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三月が過ぎれば、乱暴な春風の吹き荒れる四月が出迎えた。今年ももう終わりが近い。残りの二ヶ月ちょっとの間に待っているのはイースター休暇や双子のダイナミック退学、それにO・W・L試験。あと忘れちゃいけない神秘部の戦い。
「(それから──)」
「ああ、僕これ全然だめだ……」
ネビルの嘆き声に思考を止める。銀の霧しかでてこない杖先を見て、彼は悲しそうに眉を下げていた。
「なにか幸福なことを強く思い浮かべるんだよ」
「そうしてるんだけど──」
丸顔に汗が光っている。ネビルはメンバーで一番というくらいにこの呪文に苦戦していた。幸せな思い出がないことはないと思うし、集中も問題なさそうなんだけどな。
「焦る必要はないよ、他のみんなはちょっと──うまくいき過ぎてるだけっていうか」
必要の部屋の中を埋め尽くす青白い動物たちをみて、思わず口元が引き攣る。かなりの人数がすでに有体の守護霊を創りだせていた。みんな習得はやすぎない? 私一年かかったんだけど。ハリーでさえ半年近く……やだ、才能の化け物に囲まれてる、怖い。そう身震いしたとき、レベッカのサーバルキャットが私の足の間を駆け抜けていった。すごーい、きみはどんな魔法だって得意なフレンズなんだね!
この様子から分かる通り、今DAでは守護霊の呪文を練習している。みんながやりたくてたまらなかった術だ。よかったね、特にスミス。ハリーの教育方針にずっと苦言を呈してたしさ。さぞ楽しんでいることだろうと彼を見たが、スミスもまだ煙しか出せていなかった。
「できた! 見て──あ、消えた……だけど確かになにか毛むくじゃらなやつだったぜ!」
DA初参加のシェーマスが興奮して叫んでいる。その近くでラベンダーが、ハーマイオニーが自身の守護霊であるカワウソと遊んでいるのを見て恨めしそうにしていた。彼女もこの呪文があまり得意じゃなかった。ラベンダー、集中作業苦手だもんね。この前ハーマイオニーの裁縫作業みんなで手伝ったけど私の次に合成獣だった。
「本当はボガートかなにかを使うのが一番いいんだけど……。こんな明るくてみんながいてなんにも怖くないときと、実際吸魂鬼と対峙してるときとはまったく違うんだから──」
「まあ、そんな興醒めなこと言わないで。ほら、とっても可愛いわ!」
「可愛いんじゃ困るよ、きみを守護するはずなんだから」
ふわふわ羽を動かす銀色の白鳥にうっとりするチョウに、ハリーはもどかしそうに諌めた。『ザ・クィブラー』のおかげで仲直りできたらしい。……でもそれももう終わりかな。私は目だけで室内をサッと見回した。いつもチョウと一緒にいる、不機嫌そうな女子生徒──マリエッタ・エッジコムの姿は、部屋のどこにも見つからなかった。
ということは、もう“今日”だ。
そのとき、必要の部屋のドアが開いて、閉まった。ドア近くで練習していた生徒たちが徐に腕を下げていく。
「やあ、ドビー! なにしに──どうかしたのかい?」
「ハリー・ポッター様……」
ハリーが身を屈めた。ちょっと驚いた声だったものがすぐに怪訝な色になる。小さな妖精の姿は見えないけれど、ドビーの声は震えていた。何人かが創り出した守護霊が銀色の霞となって消え失せた部屋は、どうしてか普段より暗く感じた。
「ハリー・ポッター様……ドビーめはご注進に参りました……でも、屋敷しもべ妖精というものは、しゃべってはいけないと戒められてきました……」
やっとドビーが見えた、と思ったらそれは壁に突進していくさまだった。何枚も重ねて被ったハーマイオニーお手製の帽子がクッションになって跳ね返っただけたったが、女子生徒たちは恐怖と同情心で悲鳴を上げた。ハリーが慌ててドビーの小さい腕を掴んで罰しようしないようにさせながら、妖精の顔を覗き込む。
「ドビー、いったい何があったの?」
「ハリー・ポッター……あの人が……あの女の人が……」
「『あの人』って、ドビー、誰?」
部屋に重々しい沈黙が満ちる。ドビーがぱくぱくと口だけ動かした。
「アンブリッジ?」
まさか、という声音のハリーに、ドビーが大きく頷いた。妖精がハリーの膝に頭を打ちつけようとするのを精一杯止めながら、ハリーは「アンブリッジがどうしたの?」と重ねて訊く。
