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「ねえハリー」

 魔法省、来訪者入口──電話ボックスの中で呼びかけると、ハリーは苦しそうに首を捻って私を見た。

「暖炉で家を確認したんだよね? クリーチャーはいなかったの? ソフィアも?」
「ああ、厨房には誰もいなかった。呼び掛けても、誰も──」

 ハリーはそれきり黙った。ギリギリと軋みながらボックスが降下していく中、それはちょっとおかしいなと疑問が浮かぶ。

 シリウスの安否が確認できなかったから神秘部に乗り込む──これは流れ通りではある。
 けれどもう流れは大きく変わっているはずだ。今のクリーチャーなら、シリウスがハリーの呼び掛けに答えるのを邪魔したりはしないだろう。ハリーが誰にも会えなかったというのは非常に気になる。シリウスはどうして姿を見せなかっ──……えっまさか家にいない? 指名手配されてるのにお散歩とか行ってる?? いやいやいや、それはさすがに……さすがに違うと信じたい……。



 一筋の柔らかい金色の光が射し込み、足元を照らす。光は徐々に広がり、やがてボックス内を全体を満たした。 エレベーターが軽いベル音を鳴らして停止する。

「魔法省です。本夕はご来省ありがとうございます」

 女性の声がして、電話ボックスのドアが開いた。転がり出るようにしてハリーが飛び出す。エレベーターが到着したのは豪華なホールの一番端だった。

 磨かれた黒塗りの木の床が一歩歩くたびにキュッキュッと鳴る。ピーコック・ブルーの天井には金色に輝いてくるくる変化する記号が象って嵌め込まれていて、空に巨大な掲示板が浮いているようだった。壁沿いには金張りの暖炉がいくつもある。
 ホールの中央では、丸い水盆の真ん中に巨大な黄金の立像が並んでいた。どこか高慢な顔の魔法使いの隣には美しい魔女、そして彼らを崇めるケンタウロスと小鬼と屋敷しもべ妖精。うわー、フィレンツェが見たらキレそう。

「こっちだ」

 解放感のあるホールに見蕩れていると、ハリーが囁いた。私たちは、急いで噴水を通り過ぎて歩いていく彼のあとに続く。ハリーはエレベーターに向かう金の門をくぐり、『下へ』を示すボタンを押した。すぐに現れたエレベーターが、ガチャガチャ喧しい音を響かせて金の格子扉を開く。全員を押し込めて、最後に乗り込んだハリーが『9』を押すと扉がガチャンと閉まった。乗ってからそう経たないうちに、「神秘部です」とアナウンスがかかって扉が開く。

 廊下は静寂に包まれており、ひっそりとしていた。全員がおりるとエレベーターは再び上階へとジャラジャラ上がっていく。魔法で動いてるんだろうけどこれって誰がかけた魔法なんだろ。
 ハリーは廊下の奥にある黒い扉に向かった。二メートルほど手前で立ち止まると、「どうだろう」と慎重に前置いて私たちを見返す。ここまで来ても、ハリーはまだみんなを連れていくことに迷いがあるらしかった。

「何人かはここに残って──見張りとして、それで──」
「それで何かが来たら、どうやって知らせるの? あなたはずーっと遠くかもしれないのに」
「みんなきみと一緒に行くよ、ハリー」
「ああ、そうしよう」

 けれど眉を吊り上げたジニー、冷静なネビル、そしてセドリックにまできっぱり言われ、ハリーは途方に暮れた顔を浮かべる。しかし誰も助け舟をださない。なんならレベッカは、ハリーの往生際の悪さにちょっと驚いているようだった。

「なんでもかんでも一人でやろうとすることないぜ」
「私たち、ずっと一緒よ」

 親友二人の言葉に、ハリーはやっとこれ以上の問答は時間を無駄にするだけと判断した。「分かった」と嫌そうにしながらも小刻みに何度か頷いた。ハリーが扉に向き直って近付くと、扉はひとりでにパッと開く。

 大きな円形の部屋だ。床も天井も壁沿いにぐるっと並んだ扉も全て温度のない黒色だった。光源は等間隔で壁に並んだロウソクしかない。大理石の床に薄ぼんやりとした青い炎の影がいくつも落ち、水溜まりのように浮き上がって足元を照らした。

「誰か扉を閉めてくれ」

 しんがりのセドリックが扉を閉めると、廊下から入り込んでいた僅かな光が切られ、部屋は不気味さを増す。私たちを取り囲む十二ほどの扉を前に、ハリーは戸惑っているようだった。
 突然ゴロゴロと大きな音がして、ロウソクが横に動き始める。なぜか壁だけが回り出していた。数秒間、壁はロウソクの青い炎が一つの線に見えるほど急速に回転して、やがてはじめと同じように突然止まる。

