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まさか近づいてきているとは思わなかったのか、ローブの主は引っ張られるままに転びかけてその場でたたらを踏んだ。
「うわっ、あ……」
「ハリー?」
「やあ、エレナ……もしかしてバレてた?」
呆れ顔で腰に手を当てる私にハリーは気まずそうにニヤッとした。
「いつから聞いてたの?」
「ううん、ここからじゃなんにも聞こえなかった。ただ話してるなと思って、つい。……ねえ、マルフォイとなに話してたの?」
「盗み聞きするような人には教えません」
「マルフォイとエレナって仲良かったの?」
「さあどうでしょう」
はぐらかすとハリーは自分のしたことも忘れてムッとした顔をする。そして「いいかい」とまるで説教をするように低い声でさっきまでドラコが立っていた場所を睨んだ。
「あいつは今学期、確実になにか企んでるんだ。どういう仲かは知らないけど、もうあいつとは関わらない方が──」
「それより、ハーマイオニーから聞いたんだけどその本にかなり助けられてるらしいね。さっきのハッカもその本のアドバイスだったの?」
「えっああうん、まあ……陶酔薬にはこれをいれるといいってメモしてあって……あの、でも、ロンを助けることが出来たのだって、この本のおかげなんだよ」
片手に持ったままだった上級魔法薬の教科書を見ながら伝家の宝刀『ハーマイオニー』の名とともに話題を移すと、ハリーはドラコの件を一瞬で忘れてあからさまに警戒した。「ベゾアール石が全ての毒に有効だってこれに書いてあったから」本の弁護を捲し立てていく彼に苦笑する。この慎重になりよう、いっそ面白いくらいだ。ハーマイオニーから本に関してはもう散々小言を食らっているからこその反応だろう。
「別に怒ったりしないよ」
「……ほんとに?」
「ほんとほんと」
注意したってどうせ意味ないだろうし。
口にしてもいい事はないので、そんな本音は笑顔に隠す。しかしハリーは、私が非難するつもりがないと分かると今度はプリンスの素晴らしさについて語り出した。ハリーはいつまで経ってもチョロ──いや、純粋だなあ。ほんと、微笑ましいのと同じだけ心配だよ。
廊下を歩きながら、ハリーが見せてくれるページの隅に書かれた走り書き──『セクタムセンプラ』の文字を見て、密かに唾を飲み込んだ。
「(……ていうか“また”とか言ってなかった?)」
そもそも“あの時”ってなんぞや。
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身勝手な決意を宣言してドラコを困らせた、数日後の夜。ベッドに座り、トランクの奥底から小箱を取り出す。しばらく眺めてからリボンを解いた。中には紫の敷布と薬瓶が入っている。頭冴え薬だ。
これは一昨年、予想外の代表選出でメンがヘラっていたときに『考え事したいときに使ってね』とネビルがくれたものだった。それ以降、服薬はせず、時折瓶を磨いたりして大事に眺めていたけれど──とうとう使う日が来た。だって最近、なーんかモヤモヤして堪らないんだもの。なにがどうとか明確に言い表すことができないけど、なにかが色々詰まってる感じがする。私の皺の少ない脳みそだけではもう限界だ。
少しでもいいから何か紐解けないかと、私は瓶の中身を一気に飲み干した。
薬は甘くもなく苦くもない。ただただ冷たくて、血管を通って最後には頭蓋の奥深くまで沁み込んでいくような心地がした。ビリビリとした痺れを感じるほど急速に頭が冷えていく感覚に目を瞑って浸る。
「……ああ、そっか」
目を閉じたまま、体を後ろに倒して寝転ぶ。
今年に入ってからずっと感じていた違和感の正体がやっと分かった。
なんでダンブルドアの手が綺麗なことが気掛かりだったのか──やっと思い出した。
私はすっかり忘れていたのに、あの出来事が回避されている。そんなことができるのは、きっとあの人しかいない。
その時、すうっと青白いヒグマが寝室の壁をすり抜けて入ってくる。聞き慣れた声で「校長室へ」とだけ告げると、守護霊は霞となって消えた。見計らったようなタイミングだな。もしかして監視カメラでもついてる?
