21
◆◆◆
この日が来ることは分かっていた。ちゃんと事前に教えてもらっていた。
だから覚悟はできているはずだった──はずだったのに。
「エレナ」
校長室に入ってから貝のように口を噤んでそっぽを向いていた私に、語り掛ける声がかかる。しかし私は返事もせず、頑なに声の主を見ないようにしていた。
「エレナ」
歴代校長が固唾を飲んで私たちを見守っているのを感じたので、逃げるように顔をまた別の方向へ背けた。煩雑に重なった書類、開かれたままの分厚い本、飲みかけのコーヒーが入ったマグカップが視界に収まる。生活感溢れるそれらを受け止めてしまって吐き気がして盛大に顔を顰めた。
「こちらへ」
このまま足を縫い付けていたい気持ちと数秒戦い、結局俯いたまま足を進める。爪先が視界に入るほど近付くと頭にぽんと軽い衝撃が落ちた。頭に乗った手がいままでにないくらいやさしく動く。こんなやさしい触り方、初めてなはずなのに懐かしいと感じるのはなぜなんだろう。
「きみに出逢えてよかった」
緩やかに頭を撫でられるまま、ダランと動かない白魚のような左手を見つめる。なにかに急き立てられてその手を性急に握ったが、皺だらけの冷たい肉塊の感触にまた顔が歪んだ。
「こうして巡り会えたことは──気に食わない言い方だろうと分かっていて敢えて使うが──」
揶揄うような、ちょっと面白がっている声が一度途切れ、頭を撫でていた手が止まる。後頭部からそのまま背中まで下がり、今度はぎゅうっと私を抱きしめた。壊れ物を扱うかのようで弱い。力なんてまるで籠っていないのに、私はそれがこの人の全力だと分かっていた。
「やっぱり、奇跡だと思ってるよ」
聞き慣れない声音が柔らかく鼓膜を揺らすせいで、喉奥が苦しくなって咄嗟に唇を食い縛った。ぶつ、という感覚のあと、鉄の味が滲んでくる。それでも噛み締める力は緩めない。少しでも口を開くと情けない吐息が出ていってしまいそうだった。
「──ありがとう」
体を震わせる私をのぞき込んだ明るい青の瞳が、なんの後悔も見せずに晴れやかに笑う。物のように意思を宿さない手を握ることでしか、返事をすることができなかった。
夕焼けで真っ赤になった廊下を歩く。しばらくして私が立ち止まると一緒に校長室を後にしていた背後の叔父さんも続けて足を止めた。
「謝らないで」
話しだそうとする気配を感じたので先に切り出す。思っていたよりも強くて威圧する言い方になった。
「あなたが謝罪したって誰も報われない」
廊下の外を見れば、呑み込まれそうな程大きな太陽が空に浮かんでいる。引き伸ばされた陰でさえ細く頼りなくて、自分はほんとうにちっぽけな存在だと再認識した。
「……ごめんなさい、こんなのは八つ当たりだ。でも今謝られたら泣きそうで」
「……泣いたって誰も責めないと思うが」
控えめに慰めるような言葉に、背後を振り返った。煌々と照らされて橙色に染まった金髪の彼に笑みだけを返す。ひどいこと言ったのに、やさしいな。
でも誰かに責められるから泣けないわけじゃない。ただ泣いたらもう心が折れてしまいそうだったから。今日は気を抜けない。だから少なくとも、今は泣けない。
再び太陽を視界に戻すと光が目を焼く。天を焦がすほど強く激しい光に、このまま目玉が爛れてしまえばいいのに、なんて馬鹿なことを本気で考えてしまった。
一人でグリフィンドールの塔へ戻って「太った婦人」に合言葉を継げようとしたら、それよりも早く肖像画がパッと開く。ハーマイオニー、ロン、ネビル、ジニーが飛び出してきた。「ああ!」私の姿を見てハーマイオニーが声を上げる。
「よかったエレナ! あなたにも手伝ってもらえないかと──」
「どうかし──」
「歩きながら話すよ、いいから来て!」
最後まで言い終わる前にハーマイオニーとロンがそれぞれ私の腕を掴んで連行していく。歩きづらくて何度か転びかけた。いや両側固められてたから転ばせてすらもらえなかったけど。
