音が、聞こえる。
人が生きている音。
ゆっくりゆっくり、心地の良いリズムで、とくりとくりと落ち着いた音。
私が一番安心する、命の音。
「…あむ…先輩」
私を抱き締めるこの人は、安室透ではなく、降谷零なのだろう。
そっと抱き締めるように腰に腕を回せば、小さく落ち着いた声が返事をする。
先輩の心臓の音と呼吸、それ以外は何も聞こえない静かな腕の中は、安心で満たされていた。
「先輩って案外甘えん坊なんですねぇ」
「うるさい」
頭を擦り寄せて言う声は怒りとは程遠く、とても優しい声をしていた。
きっと泣いてはいない。
泣いてはいないけれど、泣きそうな顔をしているのだろう。
私は彼のことを深く知っているわけではないけれど、そう思うくらいには知っている。
なんとなく、表情が頭に浮かぶくらいには、私の意識の中に彼は居た。
他人に興味の無い空っぽの人間だと兄に評される私が、こんな風に誰かの顔を思い浮かべるなんて、私自身も知らなかった。
「…すきだなぁ」
自然とこぼれた呟きに、とくん、と心音が一瞬強くなった事に漸く顔を上げれば、驚いた顔で私を見下ろす先輩。
胸に当てていた耳はまだ先輩の体温と心地の良い心音が残っていて、もう少しされるがままでもよかったな、なんて惜しく感じた。
誰かに抱きしめられたのは、何年ぶりだろうか。
あんなにも、人の体温は心地よかったのだろうか。
「…っ」
「え?」
「うるさい黙ってろ」
「んぐっ!?」
暗くてよく見えなかったけれど、一瞬拗ねたような、照れた顔をしていた気がしたけれど、それもすぐに頭を抱きかかえられた事によって見れなくなってしまった。
けれどさっきよりも少しだけ速く音を奏でる心臓は、うん、悪くない。
この音はどきどきしてるってやつなんだろう。
とく、とく、とく。
少し速いけれど、これも心地いい速さと音と、温もりだ。
生きている。
先輩も、私も、生きている。
「先輩!」
「っ、いきなり顔をあげるな!」
こうしちゃいられないと顔を思い切り上げれば、不意を突かれたのかほんの少し不機嫌そうに寄る眉。
ああ、学生時代よく見た表情だ。
いきなり後ろから声を掛けたとき、驚いた先輩は必ずこの顔で私に振り向いて、何だよ苗字。と不機嫌そうに、ちょっぴり拗ねたように言うのだ。
「私のも聞いてください!」
折角なんでほら!と無理矢理頭を抱え込んで耳を胸に押し当てるように抱きしめれば、最初は抵抗しようとしていた先輩も疲れたのか大人しくされるがままになる。
そうそう、それでいいんですって。
きっと私の心臓は今、うれしくてとくとくと少しばかり速い音を奏でているのだろう。
「生きてる音、します?」
「…ああ、してる」
「へへ、これ、私のすきな音です」
「俺も…すきだよ」
その言葉が嬉しくて、思わず腕に力がこもってしまい、ばか!と怒られてしまった。
「なんか思い出しますね」
あの頃はこんな事をしたことは無かったけれど、それでも思い出してしまうのだ。
先輩に構ってもらっていたあの時間を。
穏やかだと感じていたあの時間。
平和で、暖かくて、現実だけど、現実じゃないみたいな、欲しかった暖かさ。
あの頃みたいにへらへら笑う私を、あの頃とは違う表情で見る先輩。
「…やっぱお前、俺のだって思うよ」
「えー…なんですかそれまた忠犬です?人権いつ帰ってくるんですか」
「さあ?でもやっぱり、お前は俺のだって思うし、俺じゃないと嫌だとも思う」
「まぁ先輩の忠犬ですしね」
あの頃呼ばれていたあだ名は、満更でもない。
こうして今でも首輪をしてるのだから、なんてご主人様思いの忠犬なんだと褒めてくれても構わないんですよ?なんてふざけてみれば、やっぱり先輩はあの頃と違った表情で私に優しく笑った。
あの頃は何言ってんだこいつって顔しながらも何処か満更でもないような表情だったのに、歳とともに丸くなったのだろうか?
