頬に手を当てた時に咄嗟に取られた距離は、他人には許されない距離だから。
そう教えたのは俺だった。
どうにも昔から男女の差や本人に向けられる好意の類に疎い雫には、周りから過保護と言われるくらい言い聞かせてきた。
自己評価が人一倍低い妹は、いつになったら自分の事に気付けるのだろう。
兄の贔屓目なしでも整った容姿をしていると思う。
それが人を寄せ付けない美しさなら別だが、心から笑った顔は誰もが声を掛けたくなるような柔らかいものになるから、みているこちらが冷や冷やさせられるのだ。
だかこそ言い聞かせ、その結果があの態度だったのだろう。

「…今になってそれを痛感させられるとは…」

嬉しいような、切ないような。
何とも言い難い気持ちで更衣室を出た。

「…にいさん…」

テーブルに伏せてため息と共に吐き出された言葉。
他に客の居ない店内で、それは確かに俺の耳に届いた。
今にも泣きそうで、恋しそうに呟かれた声。
嫌われた、絶望されたと思っていたのに、そんな声で言われてしまえば、自惚れそうになる。

「雫さん、お待たせしました」

兄である降谷零ではなく、赤の他人の安室透でわざと接していたと知ったら、雫は俺をどう思うのだろう。


ーーーー

「どうぞ」
「…ありがとうございます」

エスコートするように椅子を引けば、若干引きつった笑みで礼を言って座る雫。
隠せてないぞ。
畏まった場所を苦手なのを知ってる上で、落ち着いた雰囲気のカフェバーを選んだのは正解だったらしい。
すでにメニュー表に夢中なその顔は、何を食べようか楽しそうに考えているのだろう。

「なんか凄いですね、女性にモテそうなチョイスで」

悪気なく告げられたのは本心でありただの感想なのは分かるが、無邪気な顔で言われると大分こたえた。
そうだよな、お前はそういう奴だもんな。
さらりと言ってのけては相手の反応に首をかしげる少しズレたところは可愛いところでもあるが、された方は正直辛い。
悪気がないからこそ何も言えない上に本心だもんなぁ。
きっと雫の中で俺は少しキザなイケメンなのだろう。
それも雫が苦手とするタイプの。
どうして安室透の人格を考えた時にそんな奴を選んでしまったのかと後悔した所でもう遅い。
それにこれ位の人格の方が人の中に潜り込むには最適な為、今更変えることもできない。
せめて妹が苦手意識を全面的に押し出す前に親しくなりたい。

「そういう雫さんこそお綺麗ですから周りが放っておかないんじゃないですか?」

やってしまった。
この手の話題は苦手とするものの一つで、隠しもせずに引きつった顔を見せた妹に顔を覆いたくなった。
どうにも自己評価の低い妹は、自分が異性として見られることが苦手で、恋愛関係なんて以ての外と思ってることもあり何故そんなことを言うのだと思っているのだろう。
見て察しろ。とは学生時代の妹の言葉だ。
この反応を見る限り、気になる男もいないのだろうと安心するのも束の間、やっぱりこいつ苦手だ。と言わんばかりの作り笑顔が自分に向けられたことが何よりも辛い。

「ないですよ。安室さんは彼女が三人くらい居ても不思議ではなさそうですね」

あ、完全にダメかもしれない。
今回のは確実に嫌味だ。
にっこりと笑った笑顔の下で、罵倒されていることだろう。
兄の降谷零ではない俺が聞くことはできない言葉が、ぐるぐると駆け回ってるのだろう。
どこで覚えたと言いたくなるような品のない言葉すら吐き出す口だ。
それを昔から聞かされてきたんだから分からないわけがない。

「気を悪くさせてしまったようですみません…そんなつもりはなかったのですが…」
「こちらこそすみません。その手の話題がどうにも苦手で…遠回しに探るような言い方も苦手だったものでつい」

知ってるよ。
なんであんな遠回しなの!いいじゃん直接言えば!まどろっこしい!!と喚く姿は何度も見た姿。

「じゃあもうこの話はやめにしましょう。折角なら楽しく過ごしたいですしね」
「…キザですねぇ」

おい、少しは隠せ。
ボロ出まくりだぞ。
しみじみと呟いてメニュー表に戻された視線。
お前油断し過ぎじゃないか?
短時間で兄に似ているとはいえ安室透に気を許し過ぎじゃないか?
もっと警戒されると思って居たのに、なんなんだ俺のさっきの覚悟は。
兄と思って接してはいないようだが、初対面よりも大分薄くなった壁にやはり複雑な心境に陥る。
兄として悲しいような、男として嬉しいような、そんな複雑な感情は昔もよく感じていた。

