じりじりと照りつける炎天下の中、何故私は女友達と二人でオープン直後のテーマパークへ来ているのだろうか。

溢れる人混みの中、はしゃぐ子どもたちの声が聞こえる。
季節は夏。
学生達は夏休みという長期休暇を満喫し、社会人は土日祝日という休日を過ごす本日。
本来ならばクーラーを効かせた部屋の中、未読のまま積み重ねた漫画を読む予定だったのに何が悲しくてアラサー女子二人でテーマパーク?
楽しそうな声で笑う人混みの中、周りの人など気にせずうんざりとした顔を浮かべてしまうのは仕方ないことだと思う。

「もー、そんな顔しないでよ〜」
「…そっちはアクティブなオタクだからいいけど、こっちは引きオタなの。休日は大人しくぼっちで漫画読みながら過ごす人種なの」
「折角なんだから楽しもうよ!」

本来ならば今頃彼氏と此処に来ていたはずの友人は、数日前にその彼氏の浮気が発覚して別れたとは思えない程元気だった。
…まぁあんだけ泣いてキレて報復までセットで済ませたんだからそりゃスッキリしてるよね。
おかげでその彼のチケットが私に回って来たわけだけど。
あれだけ憤っていた友人が楽しんでいるのならまぁいいか。

「昼飯はそっち持ちだから」
「えー!?」
「彼氏の穴埋めに人使ってんだから当然でしょ」

これでイーブンってやつだ。
暑さと人混みは全てチャラにしてあげよう。

「あ!そろそろショー始まる時間じゃん!ほら、行くよ!」

粗方テーマパークを周って楽しんだ友人が今日一番の笑顔で指差した建物。

「…なんかみんな同じ方向に動いてますけど」
「そりゃあこのショーが目玉だからね!みんな見たいんだよ」
「えぇ…あつそう」
「建物内だからクーラー効いてるし、人混みも一種のアトラクションと思えば平気だって!」

相変わらずのポジティブシンキングを発揮した彼女は何が何でもショーを見に行きたいらしい。
結局友人の笑顔に折れて一緒に移動を始めたものの、建物内部に入った途端に増した密集度。
少し動いただけで体が当たりそうな程の人混みに、本日何度目かのしかめっ面をしながら前を向けば、何故か友人は少し先を歩いていた。
私が人にぶつかりながら歩いている内になんでそんなとこまで行ってんの君。

「ちょ、はぐれるな!」
「はやくはやく!」
「あのねぇ…」

思わず叫ぶが彼女はいつも通りにこにこ笑って私を呼ぶだけ。
お出かけ大好きな彼女からしたら、こんな人混みも慣れっこだろう。
みるみる遠ざかる姿に思わず腕を伸ばそうとしたその瞬間。

「…なに?」

後方から上がる悲鳴。
初めは女性のものだった。
そこから老若男女関係なしに立て続けに上がる悲鳴は徐々に此方に近づいてきて、何があったのかと振り返ったその時ーーー

ぷつり。
世界が暗転した。


ーーーーー


誰かを呼ぶ声がした。
誰かの名前を紡ぐその声は、抑えるような声なのに、溢れるような悲痛さを含んでいて、どうしたのだろうと気になってしまう。
声のトーンからして男性だろうか。

「…雫」

ハッキリと届いた声に目を開けると、真っ先に見えたのは薄暗い天井。
状況が飲み込めないまま視線をずらした先に見えたのは、見知らぬ男が祈るように私の手を握りながら額をつけている姿だった。
…な、に、これ。

口に出したつもりの声は、掠れて音にならなかった。
けれどその空気で私に気づいたらしい男の目が、ハッとしたように私に向けられた。
月の光が差し込むだけの薄暗い空間の中で見えた、青みがかった目。
その目に浮かぶ感情は恐らく安堵、だろうか。

「…よかった…っ」

今にも泣きそうで、けれど安堵を含んだようなその声に、何故か胸が締め付けられるような感覚がした。
見知らぬ男が自分の手を握っていて、安心したように息を吐く姿とかホラーでしかないのに、頭に浮かんだのはごめんなさい、という言葉だった。
…なんで?
分かるのはこの男が私を心配していたのだろうという事だけ。
自分でも分からない現象に内心首を傾げていると、近づいてきた男の顔。

「本当に、よかった」

こつり、と額をくっつけて、微笑んでいるのだろうか。頬を包むように触れる手は暖かい。
…待ってほしい、何故見知らぬ男にこんなに接近されているんだ。
意味が分からない。
全く状況が飲み込めず、思わず私が取った行動は彼の顔を退かすことだった。
男と私の顔の間に滑り込ませた手のひらを相手の口に当てて軽く押せば、案外すんなりと引いていった顔。

