22



 クリーチャーに連れられ姿くらましするなり、じっとりと湿った空気が素肌にまとわりついた。その不快感や空気のカビ臭さに思わず顔を顰める。
 暗闇からカチリと音がした後、三つの灯りがぼうっと浮かび上がり、その場にいる者たちを照らした。

「ク――」

 妖精の名を叫ぼうとしたロンの胸をハリー――と思しき人物――がどつくのと、私が杖を振ったのはほとんど同時だった。あっぶないことするなぁ?! いきなりなんか来て、驚く気持ちも分かるけど。叫ぼうとしてしまった事実に、黙らせられたロン自身ゾッとしているらしかった。

「静かに、落ち着いて」

 声を潜めてそう告げる。ロンが青い顔でコクコク頷いたのを確認してから、沈黙呪文を解除した。一息吐いてから、改めて地下牢を見回す。全身ボロボロのロンと、悪い虫にでも刺されたのか、顔がぶくぶくに膨れ上がったハリー。その隣には最後に見た時よりもずっと痩せてしまったルーナが。部屋の隅には今にも事切れそうなほど衰弱した老人が蹲っていて――。
 私は老人の近くに立ち竦んでいた血だらけの顔見知りを見て、ついさっき自分が言ったことも忘れて声を荒らげてしまった。や、もちろん、荒らげると言っても良識の範囲内でね。ロンほどの絶叫はしかけてないよ。

「えっディーン?!」
「そう、僕だよ。新学期に入ってからずっとあちこち逃げ回ってたんだけど――」

 上階からの恐ろしい悲鳴がディーンの説明をかき消す。私はその叫びにゾッと身を竦めかけ、はたと、これがハーマイオニーの声であることに気が付いた。
 もたもたしてはいられないと、ハリーが息せき切って「じゃあ」と身を乗り出す。

「君たちは――助けに来てくれた?」
「そう」
「クリーチャーはこの地下牢でも姿くらましができる?」
「はい」
「よし、ならルーナとディーンとオリバンダーさんの三人を、三人を――」
「ビルとフラーの所へ。ティンワース郊外の『貝殻の家』へ!」

 言い淀むハリーに代わり、ロンが続きを引き継ぐ。物言いたげなハリーへ、「あそこなら安全だ」とロンは言った。

「分かった、じゃあそこへ頼む、クリーチャー。それからまた戻ってきてくれ」

 クリーチャーは頷いて、老人の方へぱたぱたと駆けた。ぐったりとしている老人の片手を握り、それからルーナたちへと手を差し出す。二人は動かなかった。

「ハリー、あたしたちもあんたを助けたいわ!」
「君たちをここに置いていくことは出来ないよ!」
「二人とも行ってくれ! ビルとフラーのところで会おう――頼む!」

 懇願するハリーに、二人はまだなにか言いたそうしていた。迷うようにロンや私を見る。私たちが揃って頷くと、二人はやっと妖精の細い指を掴んだ。バチンと大きな音が鳴り、四人の姿が地下牢から消える。

「あの音はなんだ?」

 頭上から神経質な男の声がする。「聞こえたか? 地下牢のあの物音はなんだ?」声の主――ルシウス・マルフォイが、ヒステリックに早口で喋っていた。

「ドラコ――いや、ワームテールを呼べ! やつに、行って調べさせるのだ!」
「(……よかった)」

 来るのはドラコじゃない。そんな場合じゃないのにホッとしてしまった。いや本当にそんな場合じゃない。拷問も止んで館はシンと静まり返っていた。みんなが耳を澄ませているのだろう。ドタバタと走ってくる音に、私たちは目配せをし合って、扉の左側にロンとハリー、右側に私と、それぞれ壁に張り付いた。

「明かりはつけたままにしておけ」

 ハリーがそう囁くのが聞こえた。

「下がれ――扉から離れろ。いま入っていく」

 ワームテールがそう言うと、扉がパッと開く。地下牢に浮かぶ不可思議な三つの光源に、ワームテールは目を奪われ、呆けて立ち尽くした。しかしすぐに我に返り、一見して誰もいない地下牢の中へ一歩踏み出してくる。

