19



 私とバチルダは、のろのろとした歩みで、会話もなくしずしずと薄暗い街を進んだ。途中二階の片側が吹き飛ばされた家に通りかかったので、その時ばかりは私も立ち止まり、半壊した家を眺めた。ここに昔マローダーズが集ってたんだろうとか、ちっちゃなハリーが今では雑草が伸び放題のこの庭でキャッキャ笑ってよちよちしてたのかなとか、そういうことを思うと、胸がジンと熱くなった。

 少し前にいるバチルダからの視線を感じつつ、感極まって、つい錆び付いた門に手を触れる。その途端、イラクサや雑草の中から、木の掲示板がにょきっと生えてきた。どういう仕組み?
 掲示板には、金の文字でこの場所で起きた悲劇についてが書かれている。説明書きの周りの余白には、ハリーを応援するメッセージやら、訪れた魔女や魔法使いたちのイニシャルが刻まれていた。おい治安〜。と、思いながらも私も何書こうかなと考えつつ杖を構える。イニシャル、は、ダメだよな。バチルダは、ちょっと離れた位置からじっと注意深く私を観察していた。蛇の視力はそんなによくないから見えないとは思うけど……でも一応当たり障りないメッセージを……いや待って、私が本物のハリーなら、ここに自分宛のメッセージを残すのってすごく変なんじゃ……?……えー?! でもなんか書きたいよ、せっかく来たんだし。

 なぜか急に――本当になんでか自分でもよく分からないんだけど――シェーマスにグレイプヴァイン・ストレッチされるディーンが頭に出てきたので、とりあえず卍マークを印しておくことにした。ヴォルなんとかさんに報告されたとしても、まあ、これは本当になんの意味もないマークだし……精々混乱してくれたらいいな。


 やることをやって満足した私が歩き出すと、バチルダも私に背を向けて歩き出した。バチルダは、ポッター家から数軒離れた家の中へ、迷いなく入っていった。荒れ果てた庭を一瞥して、彼女についていく。鍵をガチャつかせる小さな後ろ姿に、あ、鍵とかちゃんとかけるんだ……と少し感心してしまった。
 先に入れというように、バチルダが身を引く。彼女の前を横切ったとき、鼻が曲がりそうなほどひどい悪臭というか――まあ有り体に言っちゃえば、肉がドロドロに腐った臭いがした。一瞬息を止め、生理的に込み上げた吐き気を我慢する。背後でガチャリと鍵の閉まる音がした。

 しばらく掃除をしていないであろう室内は、咳き込みそうなくらい埃っぽかった。こんなとこで暮らしてたら喘息待ったなしだな。肩を竦めて、自分にかけていた目くらまし呪文を解除する。バチルダは私の顔を覗き込んだ。薄く開いた厚ぼったい唇が、微かに動き、灰みの赤の舌がちらりと覗く。ああ、やっぱり、眼はあんまり機能してないのか。蛇は聴覚や視覚が優れておらず、代わりに舌で獲物の匂いを探るのだと、ここに来る前に図鑑で読んだ。ナギニは特別だからその限りではないんだろうけど……。ヴォルデモートに色々されてるでしょ、知らんけど。

 よたよたと居間に向かった蛇ルダは、蝋燭に灯を点そうとしていた。その覚束無い手つきに、火事が起きそうだと危惧して「僕がやります」と燭台ごと引き取り、火をつける。小さな炎が、宙に舞う大量の埃をキラキラと照らした。
 明るくなった視界の隅で、また別の燭台が見えたのでテーブルに近付いてそこにも火を灯すと、その隣に飾られていた写真立てが顕になる。写真立ての中にいたのは、ブロンド髪の、退屈そうな笑みをした青年――若かりし頃のグリンデルバルドだ。見たことがある顔だ。リータによる暴露本にも、十代のダンブルドアと腕を組んだ写真が載っていた。うーん、顔がいいな……。

「……この写真、いただけませんか? もしくは、アー、借りるだけでも?」

 決してミーハー的な下心ではなく、ちょっとした手土産のつもりで尋ねたのだが、バチルダはぼんやりした顔で私を見るばかりだった。『バチルダですか?』の質問以外には答えなくていいって指示されてるのかな……。もしくは私の蛇語が下手なのか。不安になり始めたところで、バチルダが口を開いた。

