54



 滑るように後ろ向きで飛んでいるようだった。周りの景色が融けるようにふやけていき、当惑したハリーとシリウス以外はっきりとは見えなくなる。空が深い濃紺から目の覚める緋色に変わり、やがて固い地面に足が着いた。

「エレナ、これは──?」
「イタッ、ちょ、待ってね……」

 ハリーが辺りをきょろきょろすれば、ただでさえギリギリの鎖が首に食いこんだ。締まって死ぬ、三人は無茶。ハリーとシリウスの首からチェーンを外し、逆転時計をポケットにしまいなおす。曲がり角の先から聞こえてきた生徒たちの談笑する声に、シリウスがサッと辺りを見回した。

「こっちへ!」

 シリウスは私たちの腕をつかみ、玄関ホールを急ぎ足で横切って箒置き場の前まで連れてきた。杖のひと振りでバケツやモップを消し去り、私たちを押し込んでそのあとで自分も入ってドアを閉める。
 魔法史の試験会場であった大広間はもう片付けられ、夕食が始まるところだったらしい。扉の外からは、大勢の生徒が玄関ホールを越えて大広間の中へなだれ込んでいく音がする。

「なにが──いったいなにが起こったんだい? それはなに?」
「これは逆転時計。これを使えば過去に戻ることができる。色々と制限はあるがね」
「逆転……それ、ハーマイオニーが三年生のとき使ってた──?」

 右手首を見る。腕時計は二時間前を指していた。

「今ってちょうど捕まったくらい……ハーマイオニーが嘘泣きしだしたあたりかな?」
「うん、多分──じゃあエレナも今学期ずっと授業を受けてたのかい? またマクゴナガル先生からもらって?」
「いやいやいや今年はO・W・Lだよ、そんなことしてたら死んじゃうよ」
「ならどこで手に入れたんだ?」
「多分神秘部。なんか気付いたらポッケに入ってたんだよね」
「盗ん──」
「でない!」

 わざとじゃない、不可抗力だ。……こうしてちゃっかり利用してるから説得力がないのか。

「それで過去に戻って……結局僕たちなにをすればいいんだ? ソフィアを助けるって、いったいどうするつもりなんだ?」
「ソフィアっていうか、過去の私たちを未来の私たちが助けたように助けに行くっていうか……」
「えっなに? なんて?」
「──そうだ、ソフィアが死の呪いに当たってないと言っていたな。あれはどういう意味だ?」
「ベラトリックスの呪いの前に、水色の呪文がたしかに背中から当たってたんだよ。位置的に私しか見えてなかったみたいだけど」

 シリウスは難しい顔で「水色の呪文」と小声でオウム返しした。「もう少し詳しく教えてくれ」と言われる。詳しく、っていわれても……。

「呪文は光線のようだったかとか、それが当たった場所とか」
「え──っと……綿雪みたいな、シャボン玉みたいな丸っこい呪文だった、かな。光線ではなかった。当たったというより吸い込まれた位置は中心より左に寄ってた気がする……」
「シャボン、左寄り……心臓あたりか?」

 確認されるがあんまり自信はない。多分、と保険をかけて頷く。シリウスが考え込んで黙ると、ハリーがなにかに気が付いてアッと声を上げた。

「あのとき、僕もエレナも杖を持ってなかった。なのに三匹の守護霊が来てくれた──牡鹿とフクロウ……それに大犬……あれはもしかして“僕ら”が?」
「うん、きっとね。それからあと、ハリーはベラトリックスに守護霊をけしかけなきゃいけないんだと思う」

 そしてその間、“私”は私をどうにかしてたんだろう。だから私も“私”をどうにかしなきゃいけない。なんかごちゃついてきた、『私』がゲシュタルト崩壊しそう。

「待て、水色の呪文はどうするんだ? エレナ、なんとかできるのか?」
「無理。だからシリウスがなんとかして」
「は?」

 無責任な私の振りに、シリウスは言葉をなくす。ぽかんと口を開いた唖然とした顔で固まった。しどろもどろになりながら「な、なんだって」と口を戦慄かせる。

「きみはなにを……だいたいその呪文は──まさか、そんな──……いや、私には、やはりどうしようも……」
「や、だってこの中で一番魔法に詳しいのはシリウスだろうし……え、ハリーなんの呪文か分かる?」
「わかんないよ、そもそも見てなかったし」
「だよね。だからソフィアを助けることはシリウスにしかできないんだよ」