 私は下がりかけた彼の杖腕に向けて呪文を放ち、杖を奪った。ワームテールが弾かれたようにこちらを向いたが、もう遅い。紐で全身をぐるぐる巻きにされたワームテールがじたばたと暴れる。万力の力で体にまとわりつく紐をなんとかしようと藻掻く姿に、見えないなにかとダンスしてるみたいだな、なんて呑気な感想が浮かんだ。
 ご自慢の銀色の手を持ってしても縄は外れず、ワームテールは呆気なく床に転がった。汚い床でのたうち回っているワームテールを無視して、獲得した短い杖をとりあえず近くにいたロンへと投げ渡す。

「ワームテール、どうかしたか?」
「なんでもありません! 異常ありません!」

 ロンがワームテールを真似て、ゼィゼィとした声で答えた。あんまり似てない。けれどボンクラのルシウス・マルフォイは不審に思わなかったらしく、「ならば戻ってこい!」とワームテールを鋭く呼びつけた。次いで、もう何度目かも分からないハーマイオニーの叫び声が響いてくる。ロンが脱兎の勢いで階段へ駆け出した。ハリーも後を追おうとして少し走ったが、入口付近でハッと立ち止まる。

「ワームテールは私に任せて」
「でも――」
「いいから行って」

 私のキツい口調にハリーは戸惑いながらも、ロンを追っていった。小さくなる背中を見送りつつ、息を吐く。心配してくれたのに、悪いことしちゃったな。これからすることを思って神経がピリついていて、つい威圧的な態度をとってしまった。

「……ああほら、そんなにしたら顔が傷だらけになってしまいますよ」

 耳塞ぎ呪文をかけてから、ふと足元のピーターを見下ろす。せめて口を縛る紐をどうにかしようとしたのか、銀の指が口の周りの皮膚をガリガリと掻きむしっていた。ただでさえ呼吸もまともにできていないだろうに、そんな苦しみを重ねにいかなくても。血だらけになったピーターの顔面は、いつだかのルーピン先生を彷彿とさせた。うっわいたそ〜……。
 若干引きつつ、銀色の手を頭横の床に磔にして固定し、体を縛り上げていた紐を消した。

「ぅあ、ぁ……?」
「エピスキー」

 ピーターは、ご主人様から賜った自分の腕がぴくりとも動かないことに、ひどく驚愕して狼狽えていた。
 そんな彼に傍らに膝をつき、生々しい切り傷の走る頬へぴとりと杖をつけてなぞっていく。うーん、塞げはしたけど、やっぱ痕は残っちゃいそうだな……。呪いの傷だからしょうがないか。ぎょろりと剥かれた小さな目と、視線が噛み合う。

「あなたは、私を殺そうとした」

 ふーっふーっという激しい呼吸音が、ぴたりと止んだ。

「覚えていますか。マグルの、穢れた血の、闇の帝王で言うところの『よけいなやつ』……叫びの屋敷で面倒くさい質問ばっかりしてきた、小娘のことを」

 返事はない。血走った目が細かく震え、私を凝視していた。広がった瞳孔に、にっこりする。

「覚えてくれてたみたいで嬉しいです。私もあなたのことをよく覚えていましたから」

 見開かれていた瞳から、徐に力が抜けていく。ピーターが緩慢な瞬きを一つ落とすと、目尻から溜まっていた涙が流れ、荒れた肌に筋を作った。

「そうか……」

 疲れきった顔で短く呟いたピーターは、諦めたようにゆっくりと瞼を閉ざした。えっなにその雰囲気。いったいどこでなにを勘違いしたのか知らんけど、ピーターはまるで殺されるのを覚悟したみたいな空気を醸し出した。は? なぜ?

 そんな宿主の様子に、銀の手が突然激しく振動しだす。見えない拘束から逃れて、なにかを成そうと――役に立たなくなり、あまつさえ諦めた臆病者の召使いを始末しようと、必死に震えている。それがあんまり激しい動きなものだから、ついには床にひび割れができ、ピシピシと何本もの亀裂が入った。けれど無駄だ。そんなもの抵抗にはならない。

「大丈夫です、落ち着いて。なにもできないから」

 突然自分の意思に反した動きをみせだした手に怯えるピーターへ、やさしく語りかける。私はこの数ヶ月の間で、こういう“呪物”を抑え込む術を、しっかり叔父さんから学んでいた。