「安室さんはもう決まりましたか?」
「実は僕も悩んでまして。雫さんは気になるものありましたか?」
「んー…冷製パスタもいいですけど、ドリアもいいなぁって悩んでしまって…」
「なら二つ頼んで半分ずつ分けましょう」
「いいんですか?」
「勿論。僕もその二つがオススメで悩んでいたので」

分かりやすいくらいに明るくなる顔。
そうだよな、食べるの大好きだもんな。
なんで1日3食なんだ!勿体無い!たりない!何にしたらいいの!と叫ぶ程には食べる事に執着している妹だ。

「お酒も一緒にいかがですか?食事に合うワインもあるので一緒に楽しむのがオススメですよ」

酒に関しては成人前に側を離れた為何も注意していなかったから、如何だろうと様子を伺えば、分かりやすく目が輝いていた。
…そうか、酒好きか。
嬉しいような嬉しくないような。
雫の事だから酔いつぶれるほど外で飲むことはないだろうが、少しばかり心配になるのは兄としてだろう。
都合のいい時ばかり兄に戻るのだから、今はもう居ない幼馴染が聞いたら笑うのだろう。
意地張ってないで戻れよ。と。

「ワインってよく分からなくて滅多に飲まなかったんですけど、美味しいんですねぇ」

運ばれて来たワインを一口のんで頬を緩ませる雫。

「赤ワインは渋くて苦手という人も少なくはないですから。気に入っていただけてよかったです」

へらり。と気の抜けた顔はずっと昔から見慣れていた俺の好きな顔だった。
美味しいですねと笑いかけられる度に、あの頃に戻ったみたいで、伸ばしそうになる腕を堪えるので必死だった。
兄のままいたら、その頭に触れて思う存分撫でてやることができたのに。
兄のまま触れるのは嫌だと思ったのはまぎれもない自分自身なのだから自業自得もいいところだ。

「すみません、安室さんはお車で飲めないのに私ばかり」
「気にしないでください。雫さんが楽しんでくれたら僕はそれで満足なので」
「…キザって言われません?」
「直接そんな事を言われたのは初めてですね。特に女性には」

うっわぁ。と口にはせずとも顔にありありと書かれていた。
だからお前隠せてないんだって。
完全に引かれた。

「なんかこう、わざとですよね?わざとやってますよね?わかっててやってますよね?」

酒、弱かったのか?
会って間もない人間にそこまで言う事は滅多にない妹が、畳み掛けるように詰め寄る。
近づいた顔はほんのりと赤みがかっていた。
普段からやや青白い肌をしているが、今は化粧とは別に血行の良さを表すように赤みがかっていて、飲み慣れないワインのせいか元々弱いのか、やけに饒舌だった。
…大学時代は飲む機会も多いだろう。
大丈夫だったか不安になる。
雫の事だから断る方が多かったろうが、それでも一度も行かないなんて事はないだろう。
性格的にも適当に当たり障りなく付き合うタイプだから付き合いで行く事くらいはあるし、俺の知らない間の妹の事が今になって気になって仕方がない。

「29歳でそんなに童顔ってもう化け物じゃないですか」
「化け物…」

まさか妹に化け物呼ばわりされる日がこようとは。
鍛え始めた頃から兄さんは人間やめるの?その顔でムキムキになるの?と随分ないわれようではあったが、ここまで直接的な悪口は初めてだった。

「なんでそんなにハイスペックなんです?人間辞めます?」
「辞めません」
「じゃあもうちょっと気を抜いてもいいんじゃないんですか?」

お前が言うか、それ。
幼いながらに見えない壁を作って、子供らしくない振る舞いをしていたお前がそれ言うか?
同級生を冷めた目で見て適当にあしらうようにする姿は子供の相手なんてしてられるかと言わんばかりの姿だった。
当時はやけに大人びた妹が遠くに感じて寂しかったこともあり、事あるごとに兄ぶっていたことを思い出す。
男子に絡まれても言い返すことなく逃げる事を選んでいたのは、勝ち目もない上に余計な体力つかうのは時間の無駄だと思っていたからだろう。
俺に怪我をさせるのも嫌だから。一度言われた時、幼いながらにプライドを傷つけられて怒ったきり、雫がその言葉をいうことはなくなった。
甘える事を覚えたのは、俺が中学に上がったばかりの頃だったくせに。
どれだけこっちが妹に甘えてもらいたかったか知らないだろ。