「このことはあの人にバレてないだろ? ──僕たちのこととか──DAのこととか……」
「バレたのよ、ハリー! そうじゃなきゃ、ドビーがこんなふうになったりしないわ!」
「そうです。ハリー・ポッター、そうです!」
真っ青な顔をしたハーマイオニーが堰を切ったように叫んだ。ドビーがそれに触発されるようにわめき声を上げる。ハリーが身動きもできずおののいてる生徒たちを見回した。
「なにをぐすぐすしてるんだ! 逃げろ!」
「こっちへ、何人か──背の低い人はこっちの穴から!」
ハーマイオニーが壁際へ走っていく。掛けられていた獅子のタペストリーを捲り、手を上げて誘導した。「図書館近くの廊下に繋がってるわ!」彼女は首からネックレスを引っ張りだしながらそう言った。紫色の煙が入った硝子がハーマイオニーの胸元で跳ねる。
「(あれって──)」
「ドビー、これは命令だ──厨房に戻って妖精の仲間と一緒にいるんだ。もしあの人が、僕に警告したのかと聞いたら嘘をついて『ノー』と答えるんだぞ!」
「エレナ、早く!」
「うん、分かっ、あっ……」
ネビルの焦り声に駆け出そうとしたが、部屋の奥のほうにある鏡を振り返る。鏡に張り付けられているのは旧不死鳥の騎士団の集合写真、各寮のクィディッチの日程や誰かのメモやくだらない落書き、それから──DAメンバーの名簿。
これって置いていっていいのかな。……だめじゃない? 周りを見ればもうみんな出口近くに殺到している。一番鏡に近いのは部屋のちょうど真ん中で立ち尽くしている私だ。
「エレナ、なにして──」
「先行ってて!」
踵を返して出口に背を向け、奥へ走って鏡へ手を伸ばした。目的の紙を力任せに剥ぎとれば、周囲の何枚かがハラハラと鏡から剥がれて落ちていく。上のほうが破れてしまった。でも名簿の一番上に署名されたはずの『レベッカ・スミルノフ』はある、てことは問題ないか。
「はやく!」
ハリーが出口から叫ぶ。もう部屋に残ってるのは私だけだ。ポケットに紙を突っ込み、私はドラゴンから逃げてる時なみの全力をだして部屋を飛び出した。ハリーが左に走ったので私は右に走りだす。どうしよ、どこ行こう、この先の分かれ道を右に曲がれば階段があるからそこから、飛び降りてショトカすれば前シリウスが使って部屋があるはず──
「っ、」
「声を出すな」
いきなり腕を後ろへと引かれ、なにか言う前に口も塞がれる。感情を押し殺したような囁きは、よく知っている声で。
背後の彼は、私がおとなしくなったのを確認すると口を塞いでいた手を離し、目の前の教室の扉を乱暴に開けて中へ押し入った。私を教卓の中に押し込むと、自分は教室の戸口のほうへと戻っていく。戸口の方から「クラッブがポッターを捕まえた!」という嬉々とした声が聞こえてきた。
「アンブリッジ先生が大臣の元まで直々に連行なさるそうだ」
「ドラコ、その教室は──?」
「ああ、これから調べる。お前たちはフクロウ小屋のほうを見てきてくれ」
パタパタと足音が遠ざかっていく。しばらくしてから扉が閉まり、「もういいぞ」という声がかかった。私はおずおず教卓から顔をだす。
「……ありがとう、ドラコ」
返事はない。ドラコは腕を組んでドアに寄りかかり、小窓から廊下を見つめていた。
暗い教室の中が突然白く光り、ピシャンと大きな音がした。一瞬の雷光が小窓を反射させる。そこに映りこんだドラコの顔は冷え切っていた。
「ドラコ」
気が付くと私はもう一度名前を呼んでいた。縋るような響きをしていて思わず口を抑える。ドラコがゆっくり顔だけをこちらに向けた。私は今、どんな顔をしているのだろう。どう、映っているのだろう。
ドラコはしばらく私を見つめると、緩やかに瞳を細め──せせら笑うように口元を歪めた。彼の纏う尖った空気に息を呑む。
「どうした、そんな怯えた顔をして」
ドアの方からコツと靴音が響き、私は咄嗟に足を後ろへと動かしてしまった。その途端、足音だけじゃなく、時間さえも止まったような静けさが教室を包む。廊下から入ってくる明かりが逆光になっていて、ドラコの表情は見えなかった。「ぁ、」喉奥から引き攣り声がこぼれる。
「ちが、ごめん、」
「なにを怖がることがあるんだ?」
