23.5



 錆び付いた人形のようにぎこちない動きで首を回したエレナが、突然高く飛び跳ねたかのような動きで立ち上がった。エレナは、浜辺で縮こまっているワームテール――と、彼を支える人影に向かって、足をもつれさせながら走っていく。小鬼をクリーチャーに任せて、ハリーもパシャパシャと飛沫をあげながら、急いで彼女のあとを追った。

 エレナに追いついたところで、ハリーはやっとワームテールの傍らにつく人物の正体に気が付いた。数ヶ月前にビルとフラーの結婚式で会って以来の名付け親が、片腕になったかつての旧友へ――胸から銀の小刀を生やす男へ、必死な形相で半ば怒鳴るように話しかけ続けていた。

「ピーター、ピーター!」

 ワームテールは小さな瞳を虚ろに刮目させていた。薄く開いた唇からはヒューヒューと浅くて、けれども激しい呼吸音が繰り返され、胸が苦しげに上下している。胸から脇腹へ伝ってぽたぽたと流れていく血が、濡れて色の変わった砂浜に、ことさら濃い跡を作っていた。

「ああくそピーター、頼むよ――」
「うそだ」

 エレナが膝からがっくり崩れ落ちると、辺りに泥が跳ねた。エレナはドス黒い血の染みへふらふらと手を伸ばし、血を止めようとするかのように、ナイフが刺さる箇所に手を押し付ける。みるみるうちに、白い手がワームテールの血で真っ赤に染まり上がったが、血は一向に止まらなかった。

「あ、あ、うそだめ、だめ――」
「エレナ?」

 エレナの尋常ではない様子に、ハリーは怖々と彼女の名前を呼んだ。

「うそうそうそうそ、だめ、だめ、そんな――」

 エレナは独りで何事かを呟きながら、覚束無い手つきで、腰につけた小さなポーチからなんとか小瓶を取り出した。小瓶の口を固く占めるコルクを外そうとする。しかし血に塗れた手ではうまく力が入らないのか、震えた指先はコルクを擦るだけだった。ハリーは見兼ねて手伝いを申し出ようとしたが、その瞬間、ふっと影が落ちてくる。

「――落ち着きなさい、エレナ」

 大丈夫だから、と続けながら、エドガーはエレナの手を宥めるように包み込んだ。その背後で紅色の翼を悠々伸ばす不死鳥が、謳うように柔らかく鳴いている。エドガーがピーターの胸に刺さった小刀を引き抜くと、フォークスはすぐさまお辞儀をするように頭を垂らし、緩やかな瞬きを落とした。真珠のような涙が一粒、二粒と傷口へ零されれば、しゅわしゅわと煙が立ち上がり、傷口が塞がっていく。

「……これで大丈夫だろう」

 不死鳥の涙たった数滴で、瞬く間に傷は完治した。けれどワームテールは――ピーターは、目を覚まさない。エドガーは、旧友の唯一残った手を握り締めているシリウスを安心させるように言葉を重ねた。

「傷は完璧に治っている。単純な疲労だよ。例のあの人がすぐ隣にいたんじゃ、心が完全に休まる暇なんてなかっただろうからな。しばらく療養すれば回復するさ」

 疲れきった顔で目を閉じるピーターはとても元気そうには見えなかったが、たしかに繰り返される小さな寝息は穏やかだった。ピーターと同じくらい青褪めた顔をしていたシリウスが、どさりとその場に尻餅をつく。シリウスは立てた両膝に肘をついて頭を抱えると、深い安堵の息を吐き出した。

「ありがとう、エドガー」
「礼ならこの鳥に」

 シリウスの掠れきった声に、エドガーは頭上で舞っている不死鳥へ向けて、軽く頭を振った。
 ハリーはいつの間にか人が増えていることに気が付いた。ビル、フラー、ディーン、ルーナ、それからソフィアがハリー達を囲んでいた。

