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先生の眉はピクリとも動かなかった。表情はもちろん顔色さえ変化しないのはさすがだなと感心した。年がら年中首詰めボタン尽くしの服を平気な顔で着てるだけある。でもその顔色があんまり涼しげなものだから、もしかすると血が流れていないだけかもしれないなんて皮肉が浮かんだ。いや、本当に血も涙もないならそもそもあんなこと言ったりしないか。
「常々感じていたが、グリフィンドールのジョークは品性と礼節に欠ける」
「これをジョークと捉えちゃう感性もどうなんでしょう」
「では素直な感想を述べて差し上げよう。校長と我輩に対する侮辱か?」
「侮辱なんてしてません」
本当に『侮辱されて不快だ』と言いたげな表情にまたまた感心する。演技上手だ。手袋やゴーグルのせいで熱が全身にまとわりついていたのに、頭はどこか冷えていた。余談だけど、スネイプ先生は魔法を使って防護してるから危険薬品を使用した調合中でも身軽でいいらしい。私にもやってくれと頼んだら普通に無視された。世知辛いスネイプ先生だ。
「本人から聞きました、この前呼び出されて」
黒い瞳にやっと僅かな動揺が走り、サッと血の気が失せる。駄目押しに「『エレナにはバレてしまうだろうから』ですって」と笑えば先生は口を引き結んだ。研究室に沈黙が戻ってくる。
今日はこれ以上進められないかな。そう判断して、私は鍋の火を消した。もうやめちゃおう、どうせ根の結晶化は一ヶ月かけて行う必要がある。精製のほうもほとんど終わりかけだったし、とビーカーも片していく。
「では……聞いたのか」
「ええ、叔父さんからも謝罪を受けました……あの人が謝ることなかったのに」
静かに押し出されたような声は普段の近寄りがたい不機嫌さが消えたものだった。案外あっさり信じてくれるんだ。素に近いであろう先生の様子に物珍しさを覚える。
開いていた本を閉じながら小さくボヤいた。先程のグリフィンドールジョークと同じくらい失礼な物言いだったはずだが、今度は侮辱かと怒られない。
「さっきは先生のせいだなんて言いましたけど、別に責めるつもりはないです。仕方ないことだって理解してます」
先生が引き起こすというか巻き込まれた件自体に対して色々こう、思うところがあって意識がいってしまっただけ。先生個人に対して責めるとか恨むとかそういう感情は一切ないし、むしろ申し訳ないと思っているくらいだ。
「先生には感謝してますよ。だって薬を処方してくれたのは先生なんですよね? 先生のおかげであの人は……ダンブルドアは一年も生きていられるんですから」
「……きみは殊の外淡白な人間だったのだな」
逆に責められてちょっとおかしくなる。まさかスネイプ先生に人情的なあれを求められる日がこようとは思わなかった。
「そうですね。涙一つでてきません」
薄情な自覚はあったけど、ここまでとは思ってなかった。あの夜からもうすぐ一か月が経とうとしている。それなのに私はまだ一回も泣いていなかった。「自分でもびっくりです」と眦を下げれば、先生の眉間に皺が寄った。不義理を咎められていると感じて肩を竦める。
だって哀しいとかより、衝撃のほうが大きかった。
自分が忘れてたこととか、その間に事態が最悪な方向に動いていたこととか。大きな流れがすでにできてしまっていて、自分じゃもうなにも手出しできないって、ここから何かしようとすることは本当に無駄だってそんな現実をぶち当てられてしまったから。それ以降も、ずっとそんな感じで放心というか燃え尽き症候群というか。とにかくそんなショックに飲み込まれていた。
「(……あ、現実味がないからか)」
唐突に思い至り、片付けのために動かしていた手を止める。そっか、受け止められてないのか、私。大事な人の死に触れたことなんてないし、ましてやそれを宣告されたこともない。非日常なことが続いたせいで“その結末”が現実と思い切れていないのかもしれない。なるほどな〜と納得しながら作業を再開する。ちょっとすっきりした気がする、ここがスネイプ先生の研究室じゃなければ鼻唄歌ってスキップしてた。そんな爽快感。
あ、フル・ギルの小瓶、どうしたらいいかな。尋ねるために顔を上げて先生を見る。彼はまだ険しい顔をして私を睨んでいた。リリーさん関連じゃなくても案外義理堅いんだな。ちょっと意外かもと失礼なことを考えながら小瓶を片手に口を開いた。
「しんでほしくない」
スネイプ先生の目が大きく見開かれたのがやけに鮮明に見えた。あれ、私今なんて言ったっけ? たっぷり時間をかけて反芻して理解し、全身の毛がぶわっと逆立つような感覚に襲われる。