「マルフォイとスネイプを見張らなきゃいけないの──ハリーが言うには、マルフォイが今日なにかするだろうからって」
できるだけ人手がほしいのだと、ハーマイオニーは廊下をほとんど走りながら──途中で「自分で歩くから!」と離してもらった──説明する。去年使用していた連絡用コインを発動させたというので、私たちは急いで必要の部屋前に向かっていた。
「でも今年一度も使ってなかったし誰も気付いていないかも──」
「大丈夫よ、ちゃんといるわ!」
ジニーが嬉しそうに八階の廊下の先を指差す。必要の部屋がある壁の前でルーナが困惑した顔で所在なさげに立っていた。
「ここ、ずっとグルグルしてるのに全然開かないの……どうしてかな?」
「きっと中に誰かいるんだよ」
珍しい様子だったのは部屋へ入ろうとしたのに入れなかったからだろう。必要の部屋は先客がいる場合、同じ目的を願えないと中へ通してもらえない。
「多分マルフォイだわ。忍びの地図に彼の名前がないし……」
「じゃあ──六人だな。どう別れる?」
「私はこっちがいい、ここを見張りたい」
速攻で私が立候補するとネビル、ハーマイオニー、ジニーの顔に素早く緊張が走った。それに気付かずロンは「オーケー」と重々しく頷く。
「ならネビルはスネイプのところだ」
「えっなんで」
「きみたちお互いになにかあったら揃って暴走するだろ。それじゃ、僕とジニーもここを見張るか?」
「ええ、そうして……。スネイプは──地下の研究室ね、行きましょうネビル、ルーナ」
パタパタと駆けていく音を聞きながらロンが持っていた古ぼけた地図をのぞき込む。現実とリンクした地図の上で三人分の名前が遠ざかっていった。すごい性能だけど正確すぎて正直気持ち悪いよなこの地図。プライバシー……。正門とかに感知センサー的魔法でもかけてるのかな。引くわあ……と内心で思ったところで、天文台付近に制作者二人の名前を見つけた。
「ねえ、シリウスとルーピン先生がいる」
「え?……本当だ! なにしに──ダンブルドアが呼んだのかな」
他の騎士団メンバーを探そうと、近くのベンチに地図を広げて三人頭を寄せる。
「トンクスみっけ」
「お、ビルも来てるな」
「ソフィアも大広間に──あら、レベッカもいるわ」
「え、なんで?」
知らないと首を振りながら、ジニーは地下をコツンと指で叩く。スネイプ先生の研究室の近くで『レベッカ・スミルノフ』という文字がじっとしていた。まさかメンバーなのだろうか。今年何度か手紙のやり取りをしたけど、そんな話は聞いたことない。でもいるってことは招集された? しかし卒業してすぐ加入した双子やリーの名前はない。
「遊びに来たのかな」
「そういうタイプには思えないけど……」
「遊び……そうだよ、僕たちマルフォイを見張らなきゃいけないんだ、遊んでる場合じゃないだろ!」
ロンがハッとして地図を適当に折りたたんで乱雑にズボンのポケットにしまった。そうして彼がいつになく険しい顔で壁のほうを見たので反省する。視覚探索してるみたいで楽しくなちゃってた。
「ごめん、真面目にやります。じゃあ手始めに──」
「キャッ、なに──?」
「うわっ急になにするんだよエレナ──エレナ? ジニー?」
ジニーとロン、そして自分の頭のてっぺんを一回ずつ杖で小突く。二人が周りの景色に溶け込むようにすうっと消え、体が合ったはずの向こう側の景色が透けて見えた。見えないけど、たぶん二人とも空気の動き的に多分キョロキョロしてるんだろう。冷水をかけられた感覚に憤っていた声が、ぽかんと呆けたものになった。目くらまし術をかけたのだと教えると、なぜか沈黙に包まれる。
「きみさあ」
「いや、見張りならバレないほうがいいかなって思っ……えっだめだった? いいアイデアかと──」
「ほんと、頼りなる魔女だよ。ハーマイオニーと同じくらい」
「こんな魔法私たち使えないもの、助かるわエレナ」
