入学してから数日経ったあの日、僕は女神に出会った。
名前は降谷雫。
隣のクラスの女の子で、入学当時から男女問わず密かにその外見について囁かれている程に整った顔立ちをしている。
清楚系の雰囲気を纏った彼女は一見近寄り難いが、笑った顔はとても可愛らしく、話しかければ分け隔てなく接する姿はまさに女神。
合同授業でプリント運びを一回だけ一緒にしただけの関係。
それでもあの時交わした何気ない会話も、僕に微笑み掛けてくれたあの顔も、あの日からずっと僕の頭にこびりついて離れない。
だからきっと、あれは運命なんだと思った。
たった一度の接点でここまで惹かれるなんてあるわけがないんだ!
クラスも違う彼女だけど、いずれは僕だけに笑いかけて、あの笑顔で僕の名前を呼んで、その温もりを感じられたらと思っている。
きっと優しくて可愛らしい彼女を狙う虫も多いだろう。
そんな害虫からは僕が守ってあげればいい。
あの日から、僕が彼女のナイトで、そしてたった一人の王子様なんだから。
空いている僕の時間は全て彼女に使おう。
クラスが違うせいで会えない時間は彼女の事だけを考えよう。
そう思っていたのに、この日、僕は初めて人に裏切られる気持ちを味わうこととなった。

「雫、帰るぞ」
「うん、今行く!」

あの男は誰だ。
彼女の教室の前で彼女の名前を呼んで、あろうことか彼女の腰に腕を回している男は誰だ。
ネクタイと上履きの色からして三年だろう男と彼女は仲睦まじそうに笑い合いながら僕の横を通り過ぎて行った。
一度も合わない彼女の視線は、彼女に触れる男の顔だけに注がれていて、あの可憐な笑顔はあの男にだけ向けられていた。
おかしい。
だって君の王子様は僕だろう?
僕にとっての女神であり、お姫様は君だけなんだから、君の王子様だって僕だけに決まっているじゃないか。
早く、早くなんとかしないと。
早く君は僕のものなんだと教えてあげないと。
変に道をそれる前に、僕のものにしなくては。
どうやって彼女を僕のものにするかで頭がいっぱいだった僕は、自分に向けられる射抜くような視線に気づくことはなかった。


ーーーーーー

視線を感じた。
唯が委員会で居ない為、先に雫と帰ろうと歩いていた廊下。
確かに向けられたその視線は、横に居る妹だけを見ていた。
絶望に染まったようなその顔色は、何度も見たものだった。
大方妹に恋をして、彼氏が居たのだと勘違いしたのだろう。
雫が入学してくる度に何度も見るようになった男達の失恋に肩を落とす姿。
見慣れた筈の姿なのに、何かがひっかかる。

「兄さん?」
「…なぁ雫」
「んー?」

あの違和感はなんだ。

「お前、最近何か変わったことあったか?」
「んー…やたら兄さんとの関係聞かれたり、兄さんに彼女とか気になる人居るか聞かれたり…兄さんモテるし割といつも通りだね」
「そういうことじゃ…いや、何もないならいい」

特に変わった事がないならそれでいいだろう。
本当は変な虫がつかないように恋人同士と勘違いさせておきたいが、どうせ聞かれたら素直に兄妹と答えて居るんだろう。
変な虫さえつかなければいい。
この考え方が甘かった事に、この時の俺はまだ気づいていなかった。


ーーーーーーーー

わらわらとグラウンドに集まる人。
2クラス合同で体育をするとかなんとかで、何故か男女混合で集まる生徒達。
人が集まれば勿論騒めきも大きくなる。

「降谷さん、大丈夫?顔色悪いよ?」
「うん、大丈夫…ちょっと気持ち悪いだけ」
「保健室行く?」
「ありがとう、でも少し休めば大丈夫だから」

どうしてこんなに広いグラウンドでこんな密集するように集められるのか。
ほんの少し腕を伸ばせば前後の人に当たりそうな距離と人混みに気分が悪くなる。
心配してくれたクラスメイトの女の子に告げてから、グラウンドの端っこで大人しく座る事にした。
今運動なんてしたら確実に倒れそうだし、暫く休んでいればすぐによくなるだろう。
適当にチーム分けをされ、サッカー組やバレー組など別れて行くのを遠目に眺めた。
ていうかバレーなら体育館でやればいいのに。