「私はあなたを、命の恩人として覚えていました」

 周囲を回る光源が、髪の薄い、禿げかかった額に滲む脂汗をテラテラと光らせる。私はそれをハンカチで軽く拭ってから、信じられないものを見るような眼差しをしているワームテールへ視線を戻した。

「恩を返させてください」

 腕が一本なくなるが、まあ、こんな忌まわしい物があるよりずっとマシだろう。

 なんて勝手な判断とともに私は深呼吸をして、杖を固く握り締めた。

「ちょーっと痛いかもですけど、我慢してくださいね」

 そう言って、私は暴れている銀色の手のひらへ、トンと杖を置いた。指の先から腕の付け根にかけて伸びる何本もの筋が、暗闇の中にぼうと青く発光して浮かび上がる。

「い、いったいなに、なにを――」

 上擦った彼の声には答えないで、私は銀色の手と、肌色の本物の腕が繋がる継ぎ目を、杖で慎重になぞった。プツンと一本、腕の中で青い線が切れる。

「ああアアアっ?!」

 その瞬間、ピーターが絶叫した。思わず手を止めてしまう。想像もつかないくらいの激痛が走っているのだろう。痛ましい声に罪悪感と恐怖が胸を締めつけ、手が竦む。我が身かわいさで作業を中断して耳を塞ぎたくなった。が、気力を振り絞って杖を握り直し、作業を再開する。

 ピーターは、線が切れる毎に血を吐くような濁った叫びをあげ、銀の腕以外の動く箇所を使い、我を忘れて暴れた。暴れる過程で私の動きを阻もうとしたので、途中からは魔法をかけて動けなくした。私は時間をかけて継ぎ目の端から端までをなぞり、繋がっていた全ての線を絶った。

 最後の一本を切った瞬間、銀色の指先は断末魔をあげるようにぶるぶると震え、突然ぴたりと動きを止める。ぱかりと林檎が割れるように、銀色の手は腕から外れた。その割れ目からは、赤黒い断面が覗いている。グロテスクなそこから視線を逸らして、往生際悪く痙攣する銀色の手へ杖を向けた。

「フィニート・インカーターテム」

 魔力をたっぷり込めて呪文を唱えると、鍍金が剥がれるようにどんどん銀が腐り落ちていく。銀色は繋ぎ目だった箇所を起点として溶けだし、やがて真っ黒な炭のようになった。動かなくなった塊を杖先でちょんとつつく。宙にあるなにかを掴もうとしたような手の形をした塊は、つついた箇所からボロボロと崩れていった。

「(やあっと終わった……)」

 線自体はそう多くなかったし、実際にかかった時間はそうないだろう。けどなんか、罪悪感とか集中とかで気疲れがすごい……。解放された心地で、深く息を吐く。

 ピーターを見遣れば、彼は虚ろな瞳を天へと向けて、ぐったりとしていた。散々叫び続けたピーターの喉も枯れ果てていて、途中からは濁点付きになってたし。いやまじでごめん。でもこれ以外の方法が……。
 ふと脱力して伸ばされた腕を見れば、銀色の手が繋がっていた箇所から、トロトロと血が溢れ始めていた。

「うわー?! ごめんなさい! 痛かったですよね」
「……い……いったい、なに……?」

 ぎょっとしつつ、大慌てで止血していく。されるがままに茫然としているピーターを介助しながら、ゆっくり起き上がらせた。ショックから回復しているのか、彼の目にじわじわと光が戻ってくる。

「銀の腕と繋がっていた神経を切りました」

 ピーターの神経と繋がっていたからこそ、あの腕はこれまでピーターの意思通りに動いてたんだろう。だからその繋がりを切ってしまえば、外れたもほぼ同然。そうして宿主から完全に離されれば、銀色の手だってもう動けない。あとはもう呪いを解除して試合終了対ありGG! だ。外れた腕だけでのめちゃグロ無限ガッツファイトを見せられたらどうしようと、一応最悪の予想をしてはいたが、案外素直に事切れてくれてよかった。ああ、抑えつけて動きを封じていたのも大きいのかもしれないな。じわじわ継続ダメージ入ってたのかな。

