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幸せな思い出が、ない。
八月三十一日の二十時四十分。私は椅子にぐったりと座り項垂れていた。叔父さんはそんな私にチョコレートを一欠片渡す。
「上級呪文なんだ、始めからできる方がおかしい。そう気を落とすな」
練習成果は芳しいものではなかった。指導してくれている叔父さんは慰めるようにそう言う。
これまでの人生が不幸だったというわけではないが、特別幸せなこと、と言われるといまいちピンとくるものがないのだ。どうしよう、一生出来る気がしない。早くも弱気になってしまっている。
「今日はもうやめておこう」
「ええ、もう?」
「明日はもう入学だぞ、早く寝た方がいい」
「うーん……あと一回だけ!」
駄々を捏ねる私に先生はやれやれと首を振った。仕方ないなというOKサインだと勝手に捉えてから改めて思考に耽ける。
幸せな思い出。強い思い。
考えれる限りの幸福な記憶を意識してみたが見事惨敗。『幸福な思い出』なんていうそもそもの定義そのものが曖昧だと思う。もっとこう、具体的に、理論的に教えてほしい。魔法なんてただでさえ感覚だよりのものなのに。そんな抽象に拍車をかけられても困る。
それに、こうも失敗続きだと、そんなこと決してないはずなのに自分には幸せだった記憶なんて一度もないと突き付けられているようで気持ちが沈んでくる。なるほど、上級呪文とよばれる由縁を見た気がする。こんな理由じゃないだろうけど。
「この際幸せじゃないかもと思うものでもいい。とにかく強く思い浮かべるんだ……さあ、集中して……」
段々教え方が雑になってきている。叔父さんは俗に言う天才肌というやつなのだろう。教師には向かないタイプだなと失礼なことを考える。強い思いって、だからそんなの──。
はたと動きが止まる。あの時の思い出なら、もしかすると。
心を落ち着かせるようにすぅーっと息を吐く。ゆっくりと瞳を開いて杖をしっかりと握った。
「エクスペクト・パトローナム!」
青白いモヤが杖先から噴水のようにしゅるしゅると飛び出していった。それは一点に集まると大きな光の球のような形になっていく。集合することで強くなった光に思わず目を細めると、それで集中が切れてしまったのかすぐに消えてしまった。消えた途端、緊張やら疲れやらがドッと襲ってきてその場にぺたりと座り込む。そんな私を叔父さんが興奮気味に揺らした。うぇ、苦しい。
「やったじゃないか、えぇ?! 素晴らしい!」
「形にはならなかったけど……」
「充分だ! 並の吸魂鬼なら足止めできる!」
え〜ほんとに? 多分それは盛ってるだろうけど、でもものすごく持ち上げられて、調子に乗ってしまいそうだ。にやにやと頬が緩んでいく。
私が思い浮かべたのは、生垣に花が咲き誇りだしたときの記憶だった。あの瞬間は驚愕が大半の気持ちを占めていたが、確かに綺麗だと思ったし、強い思いには変わりないだろうと試してみたのだ。結果はご覧の通りだ。物凄いお墨付きを貰ってしまった気がする。
あの花を見るとなんだか心がほわほわと暖かくなるような、そんな柔らかい感覚に包まれるし、あのときの感情は私にとってプラスの感情なのだろう、きっと。……いまいち自覚は出来てないけど。私ってそんなに花が好きだったっけ? 魔法界の花だから知らず知らずのうちに魅了されてるのかな。
「エレナはいい闇祓いになるぞぉ!」
「なんの騒ぎ? 闇祓いって?」
「あ、お母さん……」
この後、闇祓いがなんたるかを知った母が浮かれている叔父さんを懇々と叱り付けていったのは言うまでもない。
柵をすり抜け、九と四分の三番線にでる。高い天井からぶら下げられた掲示板には「ホグワーツ行き特急十一時発」と書かれていた。プラットホームに停車している深紅の蒸気機関車が煙を吹き出している。邪魔にならない所に移動して、家族と別れの挨拶をする。母はまだ不安そうな顔をしていた。
「手紙の返事を書いてね。必ずよ」
「分かってるよお母さん。……でもクリスマスは残ってもいい?」
「……仕方ないからね」
「やった、ママ大好き!」
抱き着いて頬にキスを送れば「現金な子」と怒ったように言う。しかしその顔はとても柔らかく優しいものだった。
汽車に乗り込んで席を探す。入ってすぐのコンパートメントの中には一人の少女が座っていた。彼女は顔が隠れるほどの大きな本を広げて熱心に読み耽っている。顔は見えないがふわふわとした栗色の髪が本の上からちょこんと覗いていた。この子、もしかして、いやもしかしなくても間違いない。
コンコンとドアを軽く叩いて少しだけ開くと、彼女は本を膝へ下ろしてその顔を現した。猫のように丸いくりっとした瞳が私を見定めるように見詰めた。顎を少し突き出すようにしている。可愛い。
「ここ座ってもいい?」
「……ええ、構わないわよ」
「ありがとう」
トランクが大きくて入り口でつっかえてしまった。もうこの際仕方がないから足で押し込んでしまおうと片足を構えたと同時にガコンと汽車が揺れる。振動のおかげでトランクは客室の中には入った。しかし汽笛が鳴る音もしたということは、これはつまり出発するの合図。家族に挨拶しなきゃと慌てて窓から身を乗り出せば、「危ないからやめなさい!」と母に怒られてしまった。
「ねえ、私、エレナ・ワイアットっていうの」
キングス・クロス駅を出発して約三十分ほど経った。とうとう沈黙に耐えきれなくなりせっかくだからと話しかけてみる。唐突に話しかけられたハーマイオニーは、奇妙なものを見るような視線を送ったが、それでもちゃんと挨拶を返してくれた。パタンと本を閉じて私に向き直る、
「私はハーマイオニー・グレンジャー。……あなた、マグル?」
「そうだよ、よく分かったね」
「すぐに分かったわ。だってずっとソワソワとしてて全然落ち着きがなかったもの」
「……あー、ごめん。でも入学生はきっと落ち着かないんじゃないかな。マグルとか関係なしに」
うーん、なるほど。ちょっと高圧的というか、なんというか。私は原作も知ってて大好きだし、精神年齢もそれなりに高いから別に大丈夫だが、これは確かに友達を作るのは難しそうだ。思ってたより重症で思わず苦笑いが浮かんでしまう。そんな私をみてハーマイオニーは何を思ったのか顔を曇らせた。
「……ごめんなさい、違うの。別に嫌味を言いたかったわけじゃないわ」
「うん? あ、分かってるよ、大丈夫」
「本当?……でもだめね、私。いつもこうなの」
えっめっちゃ可愛い。
瞳を伏せて閉じた本の背表紙を撫でながらしゅんと落ち込む彼女はひどくいじらしかった。可愛い……守りたい……。
「ダメじゃないよ!」
「え?」
「あ、いやダメなのかもしれないけど……でもハーマイオニーはちゃんといけないって分かってるし! 大丈夫だよ!」
「……なにが大丈夫なのかしら」
必死になって元気づけようとする私を、ハーマイオニーは目をまん丸とさせたあとにクスクスと笑った。「でもありがとう」そして恥ずかしげに上目遣いでそう告げた。いやもうほんと可愛いな。
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