図書室で一人テスト勉強を終えた放課後、自宅へ持ち帰る用のテキストを教室へ忘れたのを思い出し校舎内へと引き戻る。
夕焼けの色に染まる校舎の階段を登っていると、耳に入ったピアノの音。
「放課後の音楽室…」
ふと思い出したのは友人の怪談話だった。
本当に幽霊なんかが居るとは思っていなかったが、わざわざテスト期間限定で現れる余裕の持ち主の顔でも拝んでやろうと、気づけば足は音楽室へと向かって居た。
「…普通に誰かいるな」
教室のドアに付いた窓から中を覗けば、楽しそうな音色を奏で続けるピアノと、その影に隠れて姿はよく見えないが確かに人が居るのがわかる。
ドアを開けて中へ入ろうとすれば、鍵が掛けられているのかガチャ、と音がするだけで一向に開くことはなく、その音に気づいた奏者の足と頭が消えた。
…椅子に乗って身を屈めたな。
そこまでするのなら弾かなければいいのに。
「すまない、実は忘れ物をしてしまって中に入りたいんだが…」
真っ赤な嘘だが、このテスト期間に忘れ物をしたとなればよっぽどの薄情者でない限り無視することはないだろう。
そうしてもぞもぞとピアノの下から這い出てきたのは、見知った顔だった。
というかお前なんでわざわざ下から出てきたんだ。
ドア越しに俺の顔を見た女生徒は一瞬驚いた顔をして急いで駆け寄ってきた。
「降谷先輩でも忘れ物するんですねぇ」
「嘘に決まってるだろアホ」
「先輩は悪口言わないと喋れないんですか?」
「お前限定でな」
まぁ教室には忘れたけど。という言葉は言わないでおく。
「お前ピアノ弾けたんだな」
どちらかと言えば体を動かす方が向いて居そうなこの後輩が、ピアノなんてものが弾けるとは思っても居なかったので素直に口にすれば、てっきりまた吠えると思っていれば照れたように笑った。
珍しく歯切れ悪そうに視線を逸らしながら、口ごもる姿は普段とは間逆で、いつもなら嫌味の一つは言ってやれるのにこの時の俺は初めて見た姿に何も言えなかった。
認めたくはないが、不覚にもこの時の俺はこの後輩に見惚れていたのかもしれない。
夕焼けの赤い光に包まれる姿が纏う空気は別人なのに、ハニカム顔は確かに後輩のもので、こいつのこんな顔を見れるやつは居るのだろうかなんて事を頭の片隅で考えていた。
「…父が」
照れたように紡がれた声は、やはり何時もと違って落ち着いていた。
「父がピアノを弾ける娘っていいなって以前呟いていて、だから弾けるようにならなきゃと思って弾くようになったんです」
「父親のことが好きなんだな」
「ええ、自慢の父です」
普段と違う落ち着いた雰囲気は、まるで年上の女性のような錯覚すら覚える。
「男手一つで育ててくれた父と、命と引き換えに私を産んでくれた母の為に私は理想の娘になるんです」
笑って居るのに寂しそうに見えたのは、きっと俺の気のせいではないのだろう。
「っていうか帰らなくていいんですか?今テスト期間ですよ」
何か言わなければ。と口を開こうとすれば、すっかり何時もの顔で注意をし始めるものだからその言葉そっくりそのまま返してやりたい。
「お前こそいいのか?そんなんじゃ万年10位だぞ」
いつだってこいつが報告してくる順位は10位で、そこから上下した話は一度も聞いたことがない。
「私はいいんですよ。学年10位ってそこそこいい方ですよ?」
「もっとやれば一位だって取れるだろ?」
「一位はちょっと…」
「その方が父親も嬉しいんじゃないのか?」
あれだけ自慢の父と言い、その期待に応えようと努力するのなら、勉強だって頑張った方がいいだろう。
「…そう思います?」
「思うも何も、自分の子供が一番で喜ばない親がいるのか?」
「…父さんは、喜ぶでしょうね」
何か別の意味を含むような言い方が気になった。
諦めたような、自信のない目は普段の気の抜けたものや、意志の強そうな瞳のどちらでもなく、ただぼんやりと床を眺めていた。
何か励ましになる言葉は無いかと考えて、一つの提案をした。
「そうだな、もしお前が一位取ったらご褒美でもやるか」
「え、いいんですか!?」
「一応ご主人様だしな」
「忠犬ネタまだ引きずってんですか!」
やめてくださいよ!と吠えるのを聞き流しながら、何がいいかと思案する。
「首輪とか?」
「だから忠犬ネタから離れてくださいよ!」
「冗談だ。何か欲しいものとかあるか?」
「…自堕落な生活?」
「無茶言うな駄犬」
「駄犬言うなパーフェクトガイ」
「お前のそれ悪口か?」
「いっそ嫌味ですけど?」
考えてみればこいつの好きなものや喜ぶものなんて分かるはずもなく、本人に聞けばこれだ。
その顔はもう何時もと同じ顔に戻っていた。
「別に無理しなくていいですよ。また一位頑張って見ようかなって思えたので、それだけで十分です」
「そこまで遠慮されると逆に喜ばせたくなるな」
「なんなんですか天邪鬼ですか?…まぁ、ご主人様がそう言うんなら、従順なお犬様はご褒美楽しみに頑張りますよ」
「ああ、その代わり必ず一位取れよ」
「さーいえっさー」
緩く敬礼をしてへらりと笑った顔が、やっぱりこいつには一番似合っていた。
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