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せめて押し潰さないように。
咄嗟のことでもそのくらいの理性は働いた。左手をドラコの脇の間、右手を頭の斜め上の床へとそれぞれつけて彼を見下ろす。倒れた衝撃で頭をぶつけたのか、彼は顔を顰めていた。しかしそれ以上の怪我はしていなさそうだ。
安心して息を吐こうとしたがうまくできず咳きこんで、両手から力が抜けて上体が傾いた。ちょうど起き上がろうとしていたドラコの胸にどすんと顔をぶつける。苦し気な声に、早く離れなきゃと胸元へ手を置いた。ドラコも全身ぐしょ濡れで冷えているはずなのに、触れるところすべてが温かい。私はこんなに寒いのに。体温高いんだなあ、ドラコって。
「ごめ、どく……」
「いや、……、……え?」
いつまでも頭を預けたままじゃ悪いと分かっているのに、 温い胸に添えた手には一向に力が入らない。服に染み込んだ水が体力を奪っているのか、全身が重たくて、こんな状況なのに目を開けているのさえ億劫だった。口からヒュッという短い音が繰り返されている、気がする。呼吸をすればするほど胸が圧迫されて苦しくなっていた。おかしい、なんか変じゃない、これ。
「あれ、わたし……」
「うそだ、ちがう、ぼく──エレナ!」
絶望しきったハリーの声が頭の上から聞こえたと思った次の瞬間、突然背中の燃えるような熱さに気が付いて目を見開いた。チカチカする、見えない、真っ白だ──でも感覚はある。頭や手足は寒くてたまらないのに、背中だけがじゅうじゅう煙が立ってるんじゃないかと錯覚するほど熱かった。
「そんな、エレナ、そんな──」
目に意識を集中させ、なんとか周りを確認する。辺りには赤い水溜りが広がっていた。ぼうっと眺めていると、それはどんどん大きくなっていく。あー、あれ、結局当たってたんだ。全然痛くなかったから呪文不発だったのかと。
不意に生臭い鉄の匂いがして、何がおかしいのか自分でもわからないけど、なんでか笑いが零れる。そのささやかな振動でも体は揺れ、背中にあるいくつもの切り傷をビリビリと刺激した。痛みで反射的に背中を丸めると傷がさらに開いたのが分かり、そのあまりの痛さに無我夢中で手元を握り締めて呻き声を上げる。なんという悪循環。あほなのか私、あほでした。神経を一度にまとめて何本も乱暴に掴まれたような感覚に、目の前がチカチカと明滅して呼吸が止まる。
「エレナ、僕、僕は──そんな──」
「人殺し! トイレで人殺し!」
いやいや、勝手に殺すな。生きてるよ。ハリーに大丈夫って言ったのに、彼女の声のせいで聞こえなかったかもしれない。あれ、言ってないかも。どっちだっけ。いたい、さむい、ねむい。
ふわりと、白くブレる視界に黒いマントがひらめいた。驚くほど素早くかがんだその人──スネイプ先生は、私の顔を覗き込んだ。そっか、治してくれるんだっけ。お願いしますといいたいけど、口が動かない。
「ヴァルネラ・サネントゥール……」
シルクのように滑らかな声が少しずつ痛みを溶かしていく。たちまち傷が塞がっていくような感覚がした。背中だから見えないし分からないけど。でも波が引くように背中の熱が収まっていくから、きっと合ってるはずだ。
数度歌うようにその呪文を繰り返され、傷が粗方再生すると、体が勝手にふわふわと浮いた。いつの間に用意されていた宙に浮く緑色の担架に寝かせられる。
……あ、そういえば私ドラコに全体重かけたままだったな。意識の覚束ない人間の支えをするのはさぞ疲れたろうと、謝罪したくてドラコを見る。担架の上からではドラコの後頭部しか見えなかったが、座り込んだままの彼の衣服が血塗れなのはしっかり見えたので、弁償しなきゃなと思った。
「(ドラコって紅似合うなー……)」
