元で霊媒医術を身に着け、カルデアに引き抜かれ今に至る。
カルデアに入所した日の晩。あの夢が帰ってきた。まるで逃さないと、逃げられないとあざ笑うように女の声はあの日と変わらず優しい声音を以て私を呼んだのだ。
「其のペンダント、アンティーク?」
昼食で満たされた腹を抱え微睡みに耐えながら電子カルテを整理している私の胸元に目線をやりながら同僚のエイミーが問うた。其の羨望と珍しさを孕む声にキーボードを打つ手を止めて視線を渡す。ヘーゼルの瞳が煌々と光るのを見て、少しだけむず痒いような自慢げな感情を抱き彼女の問いに答える事にした。
「どうかな、でも古いものだよ。母がくれたの。」
「アメジストよね。こんなに大きな物なら相当高価な筈。」
胸元で輝くドロップカットのアメジストを摘み、褒めそやす彼女に良く見えるように持ち上げれば喉元がごくりと上下するのが見えた。彼女の言う通りきっと高価なのであろうが値段など分かる筈も無い。これは覚えている限りの一番古い記憶にも必ず姿を見せる、生まれた時から肌身離さず持たされていたお守りのような物だ。母は「何があろうと手放しては駄目よ。」ときつく私に言い聞かせ、私が頷けば柔らかく微笑んで私にキスをした。一体どんな価値があるのか、どの様な所以で持たされているのかも分からぬまま言いつけを守り、今の一度も外したことが無かったのだ。
話題を切り出した本人であるエイミーは宝石への興味が失せたようで、とっくにモニターを眺めて自分の仕事に精を出している。小さな溜息と共にデスクのデジタル時計をふと見遣れば最近入所したばかりの職員との面談の時間が差し迫っている事に気が付き、慌てて資料を整理してエイミーの席へ寄せ、出来るだけ申し訳なさそうな声と表情を努めてエイミーの横顔へ声を掛ける。
「ねえエイミー。私これから面談があるの。悪いんだけど、此れの続きをお願いしたいの。」
「うーん…キャラメルマキアート一杯で手を打つ。」
「勿論。A〜Qまでは終わってるから、出来る所までやっておいて。お願いね。」
嫌な顔をせず頼みを聞き入れる素直さが彼女の美点の一つだと思う。懐っこく可愛げがあり、親しみやすいが為に僅かな失敗や軽口程度であれば笑って許そうと言う気にさせるのだ。こういうタイプは得をする。意地っ張りで気が強く可愛げというものが全くない私とは正反対に位置する人間だ。
医務室を出た後ヒールを鳴らして廊下を進み目的のミーティングルームの扉の前に立てば、ロックの上には“使用中”の表示が浮き出ており、軽く拳を握り三回扉をノックして返事を待つ。入室を促す声に返事をしIDを翳して入室すれば、二人きりには広すぎる室内の中で此方に背を向け腰掛ける黒い背中が私を出迎えた。座していても其の体躯の大きさは図れる。いやに大きな男だ。
「ヴォイドさん、お待たせしてすみません。医療部の名字です。今日お呼びしたのは入所の際に受けて頂いた検診の結果についてお話がありまして。始めてもよろしいですか?」
端末に視線を落とし、引いた椅子に腰を下ろしながら口上を並べ立てる。我ながら愛想の無い態度だとは思うが、医師とは一様にこういう生き物だ。医師が問えば大抵の患者はすぐに返事を寄越すが、ヴォイドは一向に問い掛けに答えようとしない。空調の音だけが聞こえる中、まさか聞こえていなかったのだろうかと顔を見遣れば彼は美しい造形の顔(かんばせ)を強張らせ、紫色の虹彩をこれでもかと見開いてジイっと私を見詰めていた。何かに魅入られたよな尋常ならざる様子に二の句が告げず呆然としていると、彼は漸く正気を取り戻し徐ろに薄い唇を開いた。
「おまえは、何だ。」
彼の表情に浮かぶのは明らかな畏怖だった。元々の精悍さは有るものの、顔色は青褪め、恐ろしい化物を見るような目付きで私を見るのだ。初めて自身に向けられた恐怖の表情に狼狽しながらも見当違いと分かっていながら再び自身の名を名乗る。
「は…?え、っと。名字と言います。医療スタッフの。」
「オレが聞きたいのはそうではなく…おまえの本性を問うている。」
