4
◆◆◆
未だすんすんとしゃくりあげるハーマイオニーを隣の席に座らせて、ミルクティーを持たせた。素直に飲むハーマイオニーを横目に、自分も席についてトーストをちぎって皿に広がる蜂蜜をつけて咀嚼する。あまぁい。外はカリカリで中はふわふわな絶妙な焼き加減。またちぎって、今度はハーマイオニーの口に押し込んだ。彼女の口がもぐもぐと動く。寝不足に加え泣き疲れてしまったのかされるがままだ、かわいい。
「……じゃあ、つまり襲撃された理由は『例のあの人』の名がまた『禁句』にかけられていたからなのか?」
「また? 『禁句』?」
恐る恐るというようにビルが言った。聞き返すフレッドにウィーズリーさんが「前の時にもあったのさ」と重々しく口を開く。
「『例のあの人』の名前を呼べば守りの呪文の一切が解除され、死喰い人が襲撃に来る。だから『禁句』……我々は単に恐ろしいからその名前を呼ばないわけじゃないんだ」
「そういえばルーピン先生、さっき『あまりにも』って言いましたよね。あれ、どういう意味です?」
「それは……」
私が尋ねると、先生は躊躇ったように口を開きかけて噤んだ。思慮するような眼差しに気を遣わせてるなと苦笑する。言ってくださいと催促すると先生は少し目を伏せた。
「あまりにも“杜撰”だと……言いかけたんだ。すまない」
「……ああ、たしかに」
「どういうことだよ?」
「もし『禁句』に引っかかったのが騎士団メンバーないしハリーなら即殺すのは悪手でしょ」
簡潔に説明するとロンが息を呑む。先生の言うとおりだな。よく考えてみればあまりにも雑な仕事だ。襲撃は『禁句』が発動してからすぐだったし、その場所に誰がいるかなんて把握してなかっただろう。あいつら、馬鹿だったんだな。
「今頃ヴォルデモートにお仕置きされてるかもね」
「お、おい、名前を言ったらまずいんじゃ──」
「ここは忠誠の術の効力内だから平気だよ。まあ今のうちから名前呼ばない練習しといたほうがいいよね。特にハリーとか」
「……なら、サイコーにおちょくったあだ名を考えてやろうぜ」
「こら、フレッド──!」
「さんせーい!」
にやりとするフレッドにウィーズリーおばさんが窘めるように叱ったが、私も手を挙げて笑ったので、おばさんは困ったように眉を下げた。いいと思う、思いっきり馬鹿にしてやろう。
用意してもらった朝食を(ハーマイオニーが)すべて食べ切り、私は顔を洗ってくると食堂を出た。洗面所に行って、冷たい水で数度顔面を洗う。シンクの淵に手をつけたまま、ぽたぽた落ちる水滴をそのままに、渦を描いて排水溝に吸い込まれていく水を眺める。
「それ、使っていいわよ」
「どれ? 緑の?」
「そう」
背後からの声に並べられた色とりどりの洗顔ボトルを見た。教えられたボトルを取ってありがたくお借りし、手早く泡立てて顔を洗う。ふわふわのタオルで顔を拭き、一息吐いた。
「はーすっきりした! で、なんでいるの?」
「見張り」
「見張っ……」
鏡越しで洗面所の出入り口に腕を組んで凭れるレベッカを見遣る。予想外の言葉に振り返って愕然とした私に彼女は「当たり前でしょ」と呆れ気味に目を細めた。うっそでしょ、これからずっとこんな感じなのか私。囚人じゃん。
「迂闊な言動すんじゃなかった」
「ほんとよ、この短絡馬鹿」
すたすた近付いてきたレベッカは、項垂れる私に高い位置から手刀を振り落とした。一発くらいは、と黙っていればドスドスと続けざまに追加でチョップされる。めっちゃ殴るじゃん……。
「言っとくけど、私は止めないから」
「殴るのを……?」
「止めないかわりに、一生ついてってやる」
手刀が止む。真意を図ろうと見上げれば、レベッカの顔に感情はない。深海の瞳はいつものごとく静謐なものだった。
「出て行くのを止めないの?」
「ええ」
「それだけ? じゃあ他のことは止める?」
「止めない」
「私がなにをしようとしても?」
「止めないわ」
試すように首を傾げて訊いても、彼女は声を少しも揺らさない。
「ただついていくだけ」
不意に凪いだ表情がほんの少し和らぐ。しかしよく見ないと気付けない程度の優しいさざ波は、瞬きとともにすぐに消えた。
「地獄の果てまでついていくから」
「……そう」
窓の外を見る。霧雨がロンドンの街を白くぼかし、曖昧にしていた。まだ眠る世界から、再びレベッカに視線を戻す。
「一緒に来て」
レベッカと散歩してくると玄関から叫び、誰かが追いかけてくる前に家を出てすぐ姿現わしをする。握ったレベッカの腕ごと体がものすごい勢いで回転し、ぎゅっと丸く一纏めにされた。体がグンと外側へ引っ張られるような感覚が一瞬した後、足が葉や小枝で盛り上がった地面をとらえる。
「ここは……?」
私たちは深い霧が立ち込める鬱蒼とした森の中に立っていた。