「医務室に行く必要がある。多少傷跡を残すこともあるが、すぐにハナハッカを呑めばそれも避けられる」
先生は私の顔を見ながらゆっくり言い含んだ。返事の代わりに、と数度緩慢に瞬きをする。私の意図をばっちり汲んだ先生はハリー達に視線を移して「二人とも、ここで我輩を待て」と命じた。
トイレから運ばれて出てきた私を見て、集まっていた野次馬がざわついた。が、「去れ」という冷たく低い声によってすぐに静まり返る。ネビルにこの騒ぎが届かなきゃいいな。無理だろうが。
先生はかなり配慮してくれたのか、運ばれている最中揺れは全く感じなかった。快適な移動をしていると、思考にも余裕が出てくる。さっきの先生、めっちゃ怖かったな。そんなにハリーに自分の魔法使ってほしくなかったならあんな本放置しなきゃよかったのに。
「せんせい」
「なんだ」
背中の傷はまだズキズキ痛むが、動かなきゃ耐えられる程度にはなっていた。代わりにだんだんと眠くなってくる。寝落ちる前に呼び掛けるようと上げた声は、無視されても納得してしまうような音量だった。それでもちゃんと届いたらしく、先生は一瞥を投げて寄越した。
「ドラコ……磔の呪い、使おうとしてました」
「……そうか」
「はい。だから、罰則なら……二人、に……」
回収し忘れたこの人にだって結局非はあるんだからさあ。あんまりハリーばかりを叱らないであげてほしい。返事はなかったけれど、期待してなかったのでまあいい。眠くなってきたので私は顔を片腕で隠して口を噤んだ。
ふわっとした浮遊感に微睡んでいた意識が戻ってくる。目を開けると医務室が移った。ベッドに移動させられている。ぼうっと天井を眺めていると首裏に手が差し込まれ、頭を僅かに持ち上げられた。
「残らず飲み干せ」
なにをと訊きたくて開けた口に大量の液体が流し込まれた。ビリビリするくらいの清涼感が口内を刺激する。独特の苦さに喉奥が拒否反応を示して狭まり嘔吐きかけたが、頬を強く鷲掴まれ口を押さえられた。ピタリと張り付いていて鼻まで塞がれているので呼吸もしづらい。
涙目になりながらも数度に分けて喉を動かし、口の中を空にすると、やっと手が顔からはがれていく。ゲホ、と咳き込む私の頭を無表情で枕に戻した先生を睨み上げた。
「強引過ぎません……?」
「寝ろ」
先生は私の文句に一切取り合うことなく、短い指示だけを告げて俊敏に身を翻した。トイレに戻るんだろう。バタパタと忙しなく動き回る音がする中、私は今度こそ意識を泥の中へと落としていった。
何かが頬に落ちる感触に、薄く瞼を開く。もうすっかり夜も更けていて、辺りが判別できないほど前も右も左も真っ暗だった。目が暗闇に慣れる前に、意識を取り戻す切欠となったものが再びボタボタと降ってきた。生暖かいもので頬が濡れる。
「どうして」
だれ──あ、ドラコだ。ドラコの声が真上から聞こえる。目を凝らすと、ぼんやりした黒い影が私に覆い被さっているのが見える気がした。
「どうしてなんだ」
目を開けるのが疲れてきたので一度瞼を閉じる。閉じるのは簡単だったのに、開けるときは目の上に鉛が乗っているかのように重たくていやに困難だった。そのまま目を瞑っていると、心地よい温度の蜂蜜の中を揺蕩っているような感覚が全身を包み、自分の輪郭や意識が緩やかにとろけていく。
「僕を助けないでくれと言ったのに」
その言葉に開眼することを諦めた。だってそんなこと言われたことない。つまりこれは夢だ──きっと私の深層心理を反映した都合のいい夢なんだろう。
「(それに、泣かないから)」
泣かせかけたことは何度もある。
でもドラコが私の前で“本当に”泣いたことなんて一度もない。
なんだ、私、ドラコに心配して泣いてほしかったんだ。
「ふふ……」
「っ、起きて……?」
「さいて、い……」
好きな人に泣いてほしいなんて。
