最悪だ。
この一言に尽きる。
猛暑日の続く夏、まさかのエアコンが壊れるという悲劇に見舞われた。
前回の海といいエアコンといい、あまりにも運が悪いとしか言いようがない。
すぐさま業者を呼んだ。

「暑い中すみません、よろしければこちらどうぞ」

エアコンが故障したせいで扇風機と窓から入る風だけが頼りとなったこの部屋は、やはり暑かった。

「ありがとうございます!こうも暑いと困っちゃいますよね」

そう爽やかに言ってみせた業者はとても輝いて見えた。
こうやって暑い中わざわざ人の家まで来て、冷房の効かない部屋で作業するのは大変だろう。
自分が冷暖房完備の職場で働いていると余計にそう思う。
麦茶だけってのも申し訳ないし、アイスか何か冷えるものがあればいいが、残念ながら冷蔵庫は空だった。

「うーん、もう少し時間かかりそうなんで、もしあれならお出かけされても構いませんよ」
「大丈夫ですか?」
「任せてください!時間かかるときはよくそうしてるんで」

まぁ近くのコンビニくらいだし、少しなら大丈夫か。
ついでに昼食も買ってこよう。

「では少しだけ留守にしますね」

念の為通帳などの貴重品も鞄に入れて部屋を出た。

「…まぁ、これくらいでいいか」

買ったのは自分用の昼食と、業者用にスポーツドリンクとアイス。
いくらこちらが客とはいえ、ある程度の気遣いも必要だろう。

「おかえりなさい!」

人懐っこい笑みで迎えられた部屋は、エアコンの復活により冷えていた。
…ここが天国か。
たった数分のコンビニだが、その数分すら地獄に思えただけに、余計有り難みを感じた。
すごい、三種の神器に是非エアコンも仲間入りすべきだと思う。人類にエアコンは必要不可欠だ。

「もう直ったんですね。ありがとうございます」
「バッチリです!これでこの夏も乗り越えられますね。あ、あと麦茶ありがとうございました!」
「いえ、こちらこそ直ぐに対応していただけて助かりました。お礼にもしよろしければこちらどうぞ」

アイスとスポーツドリンクを手渡せば、それはもう喜んでいただけたようでなによりだ。

「僕このアイス大好きなんですよー。溶ける前にいただいていってもいいですか?」
「はい、折角直していただきましたし、少し涼んでいってください」

きっとまた冷房の効かない部屋での作業だろうし、アイス食べるあいだ位は涼んでもバチは当たらないだろう。

「降谷さんって一人暮らしなんですか?」
「そうですが、なにか?」
「いえ、ただ女性の一人暮らしにしては男物の部屋着があるんだなぁって思って」

そういえば下着類は取り込んだけどその他の洗濯物は干しっぱなしだったか。

「男物だとゆったりしているので楽なので」

本当にそんな理由で私が男物の部屋着を着ていたのかは知らないけれど、わざわざ記憶喪失であることを説明する必要もないだろう。

「確かに、スウェットとか特に楽で僕もよく着てます」
「動きやすいですよね」
「そうなんですよ〜!あ、じゃあアイスもご馳走になりましたし、僕はこれで失礼しますね」
「はい、ありがとうございました」
「こちらこそご馳走さまでした!またのご利用お待ちしております!」

にこにこと終始笑顔で去っていく業者を見送りながら、当分は勘弁してほしいと心から願った。
もうエアコンの故障なんていう悲劇は勘弁願いたい。


ーーーーーーーー

「エアコン壊れちゃったんですか?」
「うん、でも直ぐに業者の人が来て直してくれたから大丈夫だよ」

あれから数日、夏休み期間中だからか会う頻度が減っていた蘭さんと偶々会い、談笑をしていた。
どうやら今日は園子さんと遊ぶようで、ポアロで待ち合わせのようだ。
先日あった事を話していると、急に寂しそうな顔をされて言葉につまる。