「探偵に探偵の弟子に喫茶店のアルバイト…パーフェクトガイな振る舞いときたら私だったらストレスで死にます」
「雫さんは常に素でいられるんですか?」
「私の場合そのままでいたら確実に人と揉めるから無理ですよ。兄が居なきゃ息抜きなんてできなかったし、それを覚えたら生きるのが少しだけ楽になりました」

兄の前でだけ好き勝手振舞えてましたから。と笑った顔は、少しだけ寂しそうだった。

「でも、いつもはこんなんじゃないんですよー…あれ、なんでだろうな…うん…安室さんは苦手なタイプなのに、なんでか気が抜けちゃいますね」

おかしいなぁ。と続けた顔は昔よく見た顔で、さっきまでの寂しそうな雰囲気はどこにもなかった。

「顔だけ似てるからですね」
「そんなに似てるんですか?」
「でもうちのお兄ちゃんはサービスしないイケメンだから全然違いますよ!」

お兄ちゃん。
幼い頃ですら言われたことのない呼ばれ方に、ときめかなかったと言えば嘘になる。
正直一度くらい言われたかったが、まさか安室透になってその呼称を聞くことになるとは。

「私もしかしたらブラコンだったのかもしれないですねぇ。昔から周りには言われてましたけど、自分からしたら何も可笑しなことはなかったし、当たり前のことだったから違うって否定してましたけど、うん、ブラコンかもしれない。
…だから、そのお兄ちゃんに似てる安室さんの完璧っぷりが疲れないのかなって心配になったのかもしれません。
余計なお世話ならすみません」

そう言って二杯目のワインに口をつける顔は、幸せそうだった。
美味しそうでお兄ちゃんは嬉しいよ。

「雫さんは兄思いで優しいんですね」
「まさか。兄不孝だから兄が居なくなったんですよ」
「お兄さんが自分が悪いと思って居なくなったとしたら?」

雫は何一つ悪いことなんてなかった。
悪かったのは気持ちに耐えきれず押し付けようとした俺だから。

「…じゃあ一発殴る」
「…へ?」
「殴る。そんな勘違いで居なくなったなら、とりあえず殴ります。で、謝ります」
「どうして?」
「だってちゃんと話してないから。追いかけれなかった私も悪いし、ちゃんと話をできなかった私が悪い。私はずっと自分のせいだと思って居たし、今でもそう思ってるのに、もし兄が自分のせいだと思っているのなら、その時点ですれ違ってる。
なら一度そのすれ違いを直したい」

まさかの返しに言葉を失った。

「もし兄にまた会えたら私はどうするんだろうって悩んでましたけど、安室さんと話しててスッキリしました。
とりあえず殴ります」

今日一番爽やかな笑顔で拳を握って見せた妹。

「もしも降谷零が私の前に現れてくれたら、降谷零だと言って姿を見せたら、思いっきりグーパンぶち込んでやりますよ」

果たしてそんな日は来るのだろうか。
俺が兄の降谷零だとわかっていて言っているのか、それきり上機嫌に食事を楽しみ始めた妹。
俺が兄の降谷零として雫の前に姿を見せる日が来るとしたら、それは純粋に妹として見れるようになった時だ。
どうしようもないくらい、俺は今でも妹に惚れている。
…俺以上の未練がましい男はいないと断言出来るほどに。


ーーーー

「なんかすみません…」
「気にしないでください。誘ったのは僕の方ですし」
「今度は私がご馳走するので!」
「楽しみにしてますね」

雫らしいと思った。
面倒だから貸し借りはしたくない。奢りもやだ。と昔から言っていた雫を丸め込むのは大変だった。
分かっているくせに敢えて押し通した俺も俺か。
兄だった頃なら素直に甘えてくれたのに、他人となった途端にこうも差が出るとは…八割くらいは自業自得だが。
鞄を抱きしめるようにして助手席に座る姿は眠いのだろう。
抱き枕が無いと寝れない妹は、眠い時や不安な時は必ず何かを抱きしめていた。

「住所だけ教えていただいたら近くなった時起こすので寝てていいですよ」

俺以外でその気もない男にそんな無防備な姿を晒すのは許さないが、俺と居る時くらいは気を張らずにいて欲しかった。
どの口が言うのだろうと思いはしても、未練がましい男なんてこんなものだ。

「じゃあすみませんが、お願いします」
「はい、おやすみなさい」
「…おやすみなさい」

すっかり安心しきって寝息を立て始めた妹。
あの頃よりも伸びた髪。
信号待ちの間に手を伸ばして梳くように撫でれば、愛しさがこみ上げた。
俺はどうしようもないくらい酷い兄で、どうしようもない男だ。

「…にぃさん…」

恋しがられていると分かってもなお、兄として会うことができない俺は、兄失格だ。





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