馬鹿なことを考えながら重い腰をあげる。腕時計で時間を確認すると、針はもう八時過ぎを指していた。うーん、この時間……まだ出歩いててもギリ大丈夫な時間だけどフィルチに見つかったら絡まれそう。私は見つかりませんようにと祈りながら、宿題をしたりゴブストーンで遊んだりする生徒たちで溢れる談話室を通り抜け、肖像画の扉を押し開いた。
ざあざあ五月雨の降る音がする夜の廊下を歩く。今日は一日天気が悪く、朝からずっと雨が暴れ柳の青々とした葉を濡らし続けていた。
初めて校長室に来た時もちょうどいまくらいの時期だった気がするなあ。あの時は散々だった。いや、真実を知れたと思えばそうとも言えないのかもしれないけど。あとペンシーブを体験できたのは楽しかったかも。それに剣も拝めたし……やっぱ散々ってほどでもないか。
「校長先生、こんばんは」
「こんばんは、エレナ」
校長室前のガーゴイル横に立っていたダンブルドアはにこりと微笑んだ。
「エドガーに呼ばれてきたんですが……」
「もちろん存じておるとも。さあついておいで──タフィー エクレア」
今回は美味しそうな合言葉でホッとする。エクレアといえば細長いチョコがけシュークリームを思い出すし私はそっちのが好きだ。こっちのエクレア──多分ココア風味のシロップを中に詰めたバターとミルクのタフィーのことだろう──も嫌いじゃないけど。勉強中に口の中で転がすのが好き。たしか前回の合言葉は名前を言ってはいけない例のあの虫を使ったおかきだったような……思い出さなきゃよかった、忘れよう。
ていうかもしかしてダンブルドアは私を通してあげるためだけに立ってたの……? 叔父さん、ダンブルドアを怖い怖い言いながらめちゃくちゃ普通に雑用させるよな。
円柱に沿って動くエスカレーターに乗って校長室まで下っていく。ダンブルドアの後に続いて室内に入ると、校長室の真ん中には、山ほどエクレアを積まれた皿が乗るテーブルが設置されていた。案の定叔父さんはのんきな顔してのんびり紅茶を啜っている。
「叔父さん……優雅だねえ」
「ふふ」
皮肉ったつもりなのに薔薇を背負った笑いで返された。ふふて。もはや誰? 紅茶に人格変える薬でも入ってる?
叔父さんが杖を振るとふかふかそうな椅子が一脚ふよふよと運ばれてくる。テーブル前にちょこんと置かれた椅子を手で示し、座るように促した。いや勝手知ったる〜……。相当入り浸ってるんだな……。
唖然としつつも席に腰掛けるとクッションにお尻が深く沈み込んだ。そのふかふか加減に感嘆しているとエクレアが一つ取り分けられる。「エレナはタフィよりこっちのほうがいいじゃろう?」ダンブルドアが茶目っ気たっぷりにウィンクしてきた。え、いや、そう……そうですけどなぜ……なぜ知っている……。戦慄して硬直する私を叔父さんが面白がるようにクスクス笑った。まさか教えたのか。タフィーのほうのエクレアを好物として合言葉に設定している相手に「今からくる奴は普通のエクレアが好きなんだぞ」とか言ったのか!
にこにこしている叔父さんとダンブルドアに、これ以上気を揉んでも無駄だと判断した私は、もうこの際だからとお茶会を楽しむことにした。手掴みで先端からかぶりつきたいところだけど、さすがに校長の前でそんな粗相はできない。何個か持ち帰らせてくれないかなと都合のいいことを考えながら銀のナイフとフォークを手に取った。
ガラスの小皿に乗せられたエクレアを半分に切れば、黄白色のクリームがどろりと流れていく。エクレアはサクサクしたクッキー生地でできていたが、シューいっぱいに詰められたクリームのおかげでしっとり柔らかくなっていた。中身のクリームはカスタードクリームにビーンズをふんだんに使ったバニラクリームが練り混ぜられているようで、上品な甘さに仕上がっている。たんまりかけられたダークチョコレートのほろ苦さもちょうどいいアクセントになっていて、後味をより一層濃厚に感じた。咀嚼するたび、やさしいバニラの香りが鼻を抜けていく。一口で得られる満足感がえげつないエクレアだった。
これはかなりお高いエクレアとみました。さすが校長。紅茶も渋めだから飲むと口内が華やかになると同時にさっぱりするから永遠に食べれる。やばい、このままじゃエクレアと紅茶を消費する無限機関になってしまう。
「──さて」
ネビルたちと食べたい、包ませてくれないかな……なんていやしいことを考えつつエクレアをしばらく堪能していると、叔父さんがティーカップを静かに置いた。短い言葉と陶器がぶつかる僅かな音を合図に空気が張り詰める。私も急いで口を拭き、叔父さんの言葉に備えて背筋を伸ばした。
「まず私はきみに謝らなければならない」
「えっ?」
悔恨を隠さない重い声色に虚を突かれて私は目を瞬かせた。叔父さんの深い海色の瞳が哀しそうに激しく揺らいで光る。ダンブルドアは、そんな私たちをいつもの透けるように鮮やかなブルーの瞳で見守っていた。
「叔父さん、いや、校長先生……?」
部屋の主は普段通りの入道雲を浮かせた真夏の高い空のような澄み切った穏やかな眼の色だ。だというのに、その瞳はどうしてか私の胸にいつもとはまた違ったいやなざわつきを覚えさせていた。
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