「ちが、ごめんなさい違います! 今のは、ええと──」
「……おい、」
「違う、ほんとうに違うんです。いや違わないけど、でもちょっとあの──なんていうか……」
なんてことを言うんだ。この人の前でそんなこと言ったら、本当に責めてるみたいだ。焦燥感に煽られ思い付く端から闇雲に言葉を重ねていく。大丈夫、大丈夫でしょ? ちゃんと割り切ってるんだから。仕方ないことってさっき自分でも言ったじゃないか。なのにこの口はもうほんとおばかなんだから。思考に反したことを勝手に口走らないでほしい。
そう言い聞かせなんとか混乱を鎮めようとしたが、拍車をかけるように「なにも違わない」なんて言い放たれてますます慌てた。
「違います、先生を責めるつもりなんて──」
「静かにしたまえ。余計なことを考えるな」
「余計って……」
「“しんでほしくない”のだろう」
否定するために胸の前で振っていた手が石のように止まる。反論しようとした口は動かず、中途半端に開いたままだ。私をこんなふうにした張本人の先生は淡々としていて、いっそ興味がないといった様子だった。
「それすらも違うというのかね。きみの口は嘘を吐くためだけに動くのか?」
口を歪めてせせら笑われる。そうかもしれませんと憎まれ口を叩いてやりたかった。しかし口が勝手にまた違うと動きかけたのでギュッと唇を噛み締めて阻止する。私の体なのにどうして意思に反することをしようとするのか。遺憾だ、許せない。いや、もっと許せないのは全てを勝手に決めてしまった叔父さんだ。
あの夜。『エレナのせいじゃない』『私の我儘なんだ』と、あの人は青い目をキラキラ煌めかせて軽やかに笑ったけれど。その笑顔さえ今は思い出したくない。
だって私のためじゃないなんてそんなはずはないのに。本来のあの人はなにもしないつもりだった。
それを私が余計なことを言ったから。
私がみんなを助けようと無茶ばかりしていたから。
私がこの世界に生まれてしまったから。
「(それなら生まれないほうがよかった)」
これまで生きてきたなかで貰ったやさしさや愛を、すべてないがしろにしてしまうようなひどい感情が心を満たす。叔父さんもこんな気持ちを抱いたのだろうか。それを思うと益々苦しさと、やりきれなさで泣いてしまいそうだ。
なんて、半ば茶化すような気持ちだっただはずが、やけに目元が生温かい。うそ、まさか本当に泣いてるの。えっ急に? 戸惑っている間にも目から熱いものが次々溢れ出していく。
駄目だ、ここで泣いちゃ、先生がいるのに。
そう思うのに、目は溶けていくばかりで鼻の痛みも治まってくれない。止めようと思えば思うほど零れていき、またしても体の制御がきかなくなった。泣くなんてそんな、落ち着かなきゃ。
そう思って深呼吸しようと口を開いたのに、今度は嗚咽が飛び出すものだから深呼吸どころの話じゃなくなった。意図しない言葉といい、嗚咽といい。私の言うことをとんときかない口だ。喉を引き攣らせながらなんとか息を吸い込むと、新鮮な空気がすぐさま肺の中へ入り込んで呼吸が巡回する。そうするとこれまでは痛覚が麻痺していたのかと思うほど、急に目の覚める痛みが胸を締め付け、苦しさで体中が軋んだ。そんな痛みを逃がしたくて、とうとう口を大きく開いてしまった。
「しなないで」
しなないで、やだ、どうして。
嗚咽の合間に子供の駄々のような我儘が落ちていく。聞こえた自分の声に頭を振った。死なないでなんて無理だ、だって今更変えられない。もう本当にできないんだ。
こんなどうしようもないことをこれ以上言いたくなくて手で喉を締めた。声を物理的に押し殺そうと皮膚を掴んで爪を立てる。汗ばんだ手から早い脈が伝わってきた。
ぼやけていた視界の中で、突如として目の前の鍋が消えた。と思ったらゴーグルがひとりでにずり上がって頭から抜けていく。ぼさぼさの頭も直さず呆然と、ふよふよどこかへ飛んでいく防具を目で追っていれば突然膝裏になにかがぶつかりかくんと折られてバランスを崩した。そのまま床に尻もちをつくかと思えば、すぐにお尻を固い木の感触が受け止める。椅子だ、座らせられた、それも強引に。なんで。疑問に答えるようなタイミングで目の前に湯気立つ紅茶がなみなみ注がれた白いティーカップが置かれた。
いつの間にか泡頭呪文も解除されていて、鍋以外の道具も机の端のほうにまとめて片付けられていた。薬も資料ももはやなく、いまや研究室には私のしゃくりあげる声だけが繰り返し響いている。
「……なんですか、これ」
