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雨が降っている。
細かい雨が窓を絶え間なく叩く耳障りな音で目を覚ました。ベッドから身を起こし、部屋を見回す。カーテンの隙間から纏わりつくように陰気臭い灰色の光が漏れていた。ベッドが四つ並ぶ室内には私以外誰もいない。私は靴を履いてゆっくり立ち上がって、床を軋ませないようにしながら部屋を出た。
三階分の階段を音を立てずに気を付けて降りるのはかなり神経をすり減らしたが、それでも時間をかけて私は玄関に続く廊下まで辿り着いた。あとちょっとだと一息吐き、また一歩踏み出す。ギィと床が軋んだ。心臓が握り潰されたような感覚に襲われる。
「どこへ行く」
「……ムーディ先生」
軋み音の発生源、背後を静かに振り返る。薄暗い廊下の先で私の心臓を握り潰したムーディ先生はいつもと変わらない仏頂面をしていた。「先生じゃないと何度言えば」とかなにやらぶつくさ言っているのが聴こえる。
「だってそう呼ぶのがしっくりくるんですもん」
「変わり者め」
それ先生に言われるのはちょっとなんか、納得いかないなあ……。と思ったが拗ねられても面倒なので黙っておく。そうですかね、とおざなりに笑えば先生の眉がピクリと動いた。
「家に帰るんですよ」
「なにをしに」
「荷物を取りに」
「お前の荷物は最初からあそこにはないだろうが」
やだ、情報われてた。いけると思ったんだけどなと肩を竦める。Exactly、そのとおりでございます。私は夏の間叔父さんの家で薬の調合やらを行うつもりだったから、トランク自体あの家に持って帰っていなかった。
「じゃあ『忘れ物しちゃって』……とかならいいですか?」
「今更戻ってなんになる。どうせお前の両親を殺した死喰い人はもういないぞ」
「……でも見張りは立っているかもしれない」
そいつらが手掛かりになってくれる可能性は十二分にある。それだけで、あの家に戻る価値はおおいにあった。
「奴らは仮面をしていたはずだ。特定は出来まい」
「片っ端からやっていけばいい話です」
誰がやったかなんてもうどうでもよかった。もう誰だっていい。なんだって。
雨の音がする。キンと耳鳴りがして、こめかみの辺りがずっしりと重たくなった。その感覚が不快で吐きそうになり目を瞑る。少しだけ痛みが和らいだ。
「儂は止めん」
「そうですか」
ならなぜ声をかけてきたんだろう、時間の無駄なのに。結局何の用だったのかなと思いながら足を引きかけ、「ただ」という声に動きを止める。
「一つ言っておくが、復讐の有無で過去が変わることはない。死体の山が増えるだけだ」
「……止めてるじゃないですか」
「事実を言われただけで止められた気になったのか? 勝手に思い違いをして儂を責めるのはお門違いだな」
「えー……」
別に責めてないんですけど、と口が尖る。理不尽に怒られた気分だ。なぜか急に心細い気持ちになって、肌寒い気がしたので二の腕を摩った。廊下が暗いせいなのか、自分が立っているのか浮いているのかよくわからない感覚に包まれている。気を抜けば倒れてしまいそうだ……貧血なのかもしれない。早起きしすぎたのかな。今、何時なんだろう。
「じゃあ」
気が付くと口が勝手に動いていた。零れた声は、落ちる寸前の線香花火の炎のような情けなさを湛えている。思いもよらぬ不安定さに自分でも驚いて口を噤んだ。
「なんだ」
「……私は、どうすればいいんですか」
「そんなことは自分で考えろ」
つれない返事に眉をひそめた。言い出しっぺなんだから突き放さずせめてヒントとか。じっと見つめれば、先生は「フム」と魔法の目をぐるんぐるん動かして、顎をさすった。
「しかし、そうだな。たまには先生らしいことを言ってやろう」
「え、マジですか」
「まじだ。お前があんまりしつこいからな、仕方なくだが」
先生は私を普通の目で上から下までじろじろ見た。青の動く瞳はぐるりと一回転していて白い部分しか見えない。もう慣れちゃったけど、この状態ってすごい不気味だよね。
「飯だな」
「……えっ?」
「飯を食え」