「ポッターか?」
「はい、そうです」

 彼女の囁きに、慎重に返事をする。バチルダは、重々しく頷いた。

「どうして僕をここに連れてきたんですか?」

 何も知らないハリーなら、と想像して言葉を紡ぐ。バチルダは何も言わず、目を閉じた。口がもごもごと動き、ゆっくりと重たそうな瞼が持ち上がる。白内障で濁った瞳がぎょろりと動き、「あそこに」と暖炉の方を指差した。

「えっ?」
「あそこに、ある」

 なにがだよ……。会話にならないなぁと思いつつ、私はさりげなく写真をポーチにしまいながら――借りるだけ、借りるだけ!――、暖炉に近付く。長いこと使われていない暖炉には蜘蛛の糸が張っていて、黒く炭となった薪の残骸の上にもうっすらと埃がかかっていた。

 これがなんだと振り返り、私は飛び込んできた光景に目を剥いた。白髪が頭部に吸い込まれ、バチルダの顔が縦に引き伸ばされている。カサついた肌の奥から黒い鱗がびっしりと浮かび上がり、ボロ切れのような衣服がストンと床に落ちた。それと同時に、お役御免となった服から飛び出してきた大蛇が襲いかかってくる。

 挨拶とばかりに腕を狙ってきた牙を、すんでのところで躱した。大きな尾がゴチャついたテーブルを激しくなぎ倒し、雑然と乗っていた細々した物が舞う。重厚な造りの燭台が顔面に飛んできて右目に当たった。眼鏡が吹き飛び、衝撃で頭がクラクラして、その場でふらりとたたらを踏む。熱を持つ目の付近を思わず抑えれば、どろりとした感触がした。

「う、ッ……ぁああアアっ!」

 左足に鋭い痛みが走り、悲鳴を上げた。背後の壁に倒れるようにもたれながら、足元を見る。ふくらはぎのあたりに、大蛇の凶悪な牙がずっぷりと食いこんでいた。刺さる牙がまた深くなり、プシャッと血が迸る。骨がミシミシと音を立てた。いたい、あつい、溶けそうだ――。力の抜けた手から杖が滑り落ちていく。足に噛み付かれたまま、私は身体をずるずると仰向けに引き倒された。重たい縄のようなものが私の上をズルズルと這っていく。


 どうやら計画は大成功らしい。でもだめだ、このままじゃ……ヴォルデモートが来てしまう。さすがにそれはまずい、無理、死ぬ。

 両手で胴体に巻き付く蛇を押す。ただでさえヌルヌルとした身体は捕えづらいというのに、締め付けられているせいで力がまともに入らなかった。杖、杖を――。
 霞む視界の遠くで、転がっている私の杖が見えた。震える指を精一杯伸ばし、短く切れた呼吸をしながら口を開けた。だめ、声が出ない……アクシオ、来い、来て、おねがい……。限界を迎えた腕が、がくりと床に落ちる――。



 飛び込んできた杖が手へと吸い付く感覚に、沈みかけていた意識がハッと覚醒した。渾身の力を振り絞って杖を振り、蛇を吹き飛ばす。大きな蛇の体が本棚にぶつかり、落ちてきた物の下敷きになった。大量の本を吹き飛ばして這い出てきた蛇が、鎌首を擡げる。蛇が赤い血に塗れた牙を大きく剥いた瞬間、私は回転した――。




 どさりと背中から叩きつけられ、少し咳き込む。ここがどこかも分からない、気にしてる余裕がない。とにかく、いまは……。

「くす、り」

 くすり、そうだ。飲まなきゃ、早く……。手がガクガクと震える。毒がまわりはじめて、いるらしい。ポーチから完成したばかりの薬をなんとか呼び寄せ、乱暴に蓋を外した。蓋を横に投げ捨て、瓶を一気に煽った。






 木々が風に揺らされザアザアと鳴く合間に、ちゃぷちゃぷと水が揺れる音が紛れていた。
 湿った土や草の青い匂いや、むわりとした水辺独特の香りがする。
 ふんわり軽い風に誘われて緩やかに目を開ければ、視界には雲ひとつない高い青空が広がっていた。