「今のはなんだったんだ?」
「多分、どの扉から入ってきたのか分からなくするためだ」

 こわごわと囁くロンに、セドリックが壁をじっと見て答える。首席二人はすでに杖を構えていた。

「そんな。じゃあどうやって戻るの?」
「いや、今はそんなこと問題じゃない。シリウスを見つけるまでは出ていく必要がないんだから──」
「シリウスの名前を呼んだりしないで!」

 ハーマイオニーが緊迫して注意したがハリーは意に返さない。彼は自分の正面にある扉へと真っ直ぐ進んだ。

「夢ではエレベーターを降りた所の廊下の奥にある扉を通って、暗い部屋に入った──この部屋──それからもう一つの扉を通って入った部屋は、なんだか……キラキラ光っていた……とりあえず試してみよう」

 ハリーはぶつぶつ呟きながら、杖を持っていない方の手で冷たく光る扉の表面を押し込んだ。

 部屋の中は背後の待機部屋に比べたらずっと明るかった。天井から金の鎖でぶら下がったランプが細長い室内を照らしている。部屋には机が数卓。中央には巨大なガラスの水槽が設置してあった。

「まあ、キラキラはしてるんじゃない?」
「うん……でもここじゃない……」

 レベッカが冷静に言ったが、ハリーは落胆した声を上げた。しかし一応調べなきゃ、と部屋の中へ入っていく。

「なあ、これなんだい?」
「さあ……魚?」

 濃い緑色の液体で満たされた水槽に浮かぶ、半透明に濁った白いものを見ながらロンが誰ともなく尋ねた。投げやりなジニーとは反対に、ルーナが「アクアビリウス・マゴット、水蛆虫だ!」と叫んだ。

「パパが言ってた、魔法省で繁殖してるって──」
「ちがうわ」

 今までで一番興奮しているルーナをハーマイオニーがばっさり切り捨てる。気味悪そうに水槽を覗き込んで「脳みそよ」と目と眉の間を狭めて険しい顔をした。

「脳みそ?」
「そう。いったい魔法省はなんのために……」
「思考実験の真似事じゃない?」
「これが?」

 ハーマイオニーの疑問に答えると、みんな意外そうに私を見た。前世はがっつりオタクなのでね、知ってるよこのくらいは。怯えているネビルに「マグルの哲学者のね」と補足する。でもよりにもよってこの思考実験を実現しちゃうの? 魔法族のやべーところ全面にでちゃってるよ……ドン引きなんだが。誰の脳みそなの、これ。誰のじゃないにしてもどうやって作ったんだか。

「多分この中の脳みそは生きてるんだろうな……元はそういう仮定の実験だし」
「“生きてる”?」
「うん。外部から刺激かなんかを送られてるはず。そうすることによって脳みそたちの脳内には通常の人と同じような意識が生じて、現実とはなにも変わらない仮想空間で生活してることになってるんだよ」
「それがなんなの? なんの意味があるの?」
「いやそこまでは……えー、自我の創造とか?」

 合ってるか分からないけど口にすると冒涜的すぎて震える。私は自分で言ったくせに顔を顰めた。

「私たちが今こうして存在している世界も、実は水槽の外の誰かによって恣意的に用意された『夢』なのかもしれないよねっていうのがアメリカかどっかの哲学者が考えた思考実験『水槽の脳みそ』の話だし……なぞらえるならそんな感じなんじゃん?」

 緑の培養液が放つ怪しい光のせいか、みんなの顔色は悪く見えた。こんなときなのに無駄な混乱をさせてしまったかもしれない。
 同じような概念でも私は胡蝶の夢の考え方の方が好きだ。仮に自分が水槽の脳なんだとしても自分が自分であることには変わりないよねってやつ。自分を定義できるのはきっと自分だけだって、私もそう思う。


 この部屋には誰もいないとハリーが判断すると、全員急ぎ足で青い炎の部屋に戻る。レベッカは部屋から出ると、流れるように平然と脳みその部屋の扉にバツ印の焼印をいれた。扉が閉まれば、再び壁が音を立てて動き出すが、回転が止まっても焼印はきちんと残っている。恐ろしく早い建造物損壊……。

「いい考えだね……オーケー、今度はこれだ」

 ハリーはまた正面の扉に向かった。部屋に入るなり、私は咄嗟にあげかけてしまった声を慌てて押し殺す。そしてローブの中で杖をこっそりお守りのように握り締めた。この部屋は“例の部屋”だった。

「アーチ……?」
「誰かいるのか?」

 隣でネビルがぽつりと言ったのが聞こえた。ハリーは周囲を警戒することなく、アーチだけを真っ直ぐに見ながら歩いていく。古ぼけたアーチへ近付くハリーに、ハーマイオニーが「用心して!」とはらはらした声をあげた。