「いやでも、ほんと痛そうでしたね、申し訳ない……まあ、あなたも私を殺しかけはしたんだし、お相子ってことで許してくれません? だめ?」
「だめ、もなにも……」

 彼は戸惑いながら、言葉を探すようにゆっくりと口を開く。先がない腕と朽ちた残骸を交互に見て、自嘲するように口元を歪めた。

「……きみこそまさか、許すのか? この……薄汚いドブネズミの、醜い裏切り者のワームテールを?」
「え、いやそこは知らない。裏切り者とか……そういうのはシリウスとかに聞いてほしい……」
「えっ」

 裏切られたのは私じゃないんだから、そんなの私に聞かれても。露骨に困ると、ピーターもまた露骨に困惑した。

「そこはあの、あとでご勝手に? 謝るなり弁明するなり更正するなりボコボコにされるなり、お好きにどうぞ。私はただ、あの時私を殺すのを躊躇ってくれた人に対して、個人的な恩返しをしたかっただけですから」
「……そんな、きみは……たったそんな程度で……」
「大事なことだったんですよ、私にとっては」

 『たった』かどうかは、私が決めることだ。自分の気持ちに従い、数年越しのありがとうございますを伝えて笑う。ピーターは震えた手で目元を覆った。

「私は……お礼を言ってもらえるような善い人間ではない……」
「んん……まあたしかに? 闇の帝王の復活に多大なる貢献をしたあなたは、うちの陣営にはとてっつもなく嫌われているでしょうね。でも少なくとも、私はあなたを憎んでも嫌ってもないです。ただ助けたかったから助けた」

 応急処置に集中しながら、淡々と話す。魂の片割れを完全に手放した夜以降、私は彼に対して嫌悪の感情を抱いたことはなかった。いや、元から別に、嫌いでもなかったけどね。行動原理がわっかんないなあ、とは思っていたけど。

「私は私のしたいことをしただけ」

 汚らしい地下牢でできる限りの処置を終え、仕上げにポーチから取り出した包帯を巻いていく。

「だからたまには、あなたも自分のしたいことをしたらどうです?」
「え……?」
「ヴォルなんとかさんとか親友とか、裏切りとか信頼とか、立場とか資格とか、善とか悪とか好きとか嫌いとか、もう一回全部抜きにしてさ。そういうまっさらな状態になった時にしたいことは、なにもないんですか?」
「わたし、わたしは……」

 包帯の端がテープで止まる。ピーターは、顔から手を外し、涙でぐしょぐしょの顔で私を見上げた。はくはくと口が震え、やがて掠れた声が絞り出される。

「――かれらにあいたい」
「じゃあ会いに行きましょう」

 “彼ら”が誰なのか、ピーターは口にはしなかった。でもなんとなく、あの二人――もしかしたら、三人かも――のことだろうなと思った。

「い、い、いいのか?」

 欠けた手でゴシゴシと涙を拭いながら、ピーターがゼィゼィ喘ぎながら囁く。

「そんな、そんな贅沢なことを望んでいいのか? 私が? わ、私は、裏切り者なのに――敵なのに!」
「会うくらいいいでしょ。それに、お忘れかもしれないけど、あなた今、杖もない上に大怪我してるんですよ」

 そんな状態の魔法使い一人を伸せないほど、彼らも私も弱くはない。つまり、引き会わせてもなんの危険も心配もない。

「むしろ心配するべきはあなたでは? さっきのハリーが比にならないくらい顔が膨れ上がっちゃうかもですよ? ボコられすぎて一生“左手”が上がらなくなるかも!」


 会うと決めたなら――否、会うのなら。

 杖を持たせるつもりも、自衛をさせるつもりも、今度こそ逃亡を許すつもりも――引き返させるつもりもない。


 そういう意図を滲ませて、「それでもいいんですか?」と挑発的に尋ねる。ピーターは息を吐いてくしゃりと破顔した。止まりかけていた涙がまたボタボタと落ちて、床に水溜まりを作っていく。

「それでもいい。むしろそれがいい、そうなりたい、本望だ」
「あはは!」

 予想以上に前のめりな返事が来て、そんな雰囲気じゃないのについ笑ってしまった。

「……だったら、とりあえずここから逃げないとですね。手伝ってくれますか、ピーター?」

 ピーターはぎこちなく口角を歪め、鼻を啜りながらこくんと頷いた。
 

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