人混みが怖い。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれる満員電車なんて以ての外で、あんな空間に詰め込まれてしまったらどうにもできない。
次の駅まで降りることもできないということは、逃げることができないのと同じだ。
だからラッシュは避けていたのに。

「…あるいてかえる」

祭りの時期は最寄り駅まで数本は確実に車両が満員になるから、どんなに時間をズラしても溢れる人波に後退った。
もうこの人混みの迫力だけで無理だ。圧が凄い。
こんなのに乗るくらいなら歩いて帰った方がマシだと腕を引けば、兄さんは目線を合わせるように屈んだ。

「お前の体力じゃ無理だよ」

それに祭り会場通らないと帰れないぞ?と言われてしまえば何も言い返せなかった。

「大丈夫、俺が守るから」

安心させるように抱きしめてくれる兄さんにしがみついても、怖いものは怖いのだ。
溢れる声、人とぶつかる感覚、人混みの全てが恐ろしくて仕方ない。

「…声も、怖いから、やだ」
「じゃあ俺がずっと塞いでいてやるから」
「…それじゃあ抱きしめてもらえない」

それは嫌だ。
ちゃんと全部抱きしめてもらわないと、怖くて仕方ない。兄さんの体温を感じていないと、不安になる。

「なら、耳は自分で塞いどけ。そしたらちゃんと抱き締めるから」

ホームで待つ間も、兄さんはずっと手を握っていてくれた。
人が多くなると肩を抱いて、他の人とぶつからないようにしてくれて、電車が来ると後ろから私を抱え込むようにドア側の隅へと誘導する。

「耳、塞いでろ」

目が回りそうな人混みとざわめきの中、優しい兄さんの声だけがすんなりと耳に入り込んで、言われた通り両手で耳を塞いだ。
頭を抱え込むように抱きしめられて、ぴったりと密着する体。
兄さんの体温だけに包まれて、安心した。
一つだけ寂しいのは、耳を塞いだせいで兄さんの声が聞こえない事くらいだ。

ーーーーーーーー

人混みの苦手な妹を言い聞かせて乗り込んだ満員電車。
耳を塞ぐ小さな体を抱きしめて、誰にも触れないようにドア側の隅で最寄駅に着くまでじっと待つ。
どうして妹は人混みが怖いのだろう。
必死に目を閉じて顔を埋めるようにする姿はまるで襲いくる何かから身を守るようだった。

「あれ、彼氏かな?」
「いいなぁ、私も彼氏にされてみたい」

これだけの満員電車なのに人を見る余裕があるのか、聞こえてくる話し声。

「彼氏に守ってもらえるならいくらでも満員電車乗るのに」
「しかもイケメンかぁ、羨ましいね」

耳、塞がせておいて良かったな。
もしも聞こえていたのなら、隙間なくしがみつく妹は少しだけ距離をとるのだろう。
何も見なくていいように抱え込んだ頭を安心させるように撫でた。
本当は空く時間帯まで待ってやりたかったが、ただでさえない体力が気温のせいもあって削られてフラつくのを見たら、そんな事はしていられなかった。
早く帰って休ませた方が雫の体への負担は少なくて済むだろう。
最近夏バテ気味のようだし、今夜は食べやすいものでも作るか。
見た瞬間笑顔になるような、そんな料理を作ろう。

「…もう少しだけ、頑張ろうな」

聞こえていないと分かっていても声を掛けてしまうのは、少しでも怯える妹が安心できればいいと思うからだ。
閉じ込めるようにして回した腕に少しだけ力を込めれば、微かな声でにいさん、と呼ばれた。

「大丈夫、兄ちゃんが居るからな」

絶対にお前のそばから離れないよ。
頭を抱え込んで優しく髪をすくように撫でながら、最寄駅まで誰にも触れないように抱き締めた。

いつだったか、人混みに対する恐怖が無くなればいいのに。と呟いていたのを思い出した。
そうすれば公共機関で色んな所にも行けるし、祭りだって行ける。と少しだけ寂しそうな横顔で呟く妹に、あの時俺は無理に治す必要もないと思っていた。
もしも人混みが怖いのなら、その時は必ず俺が雫のそばにいて、幾らでも抱き締めてやるし、必ず俺が雫を守るのだと、それは俺にしか出来ないことだと思っていた。
今も、この先もずっと。
他の誰にも許されないこの距離は、唯一俺だけが許された距離。
真っ先に頼られるのも、こうして隙間なく体を寄せ合えるのも全て自分だけなのだと思うと、このままでもいいと思ってしまう。
こんな風に思って居ることを知ったら、雫はどう思うのだろう。
こんな独占欲を妹に抱く俺は、兄失格だろうか。
出来ることならずっとこのまま、他の誰にも触れられず、ただ俺だけを真っ先に頼るだけの妹で居て欲しいだなんて、いつから思うようになったのだろう。

「…好きだよ」

耳を塞いでいるのをいい事に、本心を込めた想いを呟く情けない俺をどうか知らないままで居て欲しい。
どうしようもないくらい、惚れて居るんだ。
お前が真っ先に俺を頼るように、俺はいつもお前を目で追ってしまうんだ。
何よりも先にお前の姿を探して、何よりも求めてしまう。
こんな風に本心を呟かなければ溢れてしまいそうな想いを閉じ込める事が出来ない俺を、どうか知らないままで居て欲しい。
お前が好きな兄さんで居るから、だからそのまま、気づかないままで居て欲しい。





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