 今度の部屋はさっきの脳の間より広く、講演でも行われていそうな円形のホールだった。私たちは部屋をぐるりと囲む石の階段の一番上に立っていたが、部屋は真っ暗で、よく注意しないと足元に階段があることすら分からない。唯一ある照明は、部屋の中央に置かれた台座へ降り注いでいるものだけ。雲間から射し込む天国への階段のような一条の光。それを柔く纏うアーチは、神秘的にも不気味にも見えた。

 リーダーが近付くのだから、私たちもついて行かなければならない。
 それなのに、私はこれ以上動きたくなかった。あのアーチに近寄りたくない。風もないのに擦り切れた黒いベールカーテンを揺らめかせているアーチを見つめる。今すぐにでもネビルとハーマイオニーの腕を掴んで、部屋から飛び出したい気持ちでいっぱいだった。

「ネビル」

 戻ろうよ。
 そう訴えたくて呼びかけたけれど、聞こえなかったのかネビルは迷いなく石段を下りていった。ネビルの背中がどんどん遠ざかる。

「エレナ?」
「……大丈夫、なんでもない」

 入口で足を縫い止めていると、セドリックから小さな声がかかる。気遣う視線に首を振って、私はやっと階段を一段だけ下りる。でもやっぱりこれ以上近付きたくなくて、そこで止まってしまった。

「シリウス?」
「……ここには誰もいないんじゃないかな」

 壊れかけのアーチを調べているハリーに、セドリックが控えめに進言する。「次の部屋に行かないかい?」部屋を見回しながら続けるセドリックに背中を押されたのか、ハーマイオニーも「そうよ」と石段の中腹で足を止めた。

「行きましょう、なんだか変だわ。ハリー、さあ、行きましょう」

 ハリーは返事をしない。ただアーチを見つめていた。うっとりしているようにも見える。アーチにとても強く惹き付けられている様子で、今にも台座に上がってしまいそうだった。

「ハリー、行きましょうよ。ね?」
「うん、ああ……でもなにか……何を話してるんだ?」
「誰も話なんかしてないわ、ハリー!」

 とうとうハーマイオニーは階段を下りてハリーに近付いた。「この陰で誰かがヒソヒソ話してる」彼女から逃げるようにハリーが台座の後ろに回り込んだ。

「ロン、きみか?」
「僕はここだぜ、おい」
「誰かほかに、これが聞こえないの?」
「あたしにも聞こえるよ」

 ルーナまでアーチにふらりと吸い寄せられていく。普段の夢の中にいるような独特な雰囲気は薄れていたが、不思議なことにその瞳はいつも以上にキラキラしていた。ネビルはハリーの質問に答えなかったが、もうアーチのすぐそばまで行っている。いつの間にあんな所まで……腕掴んでおけばよかった。
 私は止めていた足をやっと動かし、ネビルに──アーチに近付く。部屋の真ん中に近付けば近付くほど、温度が下がって背中が薄ら寒くなっていくような気がした。

「『あそこ』に人がいるんだ!」
「『あそこ』ってどういう意味? 『あそこ』なんて場所はないわ、ただのアーチよ」
「人が隠れられる場所はないと思う──ハリー、行こう」
「でも、聞こえる──誰かいるんだ!」

 セドリックが強い口調で、台座に足をかけるハリーの腕を掴んだ。抵抗するハリーに、「私たち、なんのためにここに来たの?」とハーマイオニーが甲高い、緊張した声で叫ぶ。

「シリウスよ、ハリー! 助けるんでしょう?」
「シリウス……」

 ぼんやり繰り返しながらも、ひらひらはためくベールをハリーはまだ見つめていた。そして数秒黙って、やっと動き出す。

「そうだ、シリウス……うん、行こう」
「私たちさっきからそうしようって──さあ、それじゃ行きましょう!」

 ハーマイオニーはムッと言いかけてやめた。戻り道の先頭に立って、無言でジニーの腕を掴む。ロンはルーナの、私はネビルの腕を掴んで石段を上った。この三人は恍惚状態だった。ルーナとネビルはまだ分かるけど、ジニーはどうして魅せられてしまったんだろう……。


 石段を上りきった先の扉横では、レベッカが壁に背をつけて待っていた。眉根を寄せて難しい顔をしている。階段を下りるどころか入り口から一歩も動かなかったらしい。そんなのアリかよ。
 全員が暗い部屋に戻ると、レベッカはまた焼印をつけてから扉を閉めた。

 私の耳には、扉が閉まる直前まで誰かがひそひそと話す声がずっと聞こえていた。
 

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