「…今はまだやる事があるから迎えに行くことは出来ないが、全て終わったら必ずお前を迎えにいく」
「なんか告白みたいですね」
「告白だ馬鹿」
ぱこん、と軽く頭を叩かれて、驚いて見上げた顔は暗くても分かるくらい照れていて、そして拗ねていた。
ああ、この顔は見覚えのある顔だ。
照れ隠しの顔。
「…待たせることしかできないけど、お前は待っていてくれるか…いや、違うな。
今度はちゃんと伝える。待ってて欲しい。お前が好きだし、側にいて欲しい。もっと知りたい。教えてほしい。だから待ってろ」
なんとまぁ、あの頃と変わらぬご主人様である。
なんとなくツンデレなのかな?可愛いとこあんのかな?照れ隠しかな?とか都合よく解釈していたけれど、成る程、まさかこんなにも好いていてくれたとは。
忠犬冥利につきるってやつか。
「何言ってんですかご主人様。この首輪って飾りです?」
「馬鹿、飾りじゃ首輪の意味ないだろ」
「だから昔から言ってますけど私馬鹿じゃないですからね?お勉強できますから」
「昔から言ってるがそういう意味じゃないからな馬鹿」
「語尾馬鹿にすんのやめてくれませんかパーフェクトガイめ」
「お前のそれ悪口か?」
「褒めてんだよ馬鹿」
「誰に向かって言ってるんだ?ん?」
「いたいいたいいたい!!だって先輩が馬鹿っていうから…!!」
あの頃と全く同じやり取りの後、二人で顔を見合わせて吹き出した。
久々に笑った気がする。
なんだか面白くて、おかしくて…暖かくて、幸せで涙が出た。
ほんの少しだけ溢れた涙は嬉し涙だ。
先輩を見れば、同じように笑って涙をぬぐっていた。
「ねぇ先輩」
「なんだ?」
「今度はちゃんとって言ってましたけど、どういう意味ですか?」
今度はちゃんと伝えるって事は、昔私に伝えようとしてたってことだろう。
不思議に思って問いかければ、気まずそうに逸らされた顔。
けれど話してはくれるらしく、ぽつりぽつりと昔話が始まった。
「本当は、卒業式の後お前見つけて告白するつもりだったんだ」
「え」
「どうせお前のことだし、挨拶くると思ってたら来ないし、他の女子に捕まるはお前は探しても見つからないわで散々だったんだからな」
「いや、それ私のせいじゃないですって。モテモテな先輩が悪いんですって」
「いいから聞け。お前の友達に会って聞いたら休みって言われて、連絡先も家も知らないし、そのまま打ち上げ行って結局お前に会えずじまいでここまできたんだよ」
「じゃあ連絡先聞けばよかったのに」
「…それは後で後悔したよ。でもその時は俺も餓鬼で、なんで忠犬だなんて言われてたくせに来てない奴の連絡先をわざわざ俺が聞かなきゃいけないんだって無駄な意地張ったんだ」
うっわぁ、先輩にもそんな青臭い時期があったのか。
むっちゃ青春してんじゃん。
相手私なのもうしわけないレベルだけど。
まじか、あの降谷先輩が子供みたいな青臭い青春…申し訳ないけれど笑えてしまう。
「おい」
「笑ってませんって!」
「顔見れば分かるんだよ。っていうか馬鹿にしたろ」
「馬鹿にはしてませんて!ただ、私からしたら意外だったんで」
「うるさい。人のこと振り回しといてそれか?お前さえ来てたら丸く収まってたんだ」
「えぇ…なんですかその言いがかり…ていうか丸くってことはOKだと思ってたんです?」
「違うのか?」