「……ここ、どこ」

 思わず零れた呟きは、当然誰も答えない。背中が痛いことから察するに、私は直で地面に寝そべっているらしかった。
 寝起きのはずだけれど、後ろ髪を引くような眠気は特になくすっきりとした目覚めだ。なんだか長めの瞬きをしていただけ、みたいな感覚だった。何気なく、横たわったまま川のせせらぎが聴こえてくる方へと顔を倒し――絶句する。

「よっ」
「……おじ、さん?」
「そうだぞぉ、お前の大好きなエドガー叔父さんだぞぉ」
「なにしてんの」
「くつろいでる」

 あっけらかんと、そして呑気にしている叔父の姿に、強ばっていた体から力が抜けていった。ため息を吐いて身を起こし、叔父さんの方へと座り直す。ゴロゴロした小石があるせいで、座り心地は最悪だ。顔を顰めるとケラケラした笑い声がかかった。

「痛そうだなぁ」
「そっちはものすごく快適そうだね」
「まあな」

 広い川の真ん中にぷかぷか浮かぶ円形の大きなソファのような黄色のフロートマット――というかもはやボードだ。なぜか赤のアロハシャツ姿の叔父さんは、そこに乗っていた。広いフロートの中心を悠々陣取り、偉そうにすね毛だらけの足を組んでいる。陽射しが強いわけでもないのに気障ったらしいデザインのサングラスをかけ、ハイビスカスのような花やパインが飾られた、鮮やかなブルーのドリンクが並々入ったワイングラスを片手にしていた。ボウル部分を手のひらで掬うように持って、意味もなく揺らしている。ちょっと零してるし。なんだその格好。
 ていうかここはマジでどこなんだ。キョロキョロと辺りを見回す。うーん、見覚えがあるような、ないような……。いや、ないはずはないんだろうけど。

「元気かい」
「知ってるくせに」

 だってここは夢で、全部私の頭の中で起こってることだ。
 意味の無い質問に肩を竦める。「会話を楽しめよ」と叔父さんはつまらなそうに口を尖らせた。楽しめるもんか。なんなら夢であなたをだしてしまう自分の不甲斐なさに絶望してるくらいだ。

「ここどこだっけ」
「昔レジャーで来た川さ。お前がクリーチャーくらいの大きさのときにな」
「絶妙に分かりづらい例え……」
「しかしお前はもう忘れてしまうんだろうなぁ」

 そう呟いた声は、寂しそうな響きをしていた。自分の夢だってのになにこのやりづらさ。気まずくなって顔を背ける。

「相変わらずエレナは無茶ばかりだな。もっと周りに頼りなさい。お前はまだ子どもなんだから」
「……そう言える時期はもう過ぎちゃったよ」
「お、そうか?」
「そうだよ」

 へらりと笑えば、叔父さんはちょっと考えるように口を曲げ、顎を撫でた。

「そう思ってるのはお前だけかもしれんぞ」

 叔父さんはひょいといたずらっぽく眉を上げた。ちゅうっと音を立ててドリンクが吸い上げられる。青い液体がストローを昇っていき、グラスの水嵩がぐんぐん減った。残らず飲み干してから、ぷは、と気持ちよさそうに息を吐いた叔父さんは、ニヤリと歯を見せて笑った。

「それになにより、そう思っているうちはまだまだだな」

 なんとなく目を落とす。噛まれたはずの足には傷一つなかった。

「もっと楽しみなさい」
「……会話を?」

 叔父さんはサングラスを上に持ち上げた。私と同じ色をした青い瞳が、穏やかに垂れている。

「人生をさ、エレナ・ワイアット」
 
 私と同じように。






 緩やかに意識が浮上する。夢……のはずだけど、なぜかそうじゃない気もしていた。よく分からない。普通に考えれば夢でしかない。でも……。叔父さんとの、あの夢とは思えない会話を思い出す。……まあ、そういうこともあるか。だってここは、魔法の世界なんだもんね。私ごときじゃうまく説明がつかないことなんていくらでもあるだろう。

「ハ、ハ……」

 今更なことを思って、自然と笑いが零れる。そのまましばらく、その場に丸まってクスクスと笑った。

「……楽しんでたんだ、あなたは」

 一頻り笑ってから呟く。声が掠れて震えてたのは、きっと寝起きだからに違いない。
 

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