 シリウスはものも言えない様子だった。私もかなり無茶ぶりで強引な自覚はある。でもやっぱりそれしか思い浮かばない。

「シリウスはその呪文をきっと知ってるはずなんだよ。だって一度やったんだから」
「だが、しかし──そうだ、私以外の誰かがやった可能性はないか?」
「……まあ、それもあるかもしれないね。その誰かは守護霊ださないで潜伏してたのかも?」
「なら、やはり私がそれをやる必要は──」
「……でもシリウス。ソフィアは、シリウスを助けようとしてこんなことになったんじゃないの?」

 ハリーが遠慮がちにシリウスを窺った。鋭い指摘にシリウスはぐっと声を詰まらせる。

「それなら、シリウスだってソフィアのことを助けたいって──守りたいって思わないの?」
「それは……私は……」
「……思わないんじゃない?」

 シリウスを細目で見ながら、代わりに私が答える。なんか歯切れの悪さにイライラしてきた。いつまでじたばたしてるの、この大人は。

「シリウスはこの一年ソフィアのことをずっと邪険にしてたし、さっきだって冷たかったもの。なんなら清々して──」
「そんなわけないだろう!」

 私の言葉を遮ってシリウスは激しくがなる。が、すぐに声の大きさに慌てて自身の口を塞いだ。

「清々してないならなに? どう思ったの」
「それは──もちろん──当然──」

 シリウスは口を開け閉めし、目を泳がせ、結局沈黙してしまった。『悲しかった』の一言すらでてこないって。この期に及んで素直じゃないにもほどがある。


 私はため息を吐きながら「じゃあ」と杖を取り出した。

「私、談話室行ってくる」
「え?」
「ちょっぱやで戻ってくるから、その間にハリーはシリウスに神秘部であったこと教えてあげて」

 そこでフリーズしていたシリウスがハッと意識を戻し、眉根を寄せる。

「決まりを分かっているのか、エレナ。見られてはいけないんだぞ」
「それ、どういうこと?」

 やっぱりシリウスは逆転時計の決まりについて知ってるんだ。まさか使ったことあるのかな。
 彼がハリーに説明するのを聞きながら、杖で自分の頭のてっぺんをコツンと叩いた。体全体に冷たいものが流れていく。

「エレナ?」
「『目くらまし』をしたのか?」

 クリスマス休暇最終日に、叔父さんから身体強化系の呪文とやらのかわりに教えてもらった。二人の驚いた様子を見るかぎりちゃんと成功してるみたい。いえーいとピースしたが無反応だった。え、冷た。あ、見えないんだった。
 素早く箒置き場からでて扉を閉める。扉が勝手に開いたり閉まったりしたところは誰にも見られていなかった。

 人にぶつからないようにしながら廊下を逆走する。「太った婦人」の肖像画も、ちょうど人がでてくるところで助かった。私は入れ違いで談話室に入り、寝室にあるトランクの中から叔父さんの透明マントを取って寮をでる。
 行きと違い、もう廊下には一つの人影もない。廊下の窓から校庭を見ると、ハリーやハーマイオニー、アンブリッジが禁じられた森へ向かっているのが遠目に見える。

 箒置き場を開くと、ハリーとシリウスが緊張した顔で私に向けて杖を構えた。え、傷付く。あ、見えてないのか。

「やっほーローラだよ!」
「……?」
「なんだエレナか」

 私の声にハリーがホッと息を吐いた。再び杖で頭を叩けば、熱いものが背中からじわっと流れていく。今度は二人としっかり目が合った。「なんで談話室に行ったの?」ハリーに問われたので、私はずっしりと重たい透明マントを見せつけるように持ち上げる。

「それは?」
「特別製の透明マント」

 純粋に隠れるという性能だけでいえば、もちろんハリーのものには敵わない。でもこれは実質ひらりマントだから。

「ひらり……?」
「とにかくすごいってことだね?」
「そうそう。多分だけどムーディ先生の魔法の目も凌げる……と思う」
「もし凌げなかったら?」
「まずムーディ先生を狙うしか……」
「なにを言ってるんだ?!」
「そっか」
「ハリー?!」

 シリウス、さっきから話の水を差してばかりなのなに? 空気読んで。ハリーはちゃんと私のボケ全部飲み込んでくれるのに。
 最近気付いたんだけど、転生人ジョークは伝わりづらい反面、慣れてもらえればちゃんと流したり、運が良ければノッたりしてもらえるということが分かった。ゴリ押しisジャスティス。




 姿は見えなくても音は消せない。私たちはなるべく音を立てないように慎重に時間をかけて、こっそり鬱蒼とした森の中を進んだ。
 少し歩くと、木々の隙間からハリーがみんなを帰そうと、ぐだぐだ管を巻いているのが見えてくる。