コツコツ義足を引き摺り、先生が近付いてきた。つい身を竦ませる私を素通りし、先生は厨房につながる扉を開くと地下へ降りていく。唖然と立ち尽くしていれば、「おい、早くしろ」という怒鳴り声が飛んできたので慌てて追いかけた。そんな大声だして、みんなが起きちゃったらどうするんだ。
というのは完全に杞憂だった。なぜならみんなすでに起きていたからだ。
叔父さんをはじめにシリウスやルーピン先生、ウィーズリー一家にハーマイオニー、それからレベッカとセドリック……朝から勢ぞろいだ。大きなのっぽの古時計は四時ちょっと過ぎを指していた。早起き過ぎる……いや、顔色的にみんな寝てないのかも。私だけすやすやぐっすりしてしまって申し訳ない気持ちだ。
「座れ」
先にテーブルへついていたムーディ先生が自分の向かいを顎でしゃくった。言われるがままにその席に座ると、すぐに皿が飛んでくる。格子状の切れ目が付いた分厚いトーストが乗っていた。香るバターに誘われて、胃を押し潰したような痛みさえ感じる空腹が襲ってくる。
「蜂蜜をかけても?」
「……お願いします」
クリーチャーが人差し指を回すように動かすとハニーディスペンサーが飛んできて、こんがりきつね色の焼け目をつけたトーストの上に満遍なく金色の蜜を垂らしていった。
おいしそうだ。それにあったかそう。
けれど切れ目からふわふわした柔らかい白をさらすそれになんとなく触れてはいけない気がして、手を伸ばすのは躊躇われた。だが手を付けないのも失礼だと、とりあえず一緒に運ばれてきたクラムチャウダーを口に運ぶ。具がゴロゴロしたスープは、当然のように美味しかった。貝をベースにしたクリーミーな味が染み渡り、優しい安心感で全身が解れていくようだ。シチューとクラムチャウダーってそっくりなのになんでこんなに違う味がするんだろう。どっちも好きだけど。
「(……ていうか私だけじゃん食べてるの)」
テーブル中から突き刺さる視線が気まずくてスプーンを置くと「どうした、食え」と前の人から凄まれる。もうやだ、今日無茶ぶりばっかこの人。顔怖いし。これはいつものことだけど。でもいつにもまして圧が強い。若手をいじめるベテランMCかよ。いや分かりづら。
「おいしくないのか」
「そんなわけないですよ、クリーチャーの料理はいつだって最高です。でもこのどアウェーの中で食べるのはちょっと」
「フン、やっと少しは余裕が出てきたようだな」
「どこを見てそんな判断を……?」
「まず昨日お前が言っていた件だが」
ムーディ先生は呼び寄せた紅茶を啜りながら、「お前のせいではない」とぶっきらぼうに言う。一瞬何の話かと思ったがすぐに思い当たり、思わず鼻で笑ってしまった。から笑いをしながら皿を遠くへ押しやる。
「私のせいですよ。だって私が、……私がヴォルデモートの名前を教えたから」
「……どういうことだ?」
本当は教えたくなかった。でもお父さんが「名前くらい知っておかないと」と珍しく引かなかったから。知る必要ないと確信していたけど、しかしただでさえ国外へ追いやる二人をこれ以上蚊帳の外にしておくのも酷だと、変に同情心を働かせてしまった。そうして私は、やつの綴りを近所のスーパーの割引チラシの裏にメモって伝えたのだ。
「そういう呪文があるんでしょう? 名前にかけられるなんか、言霊的な……よく知らないですけど」
私と叔父さんがリビングから出てこそこそ話している間、両親がどんな会話をしていたのかは分からない。けれど二人はきっとあの名を口にしてしまったんだ。うちに秘密の守り人契約はない。だから言霊の呪いの効果がしっかりとでてしまった。それ以外の理由は考えられない。こんなに早い時期からこの呪いをかけてるとは思ってなかった──私の油断が招いた結果だ。
「そういった魔法はたしかにある。しかしそれでは、あまりにも──……いや、それよりも単純に家にかかっていた守りの魔法が弱まった可能性はないか?」
「ありません。うちの家に魔法をかけたのはこの人だから」
「エドガーが……いや、だが──」
「ないよ」
遠慮がちに口を挟んだルーピン先生やシリウスの言葉を全否定する。とにかくそれだけはあり得ないと言い切れた。
