細かいことは気にしない。分からないことは考えない。嫌なことはすぐ忘れる。
人生を快適に生きるにはこの三つが大切だろう。
まぁ完全にこんな風に生きることは難しいけれど、適当に愛想笑い浮かべて周りに合わせて揉め事なく過ごせればそれに越したことはない。
だからたとえ記憶が抜けていようが、生きる上で必要な知識さえあればなんとかなるし、適当に愛想笑いを浮かべておけば表面上はどうにかなる。
結局上部だけでも上手いこと取り繕っておけば支障なく生きていけるのだ。

因みに部屋にあったブルーレイは全視聴した。
言うまでもなく推しはレッドだった。
成る程、やっぱりあの部屋は私の部屋だ。
部屋着が殆どサイズが大きめの古着ばかりだったのは不思議だけど、わからないものは気にしない。
日用品を確認しても一人暮らしだったようだし、部屋着の事は考える必要はないだろう。
人間の頭の容量というのは限られている。
不要な事で埋めてしまっては勿体無いだろう。

さて、全く実感は分からないけれど、かつての私がしていた事と同じ事をしようか。
昨日安室さんにもらった地図を頼りに辿り着いた喫茶店の扉を開けた。

「おはようございます雫さん。お加減どうですか?刺されたって聞いた時はびっくりしましたよ…!」
「おはようございます。ご心配をおかけして申し訳ございません。怪我はもう大丈夫なんですが、記憶が少し抜けてしまったようで…貴女のことも覚えてないみたいですみません…」

入店直後に駆け寄ってきた女性店員は梓さんと言うらしい。こういうやり取りが数回続くのだろうかと思うと少しばかり気が重い。
いつものでいいですよね?と言われて思わず頷いてしまったが、多分これでいいんだろう。
それが以前の私がして居たことだろうし。

「おはようございます雫さん」
「おはようございます安室さん。先日はありがとうございました。頂いた地図も分かりやすかったのでお陰様で迷う事なく来れました」

いつも座っているらしいカウンターへ腰かければ、やはり彼も居たようで和かに挨拶を交わす。
地図を読むのは苦手だったが、彼がわざわざ描いてくれた地図はシンプルかつ見やすかったので本当に助かった。
分かりやすいポイントもちゃんと記載されていたし、まるで相手の事を分かってるような専用の地図を貰ったような気すらした。
探偵ってなんでもできるんだな。
運ばれてきたモーニングを食べていると、新たにお客さんが来たらしい。

「雫さん、おはようございます」
「蘭さんにコナン君、それと…」
「毛利小五郎です!刺されたと聞いた時は驚きましたよ!この毛利小五郎が居ればあんな奴この私が一発で仕留めて見せたというのに…っ!」
「ちょっとお父さん!雫さん病み上がりなんだから迷惑かけないの!」
「あはは。それより雫さんもう出勤するの?」

なんというか、賑やかな一家のお出まし感がすごい。
あのナイスミドルが昨日安室さんが言っていた毛利探偵か。
調子のいいおじさんって感じだ。

「うん、今日からまた以前と同じように過ごすよ。先生にもそうするよう言われているし」

こんなので本当に思い出すかは分からないが、医者が言うのだから言う通りにすべきなんだろう。

「そういえばお兄さんとはご連絡取れましたか?」

そういえば刑事さん達曰く兄が居たんだったか。
不思議なことに携帯のアドレス帳にも登録されて居ない兄という存在は、今の私からしたらあまり気にならないが、私の心配をする彼女は違うのだろう。

「取れていないよ。アドレス帳にも連絡先はないし、もしかしたら元々連絡を取り合うような仲じゃなかったのかもね」

いい歳した兄妹が離れて暮らしていて連絡取り合ってる方が珍しいだろうし。

「でも話を聞く限りはとても仲が良さそうでしたよ?」
「ならきっと忙しいのかもね」
「そういえばずっと会えてなくて、漸く再会できたって雫さん言ってたから、忙しいお仕事なのかな…」
「海外飛び回っているような仕事かもしれないね」

所在もわからないようだったし。
周りに話すくらいなんだから兄妹仲はよかったようだ。

「もしよろしければこの名探偵毛利小五郎が貴女のお兄様を探してみせましょう!」
「毛利先生、彼女も退院してきたばかりで色々大変でしょうし、その話は今度でもいいんじゃないんですか?」
「なぁに言ってやがんだ、だからこそだろ?退院してきて記憶もないのに一番側にいて欲しいのは家族じゃねぇのか?」

どうやら毛利探偵は優しい方らしい。
蘭さんの優しさは父親譲りなんだろうか。
その優しさは記憶のない私には勿体無い。
だって覚えてもいないんだから寂しいなんて思わないし、側に居てくれとも思わない。
記憶がないのだからたとえ向こうが私を妹だと思っていたとしたも、私からすれば兄と言う名の他人だ。

「ですので安心してこの名探偵にお任せください!」
「ありがたいお話ですが、兄の件は大丈夫ですよ」
「お兄さんに会いたくないんですか?」
「記憶がない状態で会っても向こうも困ってしまうと思いますから」

嘘ではない。
もしも仲がいいとして、携帯に連絡先が入っていないのはおかしいし、それだけ仲のいい兄妹であれば向こうから会いに来る事もあるだろう。
もしくは携帯に何かしらの連絡が入るだろうし。
それがないという事は、兄はそれができない状況に居るのかもしれない。
そもそも情報が無いってのもおかしな話だ。
下手に探られたら困る理由があるのか、もしくは常にいろんな場所を転々としているのか。
いずれにせよ、その兄の為にも無理に探すべきではないのだろう。
というか情報ない時点で普通の人じゃない気がするし、ちょっと怖すぎるだろそれ。
せめて記憶が戻るまでの間は関わりたくないのが本音だ。

「もし記憶が戻ったその時は、自分から会いに行きますよ」

知っているのは名前のみの兄を思い出す日が来るかは別として、その時が来たらきっと私は自ら会いに行くのだろう。
以前の私が再会を喜ぶ位の兄だったようだし。

「ごちそうさまでした。そろそろ私は失礼しますね」

蘭さん達に挨拶をしてから会計を済ませて職場へ向かう事にした。

「雫さんお気をつけて。いってらっしゃい」
「…いってきます」

退店時、安室さんにかけられた言葉に照れ臭くなりながらも返した声はちゃんと届いただろうか。
…なんだろうな、この感じ。
一人暮らしで何年も言ってないからか、とても懐かしく、嬉しく感じる自分がいた。
たかが挨拶なのに、じわじわと胸に広がるあたたかさに自然と頬が緩んでしまう。
こんな些細なことなのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。これじゃあまるで小学生だ。
誰かに見られるのが恥ずかしくて、暫く口元を押さえながら職場へ向かった。






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