自分でもわけの分からない謝罪を遮って、ドラコが軽く笑う気配がする。再び靴音が鳴った。私の足は、また意思に反して後ろへと動く。だがさっきと違い音は止まらない。できたちっぽけな差はあっという間に縮まり、ドラコは私の目の前で足を止めた。高い位置から影が被さってくる。喉が震えるが声はでない。張り付いたように変に乾いていた。
ドラコはこんなに背が高かっただろうか。なんか、いつもとはまるきり違うひとみたいだ。
なにもかも異様なこの状況で、頭の中の唯一冷静な部分だけはいつものようにくだらないことを考えていた。
「今じゃもうお前のほうが僕より魔法をたくさん知っていて、使うのだって上手いんだから」
「そんなこと、ないと思うけど」
「謙遜するなよ。もっとも──」
そう言いながら、ドラコが教卓へ手をやった。教卓の縁を支えのようにギュッと掴んでいた私の左手の上へと重ねる。手全体どころか、手首までしっかり覆われて教卓に押さえつけられた。触れた手の温度のなさにゾッとする。
「こうして杖腕を抑えられてちゃ、そんなの関係ないけどな」
「……やめてよ。離して」
馬鹿にしているのを隠さない声音に私も端的に切り返す。しかしそう言うとますます力を込められた。まだ強くなるのかと驚くと同時に痛くて顔が歪むが、ドラコは「折れそうだな」と他人事のように呟いている。痛みに耐えきれなくなって突き飛ばそうと右手を上げたが、その手も簡単に掠め取られてしまった。
「細いし、小さいな」
「クィディッチしてる人と比べればそりゃあね」
「そうじゃない、分かるだろ」
困惑してドラコをそっと窺う。薄暗さにも目が慣れてきていた。私を見下ろすドラコは、相変わらず無機質な瞳をしていた。
「こうなれば、僕の方が強いって」
「あ……うん、それはそう、分かってる──」
「分かってない」
コクコクと頷いたのに遮られ、また手の力が強くなる。「分かってないだろ」ドラコはほとんど口を動かさず繰り返した。
「お前は分かってない……分かってないから、いま、こんなことになってるんだぞ」
ドラコが血を吐くように吐き捨てた。さして大きな声ではないのに、その迫力に肩が大きく跳ねる。
「僕がお前を守れないほど弱いと思ってたんだろう」
「まもる……」
「『目立つことはするな。なにかあるなら教えろ』」
それは何度も言われて、聞かれたことだった。何度も何度も、大丈夫なのかと私を気にしてくれていた。それなのに私は全てを笑って流し、隠していた。ドラコは私が結局何も伝えなかったことを怒っている。ようやっと思い至り、あ、と声が震える。それを見たドラコは、「お忘れだったようだが」と目を細めて口元を歪ませた。
「わ、忘れてたわけじゃない、ただ──」
「頼りなかったんだろ? だから僕にはなにも……ああ、そもそも僕に頼るなんて発想にすら至らなかったのか」
「違う、迷惑をかけたくなかった!」
自棄になっている声を押し退けるように言い返せば、ドラコはぽかんと口を開けた。皮肉っぽい雰囲気が霧散する。……納得してくれたのかな。安心しかけた瞬間、「迷惑?」とドラコの口角が上がる。それは引き攣った歪な笑顔で、灰色の瞳には失望が色濃くのっていた。さっきよりもずっと深く、重くなった空気に怯み、そして困惑する。そんな顔をさせるようなことは言ってないはずなのに。
「そ、そうだよ、迷惑をかけたくなかっただけ。頼りないとか思ってたわけじゃない」
「迷惑。なにがだ?」
「それは──寮での立場とか──」
「そんなのあとからどうとでもなる」
「でも……もし私と関わってることが家に、『例のあの人』にまで伝わっちゃったら──」
「『大事なのは今の僕らがどうしたいか』だと! 先に言ったのはお前だろう」
ドラコは絞り出したような低い声で言う。息が詰まって声がでない。そう、たしかに私が言った、だってあの時は離れたくなかった。でも──
「……それとこれとは別だよ」
「へえ。どう別なのか教えてくれよ」
嘲笑混じりに問われて、答えられなかった。
「『周りなんて関係ない』というあの言葉は口からでまかせだったのか」
「そんなことない! でも……」
また何も言えなくなって口を閉ざす。ろくな意味を持たない言葉が宙ぶらりんになって消えていく。私は自分の不甲斐なさに唇を噛み締めて俯いた。