スネイプ先生は自身のデスク近くのスツールに腰掛け、自分も私に寄越したのと同じカップを持っていた。先生が何も言わないので仕方なく尋ねると、『見りゃ分かるだろ何聞いてんだ』と言うように眉をひそめられた。無茶いうな。これがお茶なのは分かる。私だってこれでも『三度の芋よりティータイム』を掲げる国の国民だ。でもいったいいつ、どこでどうしてお茶会する流れになった。十五時なんてとっくに過ぎている。
「あの薬は不純物が入って調合できるようなものではない」
「不純物……」
掠れ声でそう繰り返したと同時にぽた、と机に水滴が落ちる。あ、涙のことか。でもゴーグルしてたから薬に入ることはないと思うけど。ゴーグルから溢れるほど泣きそうって判断したの? 先生の想像の私めちゃくちゃよく泣く。
「きみの我儘をきき始めてからもうすでに四ヶ月になる。それを『うっかり余計な異物を混入させてしまったのですべてやり直し』──などという愚行を我輩が許すとでも? きみは材料だけでなく学期が始まって以降浪費されている我輩の時間も無駄にするおつもりか?」
「……つまり?」
「さっさと飲んで作業を再開するか寮に帰りたまえ。いつまでもグズグズここに留まり我輩を楽しませていただく必要はない」
木魚の音がする。あ、ヴォルデモートのことではなく。リアルな木魚の音ね。それはぽくぽくぽくとゆっくり三度、やがてチーンと鈴を鳴らした。訳すと『これ飲んで元気出しなよ』ってことか。やっとスネイプ先生の謎行動の意味が分かり、小さく笑う。それすらも咎めてこないって、これは相当だな。親指の付け根で顔に押し付けるように拭い去りながら鼻を啜る。
「そういう不器用な気遣い……そういうとこがオタクの秘孔を突いてるっていうか」
「おたく」
「あ、蜂蜜ください」
「そんなものはない」
スネイプ先生はいつも通りの仏頂面で切り返したが、私が軽口を叩いたことに心なしかホッとしているようにも見えた。まあね、そりゃ女子生徒がいきなり泣き出したら怖いよね。いくら先生でもビビるよね。しかもことがことだし。
カップを傾けて熱い紅茶を口に含む。その深い味わいにしっかり蒸されて丁寧に淹れられた紅茶だと分かった。いつから準備してたんだろう。そんなことを考えながら飲み下し、熱い液体が喉を通って落ちていくのを感じてつい身震いをする。追って全身の筋肉がじわじわと弛緩していくような感覚がやってきた。体が望むがままに一つ深く息を吐くと、荒くなっていた鼓動が徐に収まっていき気持ちが落ち着いていく。
「(……このカップ可愛いな)」
高級感ある陶器の側面には花の模様があしらわれていた。これ百合の花かな。……百合……あっリリ、……ひぃ。SANチェック。心の余裕を少し取り戻した状態でカップをよく見て気付いてしまった。絶対とっておきのやつだけどこんなん私が使ってよかったの?
「なにか文句でも?」
「いえ……」
先生が圧迫するような声音で言ってじろりと睨む。あんまりじろじろ見ていたから不満があると思われてしまったらしい。文句、文句というか……いや文句はないんですけど……。何とも言えず曖昧に笑って濁す。
「先生は桜のような人だって思ってました」
「なに?」
「……違うか。思ってます」
全然違う話題を振っても先生の不機嫌な顔付きは変わらない。なんなら『頭沸いたのか』と言いたげなものに変化していた。不機嫌のバリエーション豊かなんだよな、この人。
昔はそれこそソメイヨシノのようだと思っていた。散り際が最も強烈に美しく、人の心に鮮明に焼き付き惑わせる恐ろしい木。刹那の象徴ともいえるあの植物の生き様はまさしくセブルス・スネイプだと、この世に生まれる前は思っていた。あの物語の彼しか知らなかったから。
でも今は──“セブルス・スネイプ”を文字だけじゃなく、この身をもってほんの少し知ることができた今は。イギリスの桜のほうが似つかわしいのではないかと思う。
イギリスの桜は開花が連鎖的で、ソメイヨシノのように一斉に咲き誇り花びらを散らせることはない。少しずつ蕾を開いて色を滲ませ、やがてはらはら撫でるように宙を舞う。そうして景色に馴染み、生活に溶け込むのがイギリスの桜だ。
「……薬の湯気が目に入ったようだ。医務室に行くといい」
「ゴーグルしてたんですけど」
自分が死んだら悲しむ人がいると微塵も思っていないであろうこの人は、そんな類似点にこれっぽっちも気付いていないのだろう。自分が誰かの生活の──人生の一部に紛れ込んでいることなんて、ちっとも。
「(こういうところ、似てるかもしれない)」
あの人にも同様のしょうがない面があるなとふと感じる。再び込み上げてきたものを抑え込もうと瞬きをすれば、水滴を受け止めた赤い水面に波紋が広がった。
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