レベッカの呟きを聞きながら大きく息を吸うと、冷たく湿った空気や、雨露に濡れた土や草の青い匂いが胸を満たした。全身に痛みはない、手、足……大丈夫だ。隣のレベッカもどこもバラけておらずホッと息を吐く。めちゃくちゃに押し込まれて体の形があやふやになるこの感じ、一生慣れない気がするな。歩きだそうとしてふらついた私の腕を今度はレベッカが掴んだ。
「姿現わし試験合格してるの?」
胡乱げな視線から逃げて顔を背ける。してないって言ったら怒るかな。怒るよね、黙っとこ。でもコース過程半分くらいの時期でもうできてたからいけると思ったんだもん。さすがに人と一緒にするのは初めてだったけど。
「……ねえ、そういえばあんたまだ未成年なのよね?」
「さーて、ネビル起きてるかなー!」
「ネビル?」
目論み通り、レベッカは驚きで無免追及をやめてくれた。「私もこの道は初めて使うんだけどね」と付け加え、辺りを見回す。耳を澄ませば、ザアという葉音の合間に遠くで水のせせらぎがした。
音だけを頼りに道ともいえない道を進んでいく。時々木の根に躓きながらも、嵩の高い川を見つけた。そこから川の流れる方向に合わせてまた三十分ほど歩き、向こう岸に三角屋根の家を見つけて今度こそ足を止める。
「あれが、ネビルの家?」
「そう」
追いついてきたレベッカが背後から問いかけてくる。だいぶ遅かったな。そんなガチ走りはしてないはずなんだけど……。息を切らしたレベッカはなにかを探すように辺りを見回した。不安そうなその様子に首を傾げる。
「死喰い人たちなら名前呼ばない限り来ないと思うけど……心配なら保護呪文かけとく?」
「だめ! あ、いや、いい──いらない、大丈夫よ」
「……そう? まあ長居するつもりもないしね」
私はその場にしゃがんで、川の中に手を差し込む。透き通った水は目が覚める冷たさだ。昨夜からの雨のせいで流れが速い。曇天のせいで暗く落ち込んで見えるが、掬ってみれば綺麗な水だった。
空にはまだ灰色の雲が敷き詰められていて、いつ降り出してもおかしくはない。というか多分さっき止んだばかりなのだろう。右手首を確認すると、時刻は六時少し前を指していた。
「あ……!」
「なに?」
「あ、ちが、──あっほら!」
慌てた様子で指さす方を見れば、ちょうど人が外に出てくるところだった。青年は、腕を突き上げて伸びをすると、家の隣に設置された金網張りの小屋に背中を丸めて入っていく。少ししてから出てきた彼は卵が積まれた平たい籠を持っていた。籠を脇に置くと、次は銀のジョウロを使って生け垣や花壇に水を撒き始める。その注ぎ口から飛び出る水がキラキラしていたので驚いて私は空を見上げ、眼を眇めた。分厚い雲の切れ目から隠されていた青い空が覗き、太陽の光が射し込んでいる。
青年は顔の前に手を翳して、眩しそうに空を見上げた。陽だまりの青年を中心に、じわりじわりと晴れやかな朝が滲んでいく。ふわりと風がそよぎ、焦げ茶の前髪をくすぐり、キラキラ光る雫で飾られた植物たちが笑う。
そんな光景を、私は食い入るように見つめた。
突然金網の戸口が勝手に開き、何羽もの鶏が中から飛び出していく。青年は飛び上がってジョウロを放り出し、脱走した鶏たちを捕まえようと右往左往しはじめた。……ああもうネビルったら、鍵を閉め忘れちゃったんだね。羽根をばたつかせて暴れる鶏をなんとか胸に抱える彼を見て頬が緩ませていると、駆け回る音や鶏たちの必死の抵抗を聞きつけて、家からおばあ様が家から出てきた。一瞬で終わった穏やかな夏の朝にまた小さく笑う。
「いつもと変わらないなあ、ネビルは」
自分よりも小さな祖母に叱られ、しゅんと身を縮こませるネビルを見て、私もやっと決意が固まったので立ち上がる。指先は水で少しふやけていた。
「帰ろっか」
「会いに来たんじゃないの?」
「顔が見たかっただけ。ああ、それと──ホメナム・レベリオ」
杖を振るとレベッカがぎくりとした顔になる。色鮮やかなトルコキキョウの付近で白い人影が浮き上がった。ややあってから赤や紫の花がガサガサ揺れ、隠れていた人物が気まずげに姿を現した。
「こんなところで奇遇だね、セドリック」
「えっと……うん、奇遇だね! 僕、あの──ほんとう、偶然……ね!」
「ほんとどういうことかなあ」
しどろもどろなセドリックから視線を移し、明らかに元凶のレベッカを睨むと、彼女は素早く顔を逸らした。一つに束ねられた伸びかけの髪がぴょこんと揺れる。
「私、悪いことしてないわ」
「まだなんにも言ってないよ」
後ろめたさがある人間じゃないとそのセリフはでてこんのよ。叱られる前の子どものようなレベッカに呆れて溜息を吐けば、彼女の肩が小さく跳ねた。「まあまあ!」セドリックがやたら明るく割り込んでくる。私からレベッカを庇うみたいな仕草にちょっと眉を上げた。