「…雫?」

雫?
私を見てそう呼んだ男。
微かに困惑の色を浮かべた瞳は確かに私に向けられていて、思わず誰だと言おうとして気づいた。
…私の名前、なに…?
それをきっかけに色んな疑問が頭の中を埋め尽くした。
友人は?彼女の名前は?家は?住所は?家族の名前は?顔は?どこのテーマパークに居た?ここはどこだ?何で私は此処にいる?何があった?
駆け巡るように湧き出る疑問は一つも答えが見つからない。

「…っ、な、んで…っ」
「雫っ!?」

わからない。
おかしい。
何かが欠けている。
まるで記憶に穴が空いたみたいに、大切なところが埋まらない。
なんで、どうして。

「雫、大丈夫、大丈夫だから」

男が私を抱きしめる。
誰だ。
知らない。
知らない、知らない。
なんでこの人はそんな親しそうな声で、優しい声で私を呼ぶんだ。
ごちゃ混ぜになる感情は、一体誰のものだ。
しっかりしろ。
自分でどうにかしなくてはいけないんだ。
なのに、なんだ、この感覚。
知らないのに妙に安心しそうになる体温。
まるで自分自身の感情じゃないみたいで、気持ち悪かった。
二つの相対なる感情が理解できなくて、男の体を突き放そうと力を込めた瞬間、

「…っ!?」

腹部に走る痛み。

「傷が塞がったばかりなんだ。横になった方がいい」

今看護師を呼ぶ。と言ってナースコールを押した男に口を開いた。

「だ、れ」

貴方は一体誰なんだ。
掠れる声で紡いだ言葉はちゃんと届いていたらしい。
…男の綺麗な瞳が驚愕に見開かれ、そしてほんの一瞬、整ったその顔が苦しそうに歪んだ気がした。
どうしてそんな顔をするんだ。
それじゃあまるで、私が貴方を忘れたみたいじゃないか。

ーーーーーー

「傷の方は問題無さそうですね」

念の為もう一度消毒をしておきましょうか。と手際よく消毒を終えた医師。
個室らしい病室の中は灯りがつけられていて、この空間に居るのは私と医師と看護師と、そしてさっきの見知らぬ男。

「記憶に関しては一時的なショックによるものでしょう。今日は時間も時間ですし、刑事さん達には私の方から連絡を入れておきます」
「はい、よろしくお願いします」
「傷は塞がっていますし、明日退院して頂いても大丈夫なので、とにかく今日はゆっくり休ませてあげてくださいね」

男にそう告げて看護師と共に病室を去っていく医師の背中を見送った。
どうやら私は記憶喪失というやつらしい。
一時的なショック、となるとあの時何かが起きたのは確かなのだろう。
真っ先に私が尋ねたのは友人の安否だった。
無事だと聞いたところまではよかったが、問題はその友人が誰であるかだ。

「…私、二人で行った筈なんですけど」

男と二人きりになった空間で呟いたのは、自分が持っている記憶のことだった。
医師と看護師が居た時に尋ねた私に返したのは、この安室透と名乗った男だった。
蘭さんと園子さん、コナン君の三人は無事ですよ。と。
恐らく女性二人と男の子一人の名前に覚えたのは違和感だった。
そう、だって私は確かに二人で行ったはずなんだ。

「テーマパークへ、ですか?」

さっきとは打って変わって別人のような空気を纏った男が私に問う。

「先程先生にもお話した通り、女友達と二人で行ってました。これははっきり覚えています」

名前や顔が思い出せないことから私が記憶喪失というのは本当のことなんだろう。
でも、彼女と二人でテーマパークへ行った事実は本当だ。
あの暑さも、声も、ぶつかる人の感触も、リアルに覚えている。

「先生も言っていたように、ショックで記憶が混乱しているって事もありますし、考えるのは明日にしましょう」
「なら一つだけ、教えてください」

この質問だけは答えてくれと、真っ直ぐと見上げれば、男は静かに視線で答えた。

「貴方は誰ですか」

聞いたのは名前だけだった。
知りたいのは私との関係性だ。

「さっきも言いましたが、安室透。探偵です」

にこりと笑った顔に感じた違和感は、男を余計に胡散臭く見せた。
どこかわざとやっているような節すら感じ取れるその態度は、目覚めた時に見た男とは別人だった。
聞きたいのはそんな事ではないとわかっているくせに、わざとはぐらかしているのだろう。

「…そうですか、お答えいただきありがとうございます」

追及したところでどうせ答えないのだろう。
あの笑顔は知っている。
私も使う、笑顔での拒絶…というよりは、これより先には踏み込ませないという空気を纏っていた。
笑顔は受容のサインだなんて聞くけれど、使い方によってはその逆にもなり得るのだ。

