36
やむ気配の無い雨に、太宰はどこまでも暗い空を見上げた。
このまま二人で溶けてしまえたらどんなに楽だろう。
そんな事を考えていると、ナマエが静かに声を発した。
「ねぇ、治」
「何だい?」
「私と出会って良かったと思う?」
突然のナマエの質問に、太宰は思わず目を見開いた。
「こんな状況に感傷的になったのかい?」
「…私ね、」
「治に溺れるのが怖かったの」
静かに話始めたナマエの言葉に、太宰はただ耳を傾けた。
「如何して人前で呼び方を変えるのか、私に聞いた事があったでしょう?」
ずっと太宰の心の隅にあった疑問。
中也と同じ様な位置にいる自分との違いを、太宰は何度かナマエに尋ねた事があった。
「自分なりの抑制だった。本当に些細な事だけど、…何か貴方との線引きをしなくちゃ、ずっと甘えて依存して、きっと治から抜け出せなくなる。それが怖かったの」
「何だ、そんな事だったのかい?私、結構気にしていたのだよ?」
俯いたままのナマエの気分を和らげようと、敢えて明るい声色で答える太宰。
笑みを浮かべ、ナマエの頬を包み込むと視線を絡ませた。
「私に依存して溺れて、私無しじゃあ生きられなくなる?…其れで良いじゃないか。何の問題があるんだい?」
交わる視線の奥にあるナマエの視線は揺れていた。
そしてナマエは静かに口を開いた。
「私だけなら、」
「ん?」
「一方だけなら良いと思ったわ。依存して身を滅ぼしても、どちらか一人が正してくれる。…でも駄目。だって治、」
「貴方も私に依存してるでしょう?」
其れはうぬぼれでも高慢でも無く、純粋にナマエが感じていた事だった。
そして、それを彼女自身が気付いていた事に、太宰は少なからず驚いていた。
「私も治も、きっと誰かに依存すると抜け出せない。そんな私たちが相互依存してしまったら、永遠に溺れて身を滅ぼすわ。そうならないように、自制してきた心算だった」
「…中也は、」
「中也は…、私に依存しても、溺れる事は絶対に無い」
「如何して云い切れるんだい?」
「判るわよ。…長い付き合いだもの、中也の事も治の事も、全部判る」
それに、とナマエは太宰の顔を見上げながら言葉を続けた。
「私に関わり続ければ、必ず不幸になる。私の家族も、…作之助も、」
「織田作はナマエのせいで死んだ訳じゃ無いよ」
「そうかもしれない、でも、私の存在はこれからもきっと災いの根源になるわ」
「だから、」
するりと自分の手を包み込むナマエの手。
しかし何か違和感を感じ、視線を下ろした先の光景に、太宰は言葉を失った。
「私を此処で、終わらせて」
太宰の外套の内ポケットから抜き取った拳銃を、太宰の右手に握らせたナマエ。
その右手を両手で包みこみ、
ナマエは自分の心臓に銃口を向けていた。
「ナマエ…何の真似だい?」
「私が生きてる限り眞神の血は終わらない。きっとこの先も、誰かを犠牲に生きなくちゃいけない。そんな事、許される筈が無いわ」
「…馬鹿な真似はやめるんだ。君の治癒力を忘れたのかい?こんな事をしても意味が、」
「今は薬が効いてる。それに、治に触れていれば治癒を抑えられるかもしれない。たとえこの力が異能じゃなくても、可能性はあるでしょう?」
真っすぐ見つめてくるナマエに、太宰は身体が凍りつくような感覚を覚える。
早くこの手を外さなければ。
そう思えば思う程、指先に力が入らずただ腕が震えるだけだった。
可能性は低いかもしれない。
成功するとも限らない。
しかし、もし本当にナマエが死んでしまったら。
その考えがどうしても消えず、太宰は心の底が凍りつくような恐怖心に支配される。
太宰はこの日、初めて自分の異能力を呪った。
「…っ、ナマエ、大丈夫だ、私が付いてる。死ぬ時は一緒だと、誓ったじゃないか」
「きっと犠牲を出さずに生きる方法が見つかる。だから、」
私を置いていかないでくれ
太宰の声にはならない想いが痛い程に伝わり、ナマエは胸が張り裂けるようだった。
今まで見た事の無い、まるで迷子の子供の様な太宰の表情を見て、喉が震える。
溢れてしまいそうな涙を堪える事が、痛い位に辛かった。
(でも、)
ナマエにはこの結論に至った理由がある。
太宰と、織田の約束の為にも、こうするしかないと決めた理由が。
(このまま逃げ通せたら、きっと治は私を守る為に全てを掛けてくれる)
(でもそうなったら、作之助との約束が果たされなくなってしまう、)
"人を、救う側になれ"
収監房の見張りを殺したのが太宰だと確信した時から、ナマエは二人が交わした約束が頭から離れなかった。
(この先、私達が平穏に暮らせる事なんて絶対に無い)
(私を守る為なら、きっと治はまた"殺す側"になる。それじゃあ治は、永遠に闇から抜け出せない)
だから、私が治から離れなくてはいけない、
私が、太宰治を"救う人間"になる。
「お願い生きて、…生きてね治。作之助と私の分も」
「…っ、ナマエ、やめてくれ」
「ありがとう。私、中也と治に幸せをもらったの。生きている事を赦された時間を与えてくれた」
「ナマエ…!」
「…治、」
何処までも優しい声に、太宰は顔を上げる。
ふわりと彼女の香りを感じると同時に、唇が重なった。
最期に見たナマエの顔は、
今までで一番穏やかな笑顔だった。
「愛してる」
一発の銃声が、横浜の街に鳴り響いた。
嗅ぎ慣れた筈の硝煙の匂いが、やけに胸に染みる。
自分にもたれるように動かなくなったナマエの身体を抱き締め、太宰はその名を呼び掛ける。
「……ナマエ、」
雨に吸い込まれるように呟いたその声に、返事をする者はいなかった。
右手からすり抜けた銃が地面に落ちた事など気に留めず、ただただナマエの身体をきつく抱き締める。
彼女の感覚を、身体に記憶させるように。
やがて、先程の銃声を聞いたマフィアの構成員数名が此方に集まっている気配を感じた。
太宰は静かにナマエの身体を横にし、着ていた外套をかける。
雨で冷えていく額に唇を落とし、目を閉じたままのナマエの顔を見つめると、静かに立ちあがった。
雨の降りしきる横浜、
深夜のポートマフィア本部。
逃亡した一条ナマエの捜索に出ていた構成員からの入った連絡は、
彼女の死亡を知らせるものだった。
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