倉庫




 ある日の昼下がり。安室透がシフトに入っている時間帯であるにもかかわらず、珍しく人の少ないランチタイムの終わり時。
最近、ちょうど一か月前辺りからだろうか。この時間帯になると必ず、マスターが腕によりをかけて振る舞う一杯のエスプレッソのために、一人の男性がほぼ毎日ポアロを訪れるようになったのは。しかし、安室自身が実際にその男が来店したのを見たことは片手で数えるほどしかない。ついでに言えば、その男はいつもエスプレッソ一杯だけで、他の料理は頼まないのだ。男へのエスプレッソは基本的にマスターがサーブしてしまうから、接触の機会はほとんど皆無であったと言って良い。話を聞いていると、どうやら梓はそれなりの遭遇率を誇り、なんなら世間話をする程度には打ち解けたのだとか。
同じ時間、今日もふんわりと光に溶け出すような明るい笑顔で、軽やかな素材のノーカラーの白いシャツと琥珀色の髪を揺らめかせて、男はポアロのベルをカランと鳴らした。

「いらっしゃいませ!今日も来てくれたんですね〜!」
「こんにちは。マスターのエスプレッソに惚れちゃったもんで、もう来ないわけにはいかなくて…。そうだ、梓さん。今日は時間が取れたんで、昼食も頂いていこうかなって思ってるんだけど、何かおすすめはあります?」
「い、一か月越しに遂にですね…!うーん、ポアロのご飯は何でもおいしいんですよ…、ほら特に今日は、安室さんもいますし。パスタなんてどうでしょう?」
「安室さん?」
「もう一人のアルバイトの人で、すごく料理上手なんです。あ、でも、エルシオさんはイタリアの方でしたっけ…?それじゃあ本場のほうがお口に合うかもしれないですけど…」
「イタリア人と言っても半分は日本人だし、こっちでの暮らしも長いからそこまで気にしてないですよ!うーん、じゃあ、カルボナーラを一つ、その後にマスターのエスプレッソを一杯頂きます」

 梓にエルシオと呼ばれた男は、慣れたようにカウンターの一番端のスツールに腰かけた。ちょうど、キッチンで作業を行っていた安室の目の前にやってくる形で。いらっしゃいませ、と微笑みかけると、きょと、とやけに幼げな表情で数回目を瞬かせて、彼はほけ、と息を吐き出した。

「…どうかしましたか?」
「あっ、いや、ごめんなさい。めちゃくちゃイケメンだなと思ってたらついぼけっとしちゃって…なるほど、貴方が安室さん」
「なるほど、とは…?あまりいい予感がしませんけど」
「俺がここに通うようになって一か月くらい経ちますけど、顔もほとんど見たことないのに覚えるくらい貴方の名前が聞こえましたから…いやでも、見に来たくなっちゃうのが分かるくらい格好いいし、確かに〜って思って……あれ、いやいや、俺何言ってんでしょうね!?男相手に言われても気持ち悪いですよねすみません!!」

 ぶんぶんと両手を振りながら縮こまるエルシオに、思わず気の抜けた安室は口元を緩ませながらメニューを差し出す。
 エルシオの琥珀色の髪は、染めた不自然さはない。日本人というには少し浮いてしまうように見えるし、同じような色味をした両の瞳は光が当たってさらに明るく見える。肌は少し黄色味が弱く、血の色がやや透けて見えるようで、先ほどの梓との会話にもあったが、やはりイタリア人との混血なのだろう。勝手ではあるがほんの少しの親近感を抱きながら、デザートなんかはいかがですかとメニューの一覧を示す。マスターが興味を持って仕入れてみたのだというシチリア産のレモンで、先日安室が試作したレモンパイが期間限定のメニューに仲間入りしたのだ。イタリアに縁を持つ彼に、食べてみてもらいたかった。

「マスターが、シチリア産のレモンを仕入れたんです。せっかくだから新しいデザートを考案したら、メニューに加えてくださって。よろしければ、ぜひ」
「俺も南イタリアの方に縁があって、真夏はよくレモンのジェラートとか食べます。いいなあ、じゃあレモンパイも一つ!」
「ああ、シャーベットとかそのあたりも、レモンとよく合いそうですねえ。食後にお出ししますので、楽しみにしていてくださいね」

 団栗のような瞳を緩ませて笑う彼は、その場にいるだけで、行ったことも無いはずのイタリアの香りを感じさせる不思議な雰囲気を持っていた。ギラギラと輝く太陽とはまた違う、からりと乾いた雲一つ無い高い青空を幻視しているかのような、眩い心地よさ。
安室透という仮面を被り生活している中で、こんなにも和んだ気持ちになったことは無い。思わぬところでの気分転換に、安室の機嫌はふわりと向上した。

「あー、安室さんもうそんなに仲良くなったんですか?」
「ふふ、きょろきょろ目が動くので、なんだか小動物を見ている気分になってしまって…」
「小動物…」
「嫌でした?すみません」
「いえ、他にもそう呼んでくる人がいるんで、そんなに似てるもんかなあと…」




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