「明日、蘭さん達とまた来ますね」

おやすみなさい。と愛想よく続けた男にわざとにっこりと笑って同じように返した。
誰も居なくなった病室で夜通し考えたのは自分の記憶のことだった。

「…私は一体誰なんだ」

振り返る記憶はどれもこれも靄がかったように思い出せなくて、もやもやと晴れない気持ちだけが積み重なっていく。

「…やめだやめ。これ以上は無理だ」

面会時間が訪れればまた誰かが私の元へ訪れるのだろう。
そしたらまた考えればいい。
私一人で考えたところで答えはでないのだから。

ーーーーーーー

目が覚めてからは、忙しなく時間が流れていった。
刑事と名乗る二人組の男女が来て事件当日の事を質問されたが、何も覚えていない事については答えようがない。

「ご家族の事は何か分かりますか?」

犯人の顔に見覚えがあるかやどんな状況だったか聞かれた全てに首を横に振ると、今度は私自身に関する質問がされた。

「家族、ですか」
「ええ。実は連絡するにもお調べした所ご両親は既に他界されているようで…」
「でしたら連絡できるような親族は居ないんでしょうね」
「え、でも…」
「高木くん、いいから。連絡できるような親族はいない、という事はご兄弟も含めてという事ですか?」

兄弟と聞かれてもそもそも私は一人っ子だ。
両親の顔も名前も思い出せないけれど、家族構成くらいはちゃんと覚えているつもりだ。

「私、一人っ子なので」
「おかしいなぁ…」
「おかしい?」
「はい、降谷さんには二つ歳上のお兄さんがいるようなんですが、実はそのお兄さんの行方も現在分からないんですよ。居場所を突き止めようにも情報が途中から消えてるみたいになくて…」
「でも思い出せないのなら仕方ないわよね。目覚めたばかりなのにごめんなさい。いきなりこんな話されても困っちゃうわよね」

…兄?
私の記憶ではそんな存在居ないはずなのに?
だってもし私に兄が居るのなら、私はもっと甘ったれに育ってる筈だろう。
自分を守れるのは自分だけ、だなんて気を張って生きることもないはずだ。

「降谷さん?」
「…いえ、なんでもありません。情報がないという事は、その兄も両親同様亡くなってる可能性もあるということですよね?」

自分の両親が死んだ記憶もないのに他界してると言われたのだから、その記憶にない兄ももうこの世に居ない可能性は十分にあり得るだろう。
そしてなにより、両親が他界していると聞いても何も感じなかった自分が不思議だった。
まるでそれを知っていたのか、いや、今の私が忘れているだけで、何処かでその感覚を覚えていただけなのか。
…記憶喪失というものは、厄介だ。

「それは僕らにはまだなんとも言えなくて…」
「そうですか、お答えいただきありがとうございます」
「そんな、私達の方こそ病み上がりなのにごめんなさいね」
「いえ、覚えていない話も色々聞けましたので気にしないでください。それに刑事さん達はお仕事ですから」

刑事さん達といくつか話した中で感じたのは、二人が語る私の事と、私が持つ記憶にすれ違いがある違和感だった。

「もしかしたら事件のショックで記憶を上塗りしているのかも知れませんね」
「上塗り、ですか」

今まで静かに話を聞いていた医者が語るには、人間は処理しきれないショックを感じた時、それを塗り替えるように別の情報で上塗りをする事があるらしい。
すれ違いの部分は恐らく作られた架空の記憶。
だとしたら、今の私は作られた記憶によって存在しているようなものじゃないか。
…そんなこと言われたら、何が本当で何が間違いかなんて自分で判断できないじゃないか。
結局、犯人は捕まっている事と、他に証人も居た事から刑事さん達との話はこれで終わったようだ。
確かに、何も覚えていない人間に聞いたところで無駄なのだから正しい判断とも言えるだろう。

「すみません、最後に一つよろしいでしょうか?」
「はい、何か?」
「安室透という男性と私の関係性について何かご存知ですか?」

もし私の事を周りの人にも聞いていたのなら、あの男との関係も知っているかも知れない。

「ああ、あの探偵の…彼のバイト先の喫茶店の常連で、お二人はたまにご飯を食べに行く仲だと聞きましたよ」

ご飯。
私が?あのイケメンと?
なんとなく、去り際に纏われていたあの空気は、私が苦手なタイプに似ていたのに…?