「なんだこのイケメンナルシスト!そういうとこ嫌いなんですけど!そういうのが安室透に反映されてるんです?ほんっとあれ無いですから!安室透はマジでない」
「そうかそうか、ご主人様としてちゃんと躾をしないといけなかったな。悪かったな、今まで放置して。折角だから今からちゃんと躾をしようか?」
「すみませんすみません私が悪かったです謝りますから許してお願いします!!!」
笑いながら威圧感出すのやめてほんと怖いから。
「まぁそういうお前は余所見してトキメキとやらを感じてたらしいしな?」
「いや、昴さんはマジでヤバイですって!あれはズルい!完成されてますって」
「眼鏡の優男だろ」
「うっわ、うっっっわ!こいつ言いやがった!完全悪口だ!あんなに物腰柔らかくて微笑みの似合う男性いませんからね!?」
「安室透だって物腰柔らかい笑顔で優しい完璧なイケメンだろ」
「昴さんは自分で言いませんから」
「安室透も自分では言わないだろ」
「中の人が言ってんじゃん!中の人が安室透褒めてんじゃん!」
「言ってるのは安室透じゃない」
「なんだこの人!!屁理屈だ!!私が沖矢昴にときめいて何が悪い!!」
ぎゃあぎゃあ喚いていれば、気に障ったのかイラっとした顔を隠しもせずに押し倒されてしまった。
「…俺でいいだろ」
こちらを見つめる真剣な目。
聞き慣れた声よりもワントーン低い声。
少しだけ張りつめたような空気を感じて、これマジなヤツだ。と思うと同時に口が動いていた。
「いや、無理…っわ!?何するんです!?」
思い切り頭突きされたんですけど!?
なんで!?だって昴さんほんとに素敵だから!女になったら絶対わかるから!!!
女性の八割は落ちるぞ!!
「こっちの台詞だこの馬鹿!空気読め馬鹿!この鈍女め!普通そこは頷いてキスするところだろう!?」
「はあ?き、キスとか…っふ、や、やばっ、つ、ツボった…!」
「おい」
「っふはっ!ははっ、せ、先輩ってロマンチストなんですね…!いやまぁちょっと気障ったらしいとこありますし、なんとなくそうだとはおもってましたけど…っ、ふ、はっ」
なにが面白いってそれを私相手にしてくれるとこがまた面白くて笑っていれば、青筋を浮かべた先輩に再び床ドンをされた。
あ、やばいガチギレだこれ。
にっこり笑って逃さない。と両ひじをついた先輩。
ああ、やばい、むり、これむり。
顔を背けようとも、ギリギリで置かれた両ひじは拘束されているも同然だ。
こわい、こわいよぉ。
お巡りさんが脅迫まがいのことしてくるんだけど助けてお巡りさん…いや目の前に居たわお巡りさん。世も末だな!!!!
「何か言うことは?」
「も、申し訳ございません」
「で?お詫びに何をしてくれるのかな?」
何ってなんだよ何なら許してくれるんだよ!
未だに恐怖しか感じない笑顔で至近距離で話しかけてくる男。
みんな見た目に騙されすぎじゃない?むっちゃ怖いからねこの人。
「な、なにをご所望で…?」
「ここ」
離れたかと思えば、長い指先で私の唇を軽く押さえたご主人様もとい、大魔王様。
つまり、唇をご所望で?
「〜っ!?ば、馬鹿じゃないですか!?馬鹿ですよね!?出来るわけないじゃないですか!!」
「なんで?」
「なんでって…っ、は、はずか…っむ」
喋ってる途中なのに遠慮なく口に突っ込まれた指。
なんだこいつ頭大丈夫か?