「スミルノフを責めないであげて。さっきの今で、みんなも本当に心配してたしさ……」
「別に怒ってはないけどさあ……」
結局止めるんじゃんという気持ちで目がじっとり細くなる。彼女が何もしなくたってこうして止めてくれそうな誰かを呼ばれたんじゃ結果は一緒だ。いや、別に呼んだっていいけど。カチコミする気なんてもうないし。
「……なによ、私は止めてないでしょ」
「そのムーディ先生理論やめない?」
「エレナ、その……大丈夫?」
セドリックが背中を丸めて私を覗き込んでそっと窺ってきたので大丈夫だよ、と笑顔を返す。彼の言うとおり、さっきの今なんだ。些か考えなしだった。ハーマイオニー泣いてないかな……。
「……あ、違った」
「え?」
「今なに考えてる?」
真面目腐った顔で尋ねてくるセドリックに瞬きをする。突拍子もない質問に、レベッカもセドリックの後ろできょとんとしていた。意図が掴めず困惑していると、セドリックも困った顔で「教えたくない?」と私を真似るように小首を傾げた。そういうわけじゃないので戸惑いつつも「ネビルが」と口を開く。喋り出した私に、セドリックは安心したように微笑んだ。
「うん」
「……ネビルがいつも通りだったなって」
ネビルと別れたのはつい昨日だ。昨日の今日、そんなたった一日でなにかが変わるわけがない──なんて確証はどこにもないということを、私はもう知っていた。
それでも、ネビルはいつも通りだった。いつもと変わらないでいてくれた親友を見てスッと波が引くように頭が落ち着いた。心に沈んでいた鉛が溶け、視界に色彩が戻ってきた。
「ネビルは私が復讐に走ったら悲しむよね」
「ああ」
セドリックは確信を持った声ですぐさま同意する。私の挙動を見逃すまいとつぶさに見つめてくる彼に、きっとセドリックも悲しんでくれるんだろうなとなんとなく思った。
私一人が暴走するだけで傷付く人がこの場だけで三人もいる。不謹慎だけど、今はそれがうれしい──うれしくて、苦しかった。哀しさなのか罪悪感なのかは自分でも定かではない。息苦しさに耐えられず、口角を上げ、息を吐きだした。
「恵まれてるな、私って」
「それは、……そうだよ、だってきみは素晴らしい人だから。だから自然とそういう人たちが集まるんだよ」
「あは、やさしい」
「本心さ!」
憤った声にありがとうと笑うとセドリックの眉根に少しだけ皺が寄る。セドリックはさらになにか言いつのろうとして口を開いたが、ぎゅっときつく唇を噛み締めた。
まあセドリックなら気遣っちゃうよね。そんなこと言わせるつもりはなかったけど、口が滑ったな。これだからメン雑魚かまちょは……彼の足元の青い花を見つめながら反省する。
ほんとうに今更だけど、こんなやさしい人たちに囲まれていて、私は人に恵まれすぎている。なにもかもが分不相応でなんて幸せなことか。なんで私だけがこんなに幸せなんだろう。私はみんなになにを返せるのかな。なにもできないなりに考えてみれば、“できること”ではなく“したいこと”ばかりが頭に浮かんだ。
ハーマイオニーを泣かせたくない。レベッカに地獄同伴なんてさせられない。セドリックの優しさを無碍にしたくない。叔父さんの勇気にだって報わなきゃならない。なによりネビルにいつも通り笑っていてほしい。それなら──そのためには。
「お母さんたちを殺したやつのことはまだ憎い」
生きている限りこの憎悪と悔恨を完全に消えないのだろう。鉛の欠片はたしかにこの胸に残っている。死喰い人も自分も、許すことは決してできない──けれど。
「でもこれ以上大切な人たちを壊したくない」
私の心なんてとっくに壊れている。これ以上傷付くのも壊れるのも些事だ、構いやしない。
しかしそんな私欲に呑まれることで傷付いてしまう人がいる。私のせいで損なわれてしまう人たちがいる。その事実だって十分許し難くて。それを防ぐためには、もうこの気持ちは優先できない。私がとるべき手段は一つだけだ。
「だから私はもう敵も味方も一人だって死なせないよ」
「敵も?」
「仲間は絶対守るし、敵には生きて罪を償わせる」
「結局そういう結論になるのね」
レベッカがぽつりと呟く。聡明な彼女のことだ。私の狡さを見抜かれてしまったかもしれない。誤魔化すつもりでへらりと笑うと、「笑わなくていい」と顰め面をされた。
みんなを傷付けたくないから、私は復讐をしない。
それはつまり、裏を返せば『周りが傷付かないのなら動くことができてしまう』ということだ。
私は自分の意志だけで憎悪を退けることができない。傷付いてくれるみんなの優しさに甘えてしまう弱い私を、どうか許してほしい。その分たくさん頑張るから。
◆◆◆
- 191 -
←前 次→