「ハリーの悪足掻き長いなぁ」
「それでシリウス、呪文のことはなにか分かったの?」
「ああ」

 私の呟きを無視して、ハリーがシリウスに訊いた。シリウスは言いたくなさそうな間を作ってから、「恐らくだが、あれは──」と目を逸らして嫌々ながらも口を開く。

「……そうだな、うん……」
「……?」
「……、……まあ、とにかく──呪文は大丈夫だ。私に任せてくれ」
「シリウス?」

 言葉があやふやすぎて全然信用できなかった。「信じてくれ」と続けられたって、いやそんなそれはもうしっかりとお茶濁す人をどう信じろと。

「え、本当に助ける気ある?」
「当たり前だろう! 彼女が助かるなら、私は──いや、そんなことはどうでもいいんだ」
「よくないよ、一番大事なとこじゃん。“私は”? なに?」

 どちらにせよシリウスに任せるほか道はなかったし、ちゃんとやる気になってくれたのはいい。……けど、一度くらいきちんと口にしてくれたって──そう詰め寄ろうとする私をハリーが止めた。

「シリウスを信じよう」
「ハリー……!」

 息子の言葉に感極まったのかシリウスの目元がキラリと光った。

「それに、シリウスの本音は僕たちよりソフィアが先に聞くべきだよ」
「ハ、ハリー……」

 ハリーは名付け親に向けて微笑む。その笑顔はとんでもなく柔らかかったけれど、『絶対に言えよ』という圧が強すぎて私までちょっとハリーが怖くなってしまった。



 ゴタゴタ言い合っているみんなを離れた場所から見守りながら、不意にハリーが閃いたというように「そうだ」と小声で囁いた。

「今この場でみんなを止めればいいんじゃないか? そうしたらソフィアどころか、誰も危険な目には──」
「ハリー、さっきも言っただろう」

 シリウスが諌める口調でハリーの腕を掴む。彼の顔は、ハリーが飛び出していくんじゃないかと冷や冷やしていた。

「時間を変えるなんて本来はやってはいけないことなんだ。もし誰かに見られたら──」
「僕たちに見られるだけじゃないか!」
「今あの場にいるきみはかなり切羽詰まっているんだぞ。そんなところに自分自身が飛び込んできたらどう思う?」
「それは、僕──たぶん気が狂ったかなと思う。でなければ、闇の魔術かなにかにかかってるのかって……」

 ハリーは話しながらなにが問題なのか気付く。シリウスのやれやれという顔が気に障ったのか、ハリーは少しむすくれた表情を浮かべた。

「別に、ちょっと思いついただけだよ」
「どうだか。止めなければ本当に突っ込んでいきそうだったが」
「しないよ!」

 めっちゃ喋るこの人たち……もうちょい忍んでほしい。まとめてシレンシオしたろかなと悩んでいれば、うなじに生暖かい息がかけられる。何気なく振り返ると、すぐ目と鼻の先に爬虫類のような動物の顔があった。

「ヴァッ」
「どうし──ああ、なんだセストラルか」
「シリウス見えるの?」
「アズカバンじゃ囚人の死なんて日常茶飯事だったからな」
 
 私の悲鳴にシリウスが警戒して、すぐに脱力する。シレンシオすればよかった、自分に。言い合いに夢中で誰もこちらに気付いてないのが幸いだ。
 目の前のセストラルは、何食わぬ顔で私の腹部辺りをぺろりと舐め上げた。こしょばい。
 



 三人の中で一番泥まみれで血だらけだったハリーが森奧のセストラルの巣までお持ち帰りさせられそうになったりと、まあちょっとしたハプニングはあったけれど。
 それでも私たちは打ち壊された電話ボックスの前に降り立つことができた。

「死喰い人たちはいつ来るかな」
「もうスタンバってるんじゃない?」
「ああ、囲まれたもんね……じゃあもし僕が来なかったらどうするつもりだったんだろう」
「すごすご帰ることになってたんじゃないか?」
「めっちゃ滑稽だねそれ」

 ダサ……と眉間が狭まった。シリウスは「ちょっと見てみたかった気もするがな」とニヤッと笑う。

 何が起こるか分かっていて且つなにをすればいいか決まっているからか、みんな落ち着いていた。気の抜ける会話をしながらホールを抜け、神秘部に向かう。
 青い炎が揺らめく黒い部屋には、もう既に二つの扉にばってん印の焼印が入っていた。ハリーはちょっと二つの扉を見比べて、うち一つの扉を開ける。彼は中を覗いて、得意げに私たちを振り返った。