「この人の魔法がそんな簡単に破られるはずない」
私の頑なな口調にほとんど全員が戸惑っていた。その中で平静を崩さなかったのは叔父さんとムーディ先生だけだ。「だとしても」先生は落ち着き払って告げる。
「殺したのはお前ではなく死喰い人だ。それが事実だ」
「でも元凶です」
「阿呆、元凶は魔法をかけた『例のあの人』だろうが」
先生は忌々しげに低い声で言ったあと、バカにするように口を歪めた。
「じゃあなにか、お前は法廷でもそう発言するつもりか? 『私が両親を殺しました、死喰い人ではありません』とでも言うのか?」
「マッド・アイ!」
「それはもはや偽善者でもなんでもない、思い込みの激しいただの愚かな異常者だ」
ハーマイオニーが立ち上がった。彼女は真っ赤に腫らした目でムーディ先生を睨んでいる。先生は顔色を変えずハーマイオニーを一瞥してから私を両眼で見た。
「もう一度言うが儂は止めん。お前が殺人鬼になろうと、元闇祓いとしてやることは変わらない。殺してでもお前を捕まえるだけだ」
そう言いながら先生はまた手をくんと動かしてミルクピッチャーを呼び出すと、私のカップにミルクを注いだ。えっ勝手にミルクティーにされたんだが……注ぐカップ間違えてますけど。
「だからここにいる者に止めてもらえ。精々、振り払えるものなら振り払ってみろ」
手を引かれた。いつの間に近付いてきたのか、目に涙をためたハーマイオニーが私の手を握り締めて見下ろしている。声をかける暇もなく、強く手を引かれて立ち上がらされ、痛いほど抱き締められた。
「あなたに殺しなんてさせない、あいつらと同じ存在になんて絶対にさせない」
ハーマイオニーが泣いている。私たち、抱き締めあうときはいつも泣いてる気がする。背中に回った腕にぎゅうっと縋りつかれて、そんな場違いな感想を抱いた。
「ごめんなさい、私、簡単に気持ちがわかるとは言えない。あなたの傷を癒すとか、とても言えないわ」
「……」
「それでも、止めることだけはできる。絶対止める、なにがあってもあなたにやつらと同じことはさせない。例えそれであなたに嫌われたって、止めてみせる。それで、もうこれ以上エレナの心が傷つくことはないようにする──頑張るから」
ハーマイオニーがこれ以上頑張る必要はないのになあ。この子だって大変な思いをして今ここにいるはずだ。それにこれからだって──。
そこまで考えて、やっと自分を客観視できた。私、自分だけが不幸とか思ってたんじゃないか? こんな大変な子にこんなに心配かけて。こんなに涙を流させて。
「頑張るから、お願い。信じて……行かないで」
こんな言葉を必死になって紡がせて。
「(私、なにやってんだろ)」
親を殺した挙句みっともなく暴走して、友達を悲しませて。私ほんと、なにをしてんのかな。自分が情けなくて、惨めだった。
これ以上泣かせてはいけないと、私にしがみついてくれるハーマイオニーの背中に手を回す。
「ごめんね」
辛いはずの子に、こんなことをさせてしまった。泣かせてしまった。自分のことしか考えていなかった。それなのにハーマイオニーは、友達を平気で悲しませるようなやつを見捨てず、止めようとしてくれた。
「行かないよ」
吐き出したのは、不甲斐ない自分がそんな優しさに報いることのできる、ただ一つの方法だ。
「……ほんとう?」
「ほんとほんと。だからもう泣かないで大丈夫だよ」
よーしよしとぽんぽん背中を叩けば、彼女が息を呑んだ音がする。少し震えたあと、ハーマイオニーは再び泣き出してしまった。
「ごめん、怖かったよね私。ごめんね」
「ちが、こわいんじゃなく、て……っ……」
「もうしないから、ごめんね」
自分の体温を分けるようにぎゅうっと抱き締める。「あやまらないでよ」嗚咽の合間に、そんな言葉が聞こえた。このくらいしか言えないのに……しかし望まれていないと分かっていて謝罪するわけにもいかないので、私は口を閉じてただ彼女の背中を摩るのに専念した。
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