「ふ、降谷さん」

まだよくならないなぁ、と顔を伏せて居ると、頭上にかかった声。
見上げた先には見覚えのない顔。
…隣のクラスの子かな。
正直自分のクラスメイトの顔と名前すら未だに一致しない私に、隣のクラスの子の事など分かるわけがない。

「どうしたの?」
「そ、その、僕と一緒にボール運ぶの手伝って欲しいんだ」

既にサッカーボールが入ったカゴは二つも用意されて居るのに、まだ使うのだろうか。
不思議に思いつつも、ただ座り込んでるだけなのも申し訳ないし、運ぶくらいなら大丈夫だろうと頷いた。

「じゃあ、こっち」
「え、あぁ、うん」

頷いた瞬間、嬉しそうに笑って取られた手。
兄さんや唯君以外とは滅多に繋がない手は、なんとなく居心地が悪くて離して欲しかったけれど、ストレートに言うわけにもいかず結局そのままの状態で用具倉庫まで来てしまった。
兄さんと唯君と繋いでるときは安心するのに、今私につながれて居る手は何故か不安を感じてしまう。
さっさとカゴ持って離して貰おうと中を見回すも、サッカーボールの入ったカゴは見当たらない。

「ねぇ、カゴないよ?」

不意に離れた手に安心しながら振り返ると、ガチャリ、と閉じられた扉。
急に暗くなったせいか、何も見えなくなって少しだけ怖くなった。
暗闇は何があるか分からないから怖い。

「ねぇ、ないなら戻ろうよ」

震えそうになるのを堪えながら、必死に平静を装って声を掛けても、彼は一向に返事をしない。
こう暗くてはどこに居るかも分からず、下手に動くこともできない。

「やっと二人きりになれたね」
「…っ」

ぞわり、悪寒が走った。
後ろから耳元で囁かれる声に、脳内で警報が鳴り響く。

「ちゃんと僕が運命の王子様だって教えてあげるからね…」

果たして私はいつ乙女ゲーをやったのだろうか。
しかもヤンデレルート。
前世でも手を出さなかったゲームだぞ、ふざけるな。
後ろから体に巻き付くように回された腕は、体操着の中へと手が入り込み、肌を直接撫で始めた。

「ふふ、すごい、僕の思った通りだ…すっごくきもちいい」

ひ…っ。
声にならない悲鳴が溢れた。
これ、知ってるぞ。
一周前の人生で、薄い本で見たことある。
でもあれはフィクションだからいいのであって、リアルでやったら完全アウトだ。
しかも私が読んだの男と男のいわゆるホモだったけど。
いやでもホモとかホモじゃないとか関係ない。
現実逃避にあれこれ考えてもその手が止まる事はなく、恐怖で体は動かない。
まるで石になったような体を引っ張られて、硬い地面に背中を押し付けられたことで自分が押し倒された事を知った。

「今から沢山愛を注いであげるからね」

ねっとりと絡みつくような気持ちの悪い声だった。
無理やり脱がされる体操服。
肌が空気に触れる感覚さえも気持ち悪くて、じわりと涙が溢れた。

「大丈夫、すぐに気持ちよくなるから…ほんとはもっとじっくりたっぷり愛してあげたいんだけど、今は時間がないから…」

短パンのゴム部分を掴まれた感覚がして、それだけはまずいと腕を掴むも、力任せに引かれてしまう。

「…にいさ…っ」

助けて兄さん。
震える声で絞り出したのは、いつも側で守ってくれる兄さんのことだった。
怖いよ、兄さん。
ぽろぽろと情けなく涙が溢れた時、大きな音と共に入り込んだ光。

「雫から離れろ」

逆光でよく見えなかったけれど、そこに居たのは確かに兄さんの姿だった。


ーーーーーーーー

あれからずっと嫌な感覚が離れなかった。

「なぁゼロ、そういや今日雫って合同体育って言ってなかったか?」
「ああ、入学したばかりだから他のクラスと交流持つ為の授業だろ」
「雫ってグラウンドで集まる分には大丈夫なのか?ほら、あいつ人混み苦手だろ」
「…まぁ、屋内じゃないし、少し気分が悪くなる位だろうし、もしそうなったら自分から外れて休んでるから大丈夫だろ」