何を言えばいいの、どうしたらドラコは信じてくれるの。あの時の言葉に少しもうそはないのに。たしかに矛盾してるかもしれないけど、だって、少しは周りを気にしなきゃドラコが危ない目にあうかもしれないじゃないか。私のわがままでドラコの人生をめちゃくちゃにしろっていうの? そんなのいやに決まってるじゃん。でもこんな心配は彼にとっては余計で、全部ドラコを傷付けるだけなの? なにが正解だったのか、もう分からない。
頭上からハッと短く息を吐く音がした。それから右手が引かれ、抵抗する間もなくドラコの鎖骨辺りに顔が収まる。固く握られていた右手が離されたかと思えば、すぐに手のひら合わせになり、指を絡められた。手と手をくっつけようとするみたいにぎゅうっと押し付けられ、ドラコの指の間から突き出た自分の指先が浮く。
「……冗談だったんだとしても」
うなじに息がかかる。離したもう片方の手でドラコは私を掻き抱いた。隙間をなくすような、少し苦しいくらいの力で背中をきつく締められて体がのけ反り、頭が自然と上を向いた。
静かな声に耳を傾けながら、私は慎重さを心がけて肺から少しだけ息を吐き出す。今のドラコは私にとって完全に未知数で、ちょっとでも刺激──それこそ拒絶と捉えられる仕草をしてしまえばどうなるか分からなかった。
「それでも僕はあの言葉が嬉しかった」
ドラコは思い出しながら喋っているのか、その声には言葉のとおり嬉しそうな色が織り交ぜられていた。笑っているのだろうか。顔が見たいけど、動けない。
「『ずっと一緒にいたい』と二度もお前から言ってくれて……例えそれがどんな意味であろうと、僕は本当に嬉しくて──だから……」
ドラコは言葉を区切り、ぐっと息を飲み、呼吸を整えた。
「だから、エレナを守りたかった。僕に頼ってほしかった──隣にいれるなら、僕にとってはずっと、寮も家もどうでもよかったんだ」
誰だろう、これは。これまでにない困惑と混乱が濁流のように押し寄せる。だって、『ドラコ・マルフォイ』はこんなこと言わないのに。『ドラコ・マルフォイ』は寮に誇りを持っていて、そしてなにより家族をこれ以上ないくらい大事にしている人のはずなのに。
そう戸惑ってはいたものの、泣き出す直前のようにか細い声に誘われて私の左手はドラコの背中へと動いていた。けれど「でも」と続けられ、空中で手を止める。
「エレナはそうじゃなかったんだな」
むりやり明るくしたような不自然な声。
一瞬、何を言われているか分からなかった。私はそうじゃない。“そう”じゃないって──理解して、ガツンとした衝撃に頭を殴られる。
そうだ、彼の言う通りだ。私は『全部どうでもよかった』という言葉を聞いて、真っ先に『信じられない』と驚愕した。それは私がドラコとは違ったから──全てを捨ててでもドラコと一緒にいようとは、考えていなかったからに他ならない。私にはドラコだけを選ぶことはできないし、あまつさえそれを当然だと考えていたのだ。
私はそんな歪さを自覚していなかったどころか、よりにもよって彼にそれを気付かされてしまった。ドラコは私の薄情さに勘付きながら、それでも一緒にいてくれたのに。
「ごめん、ごめんなさい」
「……エレナ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
喘ぐような謝罪の言葉がボロボロととめどなく口から溢れていった。身勝手な謝罪だと自分が一番分かっているのに、動く口を止められない。一つ声を落とす度、錆びた釘をいろんな角度から何本も捩じ込まれているようなギリギリとした痛みに全身を苛まれる。そうしてできた傷痕から血がどんどん抜けていくように、体の力が萎んでいく心地がした。
ドラコは静かに体を離す。立っているのもやっとといったように悄然とする私に、彼は哀しさを滲ませて微笑んでいた。
こんな顔をさせたのは私なのに、私には慰める権利すらない。そんな事実にまた唖然とする。
こうして傷付けるなら、もういっそ『友達』でいること自体やめるのが一番なんじゃないだろうか。
私の頭の中には、そんな名案とも思える考えが渦巻いていた。
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