「…何が言いたいんですか?」
初対面であるにも拘らず其の不躾な物言いに僅かばかり気分を害した私が瞳の色を強めて言えば、彼は黙ってしまいまた私を眺めるばかりになってしまった。異常な様子には多少なりとも不信感を抱いていたが仕事である為退室する事も出来ず、私は其の視線を振り払うように端末のみを見詰め瞳を見ないように努めた。私が質問し、彼は答える。機械的なやりとりは嫌いではない。其れが礼儀知らずな同世代の男なら尚の事。彼に対して世辞や世間話を織り交ぜて機嫌を取ろう等と気遣う気にはなれなかったから、淡々とした会話で仕事が終わるのなら其れに越したことはない。
「確認は以上です。ありがとうございました。私は此れで失礼します。」
「名字、と言ったな。」
何とか確認を終えてキャスター椅子から立ち上がり、早々にこの場を立ち去りたくて出口へ足を向けた私をヴォイドが引き止める。背を向けたまま肩越しに私の名の後に続く言葉を待った。視界の端にぼんやりと映る姿は微動だにしない。
「生まれは何処だ。」
「日本です。」
「両親共に魔術師だな。」
「…それが何です?」
「いや、只の質問だ。忘れてくれ。」
呼び止めた癖に妙な質問のみで終了した会話に、此処に来る前のエイミーを彷彿とさせる。もう彼の口は動かないようだったのでちらつく金髪を尻目に今度こそ出口へ向かって歩みを進めミーティングルームを後にした。
リノリウムを打つ硬い踵の音が響く廊下で、私は彼の事を考えていた。先程は苛立ちと不信感で対して気にはならなかった話の内容が脳内をリフレインする。私は「何」か、彼はそう問うた。私は名字名前であり、此処の医療スタッフで、其れ以上でも其れ以外でも無い。他の回答の仕方が分からないし、彼の問の真意が分からないのだ。そして彼が望んだ答えは、私の出身と両親の事を聞けば導き出される物だったのだろうか。胸元で揺らめく彼の瞳と同じ紫の宝石を握りしめる。
私の正体とは如何言う意味だったのだろう。
ぼんやりとしているといつの間にか医務室に辿り着いており、惰性で扉を開く。窓など無いというのに室内は明るく、私の目をちりちりと刺激し瞳孔が細まる感覚がした。暫くしても一向に入室しない誰かの気配に振り向いたエイミーは、其の誰かが私であると認めると、薔薇色の唇をうっとりと持ち上げて名を呼ぶ。そして私が頼んだ仕事の進捗を駒鳥の囀りに似た軽やかな声で、嬉しそうに、そして誇らしそうに報告した。
「おかえりなさい。Zまで終わってるわ。」
「本当に?ありがとう、助かる。」
「そうでしょ。もっと感謝してもいいのよ。」
膝を折り脱力して席へ着けばミーティングルームの物よりは幾らかましな椅子が不安を煽るように軋む鈍い音を立てる。資料を放り一息吐いている私に向かって、エミリーは肘掛けに身を預け期待の表情を浮かべていた。意図を汲めずに曖昧に微笑んで見せれば彼女は視線を上にやりうんざりした顔を作って唇を鳴らす。察しが悪いとでも言いたげだ。
「何よ。」
「何って。今日の面談の相手について聞きたいに決まってるでしょ!で、如何だった?」
「如何と言われても…変な人だったけど。」
「そりゃそうよね、なんせあのデイビット・ゼム・ヴォイドだもの。」
「あら、知り合いなの?」
頬杖を付き知ったふうな口ぶりをする彼女に問う。彼が入所して一週間程であるのにエイミーが其の存在を知っている事が不思議でならなかったのだ。
「知り合いなわけ無いでしょ。私が一方的に知ってるだけ。なんでも時計塔を追放されて所長直々に此処に呼んだって噂よ。ハンサムなのに何だか無気味なのよね、彼。」
「確かに見た目は素敵かもしれないけど…ってそんな事言って、ろくに話したこと無いでしょ。」
「話した貴女が変だって言ったのよ。読みは当たってたじゃない。」
「…やっぱり魔術師って何処かおかしい人間が多いのね。」
「何言ってるの、貴女も魔術師でしょ。それよりも…私のマキアートは何処?」
訝しげな表情で言う彼女の所望品は、彼の問いに占められた頭には欠片も残っていなかった。