「蘭さん?」
「あの、実はずっと言いたかったことがあって…」

意を決したように顔を上げた彼女に、なんとなく言いたい事を察して頷いた。
本当はなんとなく、分かっていた。

「できればなんですけど、前みたいに蘭ちゃんって気軽に呼んでもらえたらなぁって…その、無理にとは言わないので…!ただ、ちょっと寂しいなって思っちゃって…」

蘭さん、園子さんと呼ぶ度に、彼女たちが少しだけ寂しそうな顔をするのは知っていた。
きっと前の私は別の呼び方をしていたのだろうとも察していた。
気づいていて、敢えて変えようとしなかったのは、以前の自分のことを考えたくなかったからかも知れない。

「そっか、言ってくれてありがとう、蘭ちゃん」

だってそれをしたら、あの期待する視線がもっと強くなるのだろう。

「私こそ、なんかすみません…でも園子のことも同じように呼んでくれたらきっと喜ぶと思うので」
「うん、今度会ったら彼女のこともそう呼ぶね」

私の知らない、以前の私を重ねる目が。
私じゃない私を見られるこの感覚が、苦手だった。

「記憶、戻るといいですね」

ちゃんと知っている。
以前の私を知る人たちが、当時の私を求めている事を。
会う度に感じる、期待の目。
記憶は戻ったかと直接聞く人も居れば、視線で問う人もいる。
街中で声を掛けてくる見知らぬ親子や職場の人、この喫茶店で会う人、殆どが私じゃない私を見ている。

「うん、そうだね」

本当は、周りが思う程取り戻したいとは思っていない。
私に残っていなかったということは、0ということだ。
1パーセントでも私にその記憶が残って居れば可能性はあるが、0は1にはなれない。
だから私は自分の記憶が戻るとは思っていないし、きっと初めから諦めている。
…そもそも、望んですらいないのかもしれない。
笑顔を貼り付けて答えたのは、これで何回めだろう。
もうずっと繰り返しているから数なんて忘れた。


ーーーーーー

あの後園子ちゃんにも会い、呼び方を変えただけで大喜びしてくれた彼女らにまた一緒に遊ぶ約束を取り付けられた。
記憶がないと分かっているのに、それでも以前と同じように接してくれる彼女たちはとてもいい子だと思う。
彼女たちだけじゃない、きっと以前の私を知る人たちはみんなそうだろう。

「…だめだ、やめよう」

考えても仕方ないことはやめよう。
どんどん深みにハマって抜け出せなくなる前に、引くのが一番だ。
どうせ考えたところで記憶が戻るわけでもなく、ただ悩むだけで時間の無駄だ。
帰ったら真っ先にシャワーを浴びて切り替えよう。そう思いながらドアを開けると、タイミングよく震えた携帯。
表示されたのは非通知の文字。

「…またか」

最近、非通知から電話が掛かってくるようになった。
初めは出ていたが何度声を掛けても無言なので間違いか何かだと思っていたが、流石にこうも続けば意図的なものを感じてしまう。
寝てる時にかかってきたことは今の所無いけれど、着信拒否に設定しておくべきだろうか。
切れたと思ったら再び震えた携帯。
思わず身構えてしまったが、今度はちゃんと名前が表示されていた。

「もしもし、降谷です」
『園子だけど、今日言ってた遊ぶ予定なんだけど、今時間いいかしら?』

…早いなぁ。
確かにまた今度遊ぼうとは約束したけれど、今日その連絡がくるとは思っていなかった。

『先に…でも…て』
「…え、ごめん、もう一度お願いしてもいいかな?」

最近携帯の調子が悪いのか電波のせいなのか、たまに声が聞き取り辛くなることが増えた。
一度ショップに行くべきだろうか。
もう一度聞き直しながら、休日を伝えて電話を終えた。
エアコンの故障に続いて携帯の故障は流石に勘弁してほしい。
自然と重くなるため息に、今日はさっさとシャワーを浴びて寝ることにした。

もうずっと、寝るたびに思い出すのはいつだってあの視線だった。
期待をするあの視線が、私の気持ちを重くする。
言葉の裏に隠された思いや、期待の眼差しから目を逸らしたくなる。

「…いっそ全て忘れてしまえたらいいのに」

感情ごと消えてしまえば、こんな思いをしなくても済むのだろう。
生きている実感がないまま生きるのは、ふわふわと体が浮いているようで気持ちが悪かった。
私は本当に存在しているのだろうか。
不安の募る夜は長い。







戻る
top