終わってるな、わたし。
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翌朝目を覚ますと、マダム・ポンフリーが私の体に巻かれた包帯を清潔なものへと変えてくれた。回収された包帯は血で赤黒く染まってぐっちょぐちょのくったくたになっていて引いた。血が出てる感覚なんてなかったのに。皮膚は繋がっているはずだが、中はまだ治ってないみたい。ちょっと押しただけですぐ開いてしまうようだ。という、以上のことを確認しようと肋骨あたりに指を食い込ませてみたら普通に痛かったし怒られた。
彼女は怒った後の厳しい顔のまま「しばらくは絶対安静です」と言い渡した。生徒の面会も禁止。運ばれてすぐネビルは駆け付けてくれたらしいけど、心配かけちゃったよなあ……あとで元気だよって守護霊飛ばしておこう。でもしばらくってどのくらいだろ、三日くらいかな。
「一週間はベッドから出しませんよ!」
「えーっ?!」
「えーっじゃありません!」
朝食の蒸し野菜と卵スープ(あっさりしたものをリクエストしたら出してくれた!)とバターロール半分を食べ終わると、めちゃくちゃ苦い薬を飲まされた。イィ……と顔を顰めてベッドに横になったところで一時限目の予鈴の音が聞こえる。あーあ、一週間分の授業……だれか教科書持ってきてくれないかな。マダムが許してくれるかは別として。夜中とかにこっそりやりたい。
「ワイアット、起きれますか?」
「あっはい、もちろん」
傷はまだズキズキ痛むけど薬のおかげで我慢できないほどじゃない。マダム・ポンフリーの気遣う優しい声に身を起こす。しかし仕切りカーテンを開いて姿を現した人物に驚いてビクッと肩が跳ねた。
「具合は如何かの、エレナ」
「……ダンブルドア先生」
佇んでいたのは穏やかな微笑みを携えた校長だった。その背後にはマクゴナガル先生とスネイプ先生が控えている。校長先生に寮監二人。揃った面子に事情聴取だなとすぐに察した。
でも御多忙極めし校長先生がわざわざ直々に一生徒の見舞いに来るなんて、と溜息を吐く。有り得ない、噂になったらどうするんだ。スネイプ先生も叔父さんも止めなかったの? みんなしてやる気あんの?
と、つい顔にだしたくなった感情を取り繕うように私は笑顔を作ってダンブルドアを見上げた。
「ダンブルドア先生、お忙しい中わざわざどうも。元気一杯ですよ、私は」
「それは僥倖。傷跡も残らぬのじゃな、ポピー?」
「はい。スネイプ先生の対応が早かったおかげで、すぐにハナハッカを服薬することができましたから」
ダンブルドアがあんまり満足そうに深く頷くものだから、ちょっとムッとして眉根が寄る。あなたに私の体の心配なんてされても今は素直に喜べない。鼻を鳴らしたくなる気持ちを耐えながら、「で、なにを話せばいいんですか?」と尋ねた。不躾で尖った声をだした私にマクゴナガル先生とマダム・ポンフリーがギョッと目を大きくさせる。反対にスネイプ先生は目を線のように細めて苦々しい顔をしていた。
「そうじゃな、では──偽りのない、なにもかもを」
なんて大仰な感じで事情聴取は始まったけど、そこまで話せることはない。
ドラコが磔の呪いを行使しようとしていたこと、呪いの打ち合いをしていたぽかったからとりあえず庇おうとしたらタイミング悪くセクタムられたことを話した。なぜトイレに向かったのかという点だけ、マートルの声を聞いてトイレに駆けつけたと誤魔化したけど。
「磔の呪い……! ワイアット、それは確かなのですか?」
「多分……『クル』から始まるほかの呪文があるなら分からないですけど」
恐々と確認したマクゴナガル先生は嘆くように頭を振る。私はその隣にいるスネイプ先生を睨んだ。私ちゃんと報告したのに伝えなかったんですね。スネイプ先生は素知らぬ顔をだったが、絶対に私と視線を合わせないようにしていた。子どもか。相変わらずの大人げなさについじっとりとした目付きになる。性分だからしょうがないんだろうけどさ。