「友人、ですか?」
「さあ?あ、でも蘭さん達は仲がいいっておっしゃってましたし、親しい仲だとは思いますよ」
「それじゃあ私達はこれで失礼します」

親しい仲。
目覚めた時の反応を思い出せば、確かに納得できる気はしたが、私が覚えていない様子に気付いてから変わった空気はなんなんだ?
もしもそうであるのなら、はぐらかす理由なんてない筈なのに。
男に抱く疑念だけが膨らんでいった。


ーーーーー

刑事さん達が帰ったあと、看護師に手伝ってもらいながら退院の準備をしていると、病室に現れた四人の姿。

「こんにちは、お加減はいかがですか?」

にこり。
愛想よく笑って尋ねたのは安室透だった。
その後ろに控えるように居たのは制服姿の女子高生が二人と、ランドセルを背負った少年が一人。
彼女達が昨日言っていた蘭さんと園子さん、そしてコナン君だろうか。

「傷自体はそんなに深くもなかったようですし、今は塞がったようなのでご心配には及びません。記憶に関してでしたら相変わらず、としか」

ごっそりと抜け落ちている記憶では、私は男に刺されたらしい。それも自ら刺されにいったとか。
警察の人から聞いた話ではあったが、正気か?と思わずにはいられなかった。
普通に考えたら痛いし怖いのに、私は何を思って自ら犠牲になるような真似をしたのか。
救いは刺された記憶も抜け落ちていることと、傷が塞がるかまで目覚めなかった事くらいだろうか。
おかげでたいした痛みは感じていない。

「雫さん、その、本当に私達のこと忘れちゃったの…?」

悲しそうに眉を下げて問うてきたのはカチューシャをした女の子だった。
泣きそうな顔をしていることに気付いて内心焦った。
子供と泣いている人の相手程どうしたらいいか分からないことはない。

「ごめなさい。全くわからなくて…」

どんな顔をすればいいか分からず、とりあえず落ち着かせようと微笑んで答えれば、彼女はそっか…と泣きはしなかったものの悲しそうなトーンで静かに呟いた。
にこりと笑ったままの男とぎこちなく微笑む私。
悲しそうに肩を落とす女子高生達。
何処と無く居心地の悪い空気に頭を抱えたい気分だった。

「ねぇ、雫さんって何処から記憶ないの?」
「こ、コナン君…!ごめんなさい雫さん、目覚めたばかりで大変なのに…」
「ああいえ、気にしないで。何処から記憶がないかだよね」

彼女は少年の姉か何かだろうか。
少年の代わりに頭を下げた彼女に笑いかけながら、私の返答を待つ子供へ向けて口を開いた。

「刑事さん達や先生には話したけれど、友人と遊びに行った所までは覚えているんだけどその後が全くわからなくて」
「でも誰と行ったかも思い出せないんだよね?」
「…私の記憶では学生時代の女友達と二人で行った筈なんだけど、どうだろうね、本当は君達と行っていたようだから」

自分で自分の事が良く分からないのだから、自分の記憶に自信が無くなっても仕方ない。

「お医者さんの話では一部記憶を上塗り…作り変えている可能性もあるって言っていたし、きっと私が持つ記憶は偽物だろうね」

だってそうでもなければ彼女達はこんな顔をしないのだろう。
それに、記憶が無いというだけでこんな顔をさせているのに、ここで自分の持つ記憶が真実だと押し通して仕舞えば、貴女達と過ごした時間は私にとって嘘の記憶ですと言うようなものだ。
二人を否定するような、そんな言い方ができるわけがない。
事実医者にも上塗りをした記憶と言われたんだ、そう考えるのが妥当だろう。
それに一緒に行って居た筈の友人らしき人も居なかったと聞くし、行ったテーマパークも違う様だったのだから、丸ごと私が作り上げたかの様だと自分でも思ったのも事実だ。
だからこれでいい。
間違ってるのは私なのだから、違和感なんて感じる必要はない。

「でも、お医者さんもきっと記憶が戻るって言ってたし、大丈夫だよ!」
「何をきっかけに思い出すかは分からないけど、以前過ごしていたのと同じように過ごしていれば大丈夫とも言ってましたから、きっと戻りますよ」

励ますように笑った二人に同じように笑い返した。

「ありがとう、蘭さん、園子さん」

大丈夫、いつもみたいに適当に笑って取り繕って生きていれば、面倒事なんて起きやしない。
記憶が無くとも今まで通り生きていける筈だ。
たとえ一方的に私を知る人達がいても、関係ない。
ぼやけた記憶ではあるけれど、私はそうやって一人で生きてきたのだから。
だって私はそういう人間だから。
今までだってそうやって生きてきた。
だから、この不安も違和感も関係ない。
それらを笑顔で押し込めるのは、得意だった筈だ。








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