「……ならよかった」
呆れ混じりのそれでも素直な感嘆声と、にっこりしているんだろうという優しい声にちょっと気恥ずかしくなる。見えなくてよかった。
「(いや、照れてる場合じゃない)」
壁の奥にもう待機してるであろう奴らを思い浮かべ、目と眉を狭めて睨みつける。この後のことを考えれば、浮かれてる余裕なんてないんだから。
壁に異変が現れたのは、見張りをはじめて一時間が経った頃だった。夕日はとっくに沈み、空は冷たく暗い闇を広げている。
浮かび上がった壁を見て、ピリッと空気が緊張を孕んだ。ゆっくりと真鍮の取っ手が動き、扉の影からドラコがそっと姿を見せた。彼は辺りを油断なく──慎重なことに扉の裏までしっかり警戒して──見回した。片手に白いなにかを持っている。
「気持ち悪い手! なにかしら……」
「『輝きの手』だ」
ジニーが不気味そうに上げた小声にロンが反応して答える。「持っているものだけに明かりが見えるんだよ」そういえばそんなのあったな。
ドラコは部屋の中を一度振り返って頷いたように見えた。やがて彼を筆頭にぞろぞろと黒い服の集団が現れる。二人三人と出てくるけれど、誰も私たちに気付かない。呪文の効果に安堵してたが、五番目に出てきた、灰色の髪をオールバックにした男が顔を顰めて立ち止まった。男は血走った眼をぎょろぎょろと動かして廊下を獣のような仕草で鋭く見る。
「おい、さっさと──」
「敵だ、ドラコ! そこに隠れているぞ!」
「(は?!)」
瞳孔がかっぴらいた黒い瞳がはっきりこちらを捉えていて、思わず声を上げかける。何とか堪え、ジニー達を確認した。……大丈夫、やはり見えてない。魔法は継続している。それなのにどうして!
男のがなり声にドラコは怖気づいたように硬直したが、すぐに黒い石のようなものを廊下へぶん投げた。石は空中で弾けて爆発的な勢いで煙を噴き出し、廊下一帯を一瞬にして深い闇で呑み込む。
「早く行くぞ、こっちだ──!」
「見えない──ルーモス! インセンディオ!」
「だめだ、ジョージたちのペルー製インスタント煙幕だ、あの『手』がなくちゃ……クソッ!」
真っ暗闇の中、どこか遠くでドラコが叫び、人が移動して空気が揺れる。『輝きの手』を持っていない限り何をしたって無駄だ。私は声を頼りに二人の腕を掴んで闇の中から引きずり出した。明るい廊下に出て、煙幕の向こう側を見る。
「なに、だれ──?!」
「私、エレナだよ、待っていま呪文解くから──できた!」
「呪文は完璧だったのに……どうしてバレたのかしら……」
「……あいつ、多分フェンリール・グレイバックだ」
ロンが顔を強張らせて低い声を絞り出した。その言葉にジニーと同じタイミングで私もハッと息を呑んで先程の男を思い出す。フェンリール・グレイバック──人を噛み、人狼を増やすことを快楽としている凶悪な狼人間。今日は満月ではないけれど、元々五感が常人のそれではないからなんらかの気配を感じ取ってしまったのだろう。そうだ、そういえばあの男も来てるんだった……。一度だけ指名手配書を見たことはあったけど気付けなくて──。
「──ビル!」
「え?」
「あ、だ、だけ、じゃなくて……騎士団の人たちに連絡しなきゃ! 地図地図地図!」
「そ、そうだ──」
ロンを急き立てて地図を開かせる。ビルはちょうどこの廊下を抜けていった少し先を見回っていた。あと数分でドラコたち死喰い人軍団と衝突する。
「私追いかける、二人はシリウスとか他のメンバー呼んできて!」
「えっ、ちょっとエレナ──?!」
呼び止める声を無視して煙幕の中に飛び込む。見えないだとか言ってられない、急がなきゃ。ただ走るだけなら暗くたって問題はない、だろう。
いよいよ火蓋は切られた。
長い長い、激動の夜が始まった。
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