「……まあ、怪我人がでなくてよかったですよね」
スネイプ先生のことはいったん置いておくとして、と何気なくそう言った途端、医務室の空気が凍り付いた。ダンブルドアが「ほう」と静かに言いながら右手で長い髭を撫でる。透けるような明るい青の瞳から温度がスッと下がった。
「きみは自分が怪我していないという認識なのかね?」
「え?……あ、あー、いや、これは……あの……でもすぐ治りますし……」
「運よくセブルスが駆けつけなければどうなっていたことか? 奇跡といっても差し支えない状況だったと思うのじゃが」
「スネイプ先生が来てくれることは必然でしたー! ねえ先生!」
「偶然だが」
聞き捨てならないいつもの単語に気まずさも忘れて声を荒げる。流れでスネイプ先生に絡むと、『こっちに振るな』とばかりに面倒くさそうな顔をして冷然と告げた。偶然じゃないもん、定まってたもん。
女性陣は私とダンブルドアのやたら気安いやり取りについていけておらず、顔を見合わせて困惑していた。それに気付いて申し訳なくなったので、「それで」と咳払いをして態度を切り替える。
「ハリーとドラコはどうなったんですか?」
「ポッターは今学期一杯、土曜日に罰則を受けることが決まりました。マルフォイは三日間の罰則です」
「今学期一杯……」
じゃあハリーはレイブンクロー戦は出場できないのか。ケイティもやっと復帰できて、グリフィンドールチームは今が最高の状態(それまで代打をしていたディーンには悪いが)なのに。今年最後の試合でそれはあんまりなんじゃ……。
どうにかならないのかとダメ元で訊いてみたが、マクゴナガル先生は眉をきゅっと吊り上げて「なりません」と厳格に言った。取り付く島もない頑なな態度だったので粘るのはやめた。負け戦はしない。ごめんねハリー、諦めて。
「──あ、そういえばうちの両親に連絡なんてしてませんよね?」
「ええ、私はするべきだと思いましたが、校長先生がなさらなくていいと仰りましたので……」
「うむ、きみはきっとそれを嫌がるじゃろうと思ってな」
「そのお考えで合ってますよ。……まあ家族に心配かけたくないっていう気持ちは、先生なら当然理解してくださると信じていましたけど」
「……ワイアット」
牽制するような硬い声に唇を噛み締めて黙る。私の名前を呼んだスネイプ先生は疲労がたっぷり込められた息を長く吐き出した。
「(……ちょっと調子に乗ったな)」
これ以上迷惑をかけるとどっちが大人げないんだって話になってしまう。厄介ごとを背負いまくっている彼にこれ以上心労をかけるわけにはいかない。今後はもっと弁えよう。
お詫びの気持ちに枕もとのテーブルに置かれていたウエハースを手に取って先生に差し出す。先生は血に塗れたパッケージを見て嫌悪感剥き出しで眉をひそめた。
「……なんのつもりですかな」
「お礼とお詫びです」
「要らん」
「えー……じゃあダンブルドア先生どうぞ。これ、バーベッジ先生にいただいたんです」
「……成程、この菓子は儂もよく知っておる」
ダンブルドアはカシャカシャと自分は粉々ですと激しく主張するウエハースを、なんの忌避感もなく受け取った。「好きなんじゃよ」にっこり口角を上げる校長先生様に、よかったですと私も笑顔を返す。
「好きでしょうと思ってました!」
溌剌としてそう言うと、ダンブルドアと一番長い付き合いのはずのマクゴナガル先生は怪訝そうな顔をした。そう、実はこれ好きなんですよこの人。トップシークレットでしょうけどね。
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