人混みが苦手な妹は気分が悪くなればちゃんと申し出て休むようにしているし、無理に我慢するようなこともしなくなった。
同じように窓際の席の景光はグラウンドに集まる一年の中から雫の姿を探しているのだろう。

「お、ほんとだ。ちゃんと外れたな」

予想通り覚束ない足取りでグラウンドの隅へと移動する姿。
一際白い肌のせいか、妹を見つけ出すのはそう難しくない。

「…なぁゼロ」
「お前もやっぱり気になるか」
「ああ、あいつずっと雫の事見てるよな?」

真っ直ぐと雫に注がれる視線。
あれは以前見た男子生徒だ。

「…おい、なんかマズくないか?」

暫く観察していると、男子生徒が雫に話しかけ、頷いた雫の手を掴んで引っ張るように移動し始めた。
困惑するように妹が一瞬だけ肩を引こうとした仕草が目に入り、居ても立っても居られなかった。
あいつ、雫に何をする気だ。

「すみません、体調が優れないので保健室行ってきます」
「一人じゃ心配なので俺も付き添います」

景光と二人で手を上げて教室を出た。
普段から真面目にしているとこういう時すんなりと抜け出すことが出来ていい。
すっかり信用して送り出した教師が見えなくなった所で二人同時に走り出した。
幸い授業中で廊下を気にする奴は居らず、直ぐに外まで来ることが出来た。

「連れ込むなら用具倉庫だな」
「急げよお兄ちゃん」
「分かってる」

案の定内側から鍵を掛けられた扉。
この程度、蹴破れないとでも思っているのか?

「うはぁ、こりゃ修理だな」

思い切り蹴破ると同時に景光が呟いたが、そんなものは耳に入って来るわけもなく、中にいる男に向かって一直線に駆け出した。

「雫から離れろ」

上は下着姿にして、下までもをずらしてのし掛かる男を殴り飛ばせば、くぐもった唸り声を上げて蹲る。
これだけで済むと思ってるのか?

「誰の妹に手を出しているんだ?」
「ひ…っ、や、やめろ!!」
「やめろ?どうせお前は雫が嫌がっても無理やり事を運ぼうとしたんだろう?俺の妹に手を出しておいてよくもまぁそんな事が言えたな」
「な、なんだよ!兄がなんだ!僕は彼女の運命の王子様だぞ!誰にも僕と彼女の仲は引き裂くことはできないんだ!!」
「黙れ」

どれだけ雫が怖い思いをしたかも知らずに、よくもそこまで身勝手な台詞が吐けたものだな。

「ゼロ、そいつより雫が先だろ?」
「わかってる」

こんな奴に時間をさいてやる必要はない。
引きつる男の頬スレスレに打ち込んだ拳はコンクリートにめり込み、男が目を見張る。

「次は無い」

男が白目を剥く前に吐き捨てて、急いで雫の元へ向かった。


ーーーーーー

「あーあ、人のお姫様に手ぇ出すからこうなるんだよ」

自業自得。と続けても、白目剥いて気絶してる男子生徒には聞こえては居ないのだろう。
後ろでにいさんにいさんと繰り返しながら兄にしがみつく妹と、それを大切そうに抱きしめる兄。
運命の王子様、ね。

「あいつの王子様はゼロだけだよ」

まぁ聞こえちゃいないだろうけど。
ゼロにとってのお姫様が雫なのと同じで、いつでも側で守ってくれて、雫が求める唯一の存在なゼロは雫にとっての王子様だ。
この男子生徒が何を勘違いしたかは考えたくもないが、きっと何年か先、あの二人は結ばれる。
案外両思いだし?
雫が誰かを好きになるのなら、その相手はゼロしかいないだろう。
いつでも側にいるのが当たり前。
それでいてずっと側にいて欲しいと初めて雫が求めた相手だ。
きっとこの先もずっと雫が一番に求めるのはゼロの存在だけ。
運命の王子様なんて自称するのも図々しい。
運命っていうのなら、兄妹として幼い頃から側に居られる関係として巡り合ったあの二人こそぴったりだろう。

「いつまでイチャイチャしてるんだよ、王子様とお姫様?」

いつしかいつもの調子でイチャつき始めた兄妹は、誰かが入る隙なんてこれっぽっちもないんだよ。
望みのない恋をする何人もの男女がこの先も見事に散っていくのだろう。
こちらとしては変に拗れる前に丸く収まって欲しいものだけど、まぁそれはまだまだ先だろうな。





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