 ハリーが一発で引き当てたアーチの部屋で、透明マントを被り“そのとき”を待つ。

 数十分もすれば、扉が乱暴開いた。扉口に現れたハリーが石段の一番上から勢いよく転がってきて、アーチが置かれた台座に背中を打ちつけて咳き込む。そんなハリーの姿に、追ってきた死喰い人たちが上段からあげた意地悪な笑い声が木霊する。別の扉から現れた新たな死喰い人たちも含め、十人近くがハリーを取り囲んだ。すぐ隣からぎしぎし歯噛みする音と、野良犬の威嚇のようなフーッという荒い呼吸音が聞こえてくる。私とハリーは、それぞれ無言でシリウスの腕に自身の腕を絡めてがっしり拘束した。どうどう落ち着け、させるか。


 ルシウス・マルフォイが覆面を外し、ハリーに向かって手を差し出す。ハリーが入ってきた扉から、ネビルが転がってきて、すぐさま大柄な死喰い人に捕えられた。今度は私の片腕にぎゅうっと力を込められる。止めた手前いかないよ。いきたいけど。
 セドリックとレベッカ、そして私が現れ、乱闘が始まった。光線のいくつかがマントによって不自然に弾かれたが、みんな戦闘に夢中で気付いていない。
 ベラトリックスの死の呪いを私が防御した。そろそろだ。そう思った瞬間、部屋の温度が一気に下がった。

 どうして吸魂鬼の呼吸音はこんなにガサガサうるさいんだろう。百台分の壊れたテレビが砂嵐を流してるようだ。頭や耳が痛くなってくる。うるさいおかげで呪文を唱えてもバレないんだけどさ。

「エクスペクト・パトローナム!」

 銀のフクロウがネビルに向かって一直線に羽ばたき、大犬がハリーの傍を駆け回る。そしてハリーの牡鹿が部屋にいる吸魂鬼を残らず追い立てた。
 来るとわかってれば怖くない──とまでは、さすがに言いきれない。でも多少は恐怖も緩和できる。そもそもが私アドリブ激弱だから。このときの守護霊不発はそこの動揺つかれた感もあるよね。

 百体の吸魂鬼が退散すると、五つの白い光が部屋の中に降り立った。騎士団メンバーが私たちを保護していく。シリウスが──ソフィアがネビルと私を避難させ、ベラトリックスの正面に踊り出た。

「シリウス!」
「分かっている──」

 シリウスは既にソフィアの背中に狙いを定めていた。何語か分からない言葉で呪文を小声で紡いでいく。

「──さあ、来い。今度はもう少しうまくやってくれ!」

 緑の閃光が放たれた刹那、ハリーがすぐに守護霊を呼び出してベラトリックスの視界を邪魔した。私はシリウスに走りよろうとした自分に向けて金縛りの術をかける。
 長い詠唱の末、シリウスは杖先から淡い青の光を創り出す。杖から離れた光の弾は、見えないレールを進むように、ただまっすぐソフィアの背中側から心臓の中へと溶けていった。

──そうしてソフィアの身体が台座から倒れ、転がり落ちる。


 成功した。これできっと大丈夫、あとは戻るだけだ。私たちがホッとした次の瞬間、ベラトリックスの死の呪いがマントにぶち当たった。目の前を満たした緑に三人とも肩を跳ねさせる。

「わあ」
「びっくりした」
「『わあ』って。エレナもハリーも、なんでそんなに軽いんだ?」

 驚きすぎると逆に冷静になるんだよ。「しかしこのマントやばいな」シリウスこそ語彙が溶けてるじゃん。

「エドガー、いったいなにをしたんだ……?」
「……待っっっなんかこのマント崩れ始めてない?」
「え?……本当だ!」

 大きなマントは端からさらさらと砂に変わりはじめていた。砂は地面に落ちる前にきらきらと消え、塵すら残さない。わあ、便利……。じゃなくてやばい。

「まずい──マントがなくなる前にここから去るぞ!」
「うん……あっ待って!」

 ポケットから逆転時計をだし、レダクトで粉々にする。「52」の製造番号が残った欠片を私の杖の横に置いておいた。ハリーがもったいないと言いたげな声をもらす。

「そんな、なにも壊さなくても──」
「このくらいしなきゃ私多分気付けないし……それに無断で使ったのが魔法省にバレたらやだ!」
「やだって……」
「バレて怒られたら就職に響くよ」

 闇祓い志望のハリーは黙りこむ。シリウスは最初からその可能性に気付いていたのか、一言も口を挟まなかった。多分、一番怒られるとしたらシリウスだろうな。私たち未成年だし。
 

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