エレーナ先生は、何処か遠くへ行ってしまったらしい。
彼女に懐いていた兄は、それがどうしようもないくらい寂しいのだと思う。
…まぁ普通の子供なら、好きな人が遠くへ行ってしまった寂しさを自分で消化するのは難しいだろう。
きっと彼女は兄さんにとって特別な存在の一つだ。
喧嘩しちゃダメって言われるくせに怪我して先生の元へ行くのは、先生に会いたかったのもあるのかもしれない。
子供なんてそんなものだ。
私よりも2つ歳上の兄は、私よりも子供だ。
当然と言えば当然だけど。
精神年齢アラサーだもんな、私。

「にいさん」

体育座りで膝に顔を埋める兄さんはきっと泣いている。もしくは涙目だろう。
妹に見られるのが嫌で、さっきからずっとこれだ。
兄としてのプライドというやつだろう。
子供のうちからこんなに立派なプライドがあるのだから、彼は将来どんな人間に育つのだろう。
プライド高い人間に育ちそうな気がする。
だからといって、怪我を放置する人をほっとける訳もなく、仕方なしに掛けた声。

「兄さん」

意地を張って無言を貫かれても尚、私は彼を呼ぶ。
たかが擦り傷だろうがなんだろうが、子供の体というのは少しのことでも何が起きるか分からない。
傷口から細菌が入れば化膿することだってあるし、熱を出すことだってある。
だからどんなに意地を張られようとも無理矢理にでも手当てをしなければならない。
幼なじみがいれば彼に任せるが、残念ながら今日は居ない。

「…あっちいけよ」

いくら妹の面倒を見るお兄ちゃんであっても、拗ねてる時はこの態度である。
別にいいけどね。君の妹が精神年齢アラサーでよかったね。これがもし人生一周目の幼女だったら大泣きだからね。兄妹喧嘩待ったなしだからね。

「けが、消毒しないとだめだよ」
「うるさい」

口うるさい母親って、こんな気分なんだろうか。
恐らく過去の私も母に言った事あるけど、いざ言われるとまぁまぁ腹立つな。

「エレーナ先生はもういないよ」
「うるさい!」

だから子供の扱いは私には分からないのだ。
こんなことなら前世でもっとちびっ子と関わっておけばよかった。
思い切り地雷を踏み抜いたせいで怒鳴った兄は、涙を浮かべながらこちらを睨んでいた。
…子供って難しい。
から、私は彼を子供として扱うのをやめた。

「エレーナ先生が居なきゃ、兄さんはずっとそのままでいるの?」

そんなの勘弁願いたい。
私は彼に怪我をされるのは嫌だし、痛い思いをする姿を見るのも苦しそうにする姿を見るのも嫌だ。
勿論ずっと悲しんでる姿をみるのだって嫌だ。
それは少なからず目の前の少年の事を私の兄だと思っているからだろう。お蔭さまでこんな幼い少年に情がわいてきましたよ。なんだろうねこれ、母性愛ってやつ?兄なのに私の精神年齢高いせいで母と子みたいな気分になる時があるの本気で解せない。

「ねぇ、エレーナ先生じゃなきゃダメなの?」

いつかは本人の中で上手いこと踏ん切りつけるだろうけど、その傷を何とかする為には今どうにかしなくてはならないのだ。
酷い聞き方をしてる自覚はある。

「私はいらない?」

狡い言い方だよなぁとは思う。
血の繋がりはなくとも兄としての責任感をもって常にそばにいようとする兄にこんなこと聞いてるんだから。
嫌い?って聞かないだけマシだと思ってほしい。
…でもこれでいらないとか言われたら流石の私も多少は傷つく気はする。

「…んで…っ」
「…え?」
「なんでそんなこと言うんだよ!!」
「え、わ…っ!?」

怒鳴ったかと思えば勢いよく抱き締められて、体格差もあって受け止めきれない体は兄ごと後ろへと倒れ込んだ。
い、いったぁ…

「なんでそんなこというんだよ!!」

怒りでいっぱいいっぱいなお兄ちゃんは妹を下敷きにしていることも構わず怒鳴っている。

「そんなことあるわけないだろ!雫は俺の妹なんだから!そんなこというなよぉ…っ」
「え、ご、ごめん、ごめんね兄さん…!」

う、うわぁぁぁあ!!と遂に大声をあげて泣き出した兄にどうしたらいいかわからずさ迷う手。
…くっそう、これは予測してなかった。
悩みに悩み抜いた結果、頼りない両手で兄の体を抱きしめた。
大丈夫大丈夫、ここにいるからね。もうあんなこと言わないから。という思いを込めながら、ぽんぽんと背中を叩く。

「俺はぁっ、雫の兄ちゃんなのにぃ…っ」
「うん、うん、私の兄さんは兄さんだけだよ。だから泣かないで、もう絶対あんなこといわないから…ごめんね兄さん」

うっ、うっ、と泣きながらしがみついてきた兄をひたすらあやす様に抱き締め返す。
どうしてこうなった。

「あのね、怪我そのままにしたら危ないから、だから消毒してほしくて、きっと先生もそのままにしたらダメって言うと思うから、ね?」

なにが、ね?だ。
焦り過ぎて自分でも訳が分からない。
でもこれだけは本当。消毒させてくれお願いだから。

「ごめんね、だからあんなこと言っちゃって、ごめんね兄さん」
「…ん…俺も、怒ってごめん」
「ううん、私が兄さんが言われたくないこと言ったから悪いんだよ。ごめんね」
「雫は、俺が居なきゃ嫌か?」

ん?なんで今そんな話題になった?
ここはお互いごめんなさいして消毒する流れじゃないか?何故に?
…やめて、そんなまんまる大きな純粋なお目目で私を見ないで。なんでこの子こんなに可愛い顔してるかな。ちょっと期待してるようなその瞳から目を逸らしたいのが本音だが、そんなことしてみろ、私の罪悪感が天元突破するぞ。

「…うん、兄さんにはそばにいて欲しいし、笑っていて欲しいよ」

…告白か!!甘酸っぱい小中学生の告白か!!!なんだこの恥ずかしい空気。
小学生どころか私幼稚園児なんだけどね。外見年齢の話だよ精神年齢の話はやめて。

「そっか、ならずっと兄ちゃんがそばにいるからな!」

…まぁ、本人がそれでいいならいいか。
こんな嬉しそうな笑顔で言われては、こっちまで嬉しくなっても仕方ないと思うんだ。

「うん、ありがとう、兄さん」

だからさっさと消毒させろ。


ーーーーー
(…っ!?い、いたくない!痛くないからなこんなの!全然平気だからな!!)
(わぁーにいさんすごーい、かっこいいー)
(俺は雫の兄ちゃんだからな!消毒くらい全然平気だからな!!)
(さすがにいさん世界一かっこいー)





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