こっちは勢いのまま噛むんじゃないかとヒヤヒヤして軽く歯でくわえるみたいなアホ面晒してるのに、なんでこの人ご機嫌ににこにこしてるんです?お疲れなんです?わかるよ、私も働きすぎてわけわかんなくことよくありますもん。だからその指さっさと引け。
「するまでこのままだから」
で、するのかしないのかさっさと決めろ。と瞳が問い掛ける。
「…ひまふ…」
「よーし、いい子だなー」
「だから犬扱い!」
「よしよーし、落ち着けー」
この野郎…!
あっさり指を抜いてくれたのはいいけれど、やっぱり犬扱いじゃねぇか!人権返せ!!
「ほら、早く」
「ぐ…っ、やりますよ!やればいいんだろちくしょうこの大魔王め!!!」
こいつなんでガン見してくるんだよ!やりづらいんですけど!?なんなの!?サイコパスなの!?医者に診てもらえ!…あ、私医者か。むりですこんなん治せません。
「…っ、め、閉じてくださいよ」
「嫌だ」
「ガキか…!!」
「ん?」
「嘘です嘘ですすみません!!」
ていうか何気にファーストキスじゃないのこれ。
27にもなってそんなこと思って照れてる自分が恥ずかしい。
レイプされたおかげで処女ではないけれど、キスはされてないんだからそりゃファーストキスはこれだろう。
まるで中学生のような甘酸っぱさと気恥ずかしさでどうにかなりそうだ。
だからそんな上機嫌な顔でこっち見ないでなんなのこの人。
「…わたし、で、いいんですか」
本当に?私で?なんで?だって傷物じゃん。全然綺麗じゃない。
ボロボロだ。
お腹と背中は傷と痣で人様に見せれるもんじゃない。
レイプした奴らはそんなこと御構い無しに人の体を道具のように使ったけれど、この人は私を道具だと思ってない。
苗字名前として好意を向けてくれて、好きだと言ってくれた人。
ああ、だめだよくわからない。
私を好きだと言う言葉は本当だってわかるけど、じゃあ私は?こんな自分を認められるのだろうか。
こんな私を選ばせていいのだろうか?
「だからお前は馬鹿なんだよ」
頬に伸ばされた手は大きくて、暖かくて、泣きそうだった。
この暖かさが欲しい。
ずっと側にいて欲しい。
こんなに安心してしまう温もりを、手放したくない。
「俺じゃ嫌か?」
優しい問いかけに首を横に振る。
そうでもしないと泣いてしまいそうだから。
少しでも声を出してしまえば、震えた声で泣き出してしまうから。
「俺は名前がいい」
初めて呼ばれた下の名前。
ああもう、駄目だ、無理。
泣いた。
「せんぱいが…っ、せんぱいが、いいでず…っ、すき、です…あったかいから、安心できるから、せんぱいじゃないと、いや、せんぱいがあんしんできるんです…っ」
ああもう恥ずかしいとか照れくさいとかかっこ悪いとかもう全部どうでもいい。
本当は嬉しかった。
そうだよ嬉しかったよ!馬鹿だから素直になれないだけで、本当は嬉しかったし、気づこうとしなかっただけで先輩の側が心地よくて側にいたくて、そう、これが好きってやつだったんだ。
だから未練がましくずっともらったネックレスをしてたし、初めてのアクセサリーだからとか、学生時代の先輩がくれたネックレスだからとか全部全部言い訳だ。
嬉しかったのは嘘ではないけれど、あの時、私は降谷先輩が特別だったんだ。
恋愛なんてできないって思っていたから全て知らんぷりをしていたけれど、好きなんだ。
「お前が自分自身の存在を認められないのなら、お前を選んだこの俺を信じろ」
ほんと、この人には敵わないなぁ。
昔も今も、その自信家なところは変わらない。
「ご主人が選んだ人だぞ?」
「ならとびきりいい女性に違いない」
「当たり前だ馬鹿」
こんな私でも好きだと言って手を差し伸べてくれた貴方を信じないわけがない。
心の何処かでずっと求めていたのは、この温もりだったんだ。
誰かに愛され必要とされる人生が、こんな私にもあっただなんて。
「世の中捨てたもんじゃないですね」
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