「そういえば、こいつの腕は?」

 シリウスからの言葉に、ハリーは自然と顔をエレナへと向けた。ハリーが再びピーターに会った時には、もう腕はなかった。あの不気味な腕をどうにかしたのは、恐らくエレナなのだろう。
 しかしその場にいる者全員からの視線が集まっても、エレナは固く口を引き結ぶばかりで、なにも言わなかった。


 会わない間に随分痩せたんじゃないだろうか。
 白い顔のエレナに、ハリーはそう思った。ハリーたちも旅の間でかなり痩けたけれど、人攫いに追われることもなく普通に暮らしていたはずのエレナも、自分たちと同じくらい不健康に見えた。血の気の失せた顔が尚更そう見せているのかもしれない。そう思い至るのと同時に、ハリーは奇妙な既視感に襲われた。この今にも折れそうな、頼りない枝じみた雰囲気を纏うエレナの姿を見るのは、どうしてか初めてではないような――。

 そこまで考えて、ハリーは気遣わしげな眼差しを少女へ送るフラーの姿にハッとした。思い出した。初めてこんな様子の彼女を見たのは、四年生のハロウィーン、三校対抗試合の、選手発表の日だ。

「エレナ?」

 優しいフラーの声に、ハリーは彼女も同じ既視感を覚えたのだろうと分かった。俯いていたエレナがゆらりと顔を上げる。エレナはフラーに視線を合わせるでもなく、ただビー玉のような奥行きのある瞳で、眠りこけるピーターを注視していた。ともすれば見る人をゾッとさせるような温度のないエレナの表情に、ハリーの隣にいたロンが震える。

「ころしてしまった」

 ごっそりと感情の抜け落ちたエレナの声が、さざ波を縫って夜の静寂に響いた。

「殺していない」

 エレナがもたらした発言のショックから誰よりも早く回復したエドガーが、素早く訂正した。

「ピーターは生きている。大丈夫だ、エレナ」
「でも殺しかけた……ひどい目に合わせてしまった。また必要のない人に必要のない怪我を負わせてしまった。私のせいだ、私のせいなんです」
「違う、きみのせいなんてことはない」
「私に刺されば――私が刺されようと思ってた! だってそれ以外に、私が今夜あそこにいる意味なんてなかった!」
「ああ、エレナ!」

 エレナは今にも泣きそうな面持ちをしていたけれど、その目元は少しも濡れていなかった。落ち着き払って宥めすかそうとするエドガーに、エレナは半狂乱になって叫ぶ。彼女のひどい自虐に、ハリーもロンも、その場にいるほとんどが言葉を失っていた。自らを躊躇なく刺し穿つ痛々しい言葉は、聞く者の心にも深く突き刺さっていて、呼吸すら憚られる心地に苛まれていた。
 ハーマイオニーは瞳を潤ませながら嘆くようにエレナの名前を呼び、汚れるのも構わず地面に膝を着いてエレナに寄り添った。「いいかい」エドガーが、エレナの顔を覗き込む。

「エレナ、よく聞きなさい。きみは今夜、なにもしていない。なにも、悪いことなんて一つも――」
「ええそう、なにも! なにもしてない! 私はまたなにもできなかった!」

 エレナは口角を歪めて、声を大きく、喉が裂けるんじゃないかと思うくらいに張り上げた。なにかに助けを求めているかのような声が、満天の星空を突き抜けていく。爛々と不気味な光を見せる青い瞳に、エドガーの顔がギクリと強ばった。

「ちがう、そうではなく――」
「あなたの言う通りです、なにもしなかった! もういや、いやだ――なんで? どうして私っていつもこうなの? なんでなんにもうまくいかない? なんでちゃんとできないの? 最近は上手くいってたと思ったのに、なんで? どうしてこんなにだめなんだ私――」
「ッ、エレナ!」

 エドガーが喘ぎ喘ぎで姪の名を呼んだ。なぜか左胸の辺りを抑え、苦悶の表情を浮かべている。そんな叔父を見て、エレナは突然ぷっつりと黙り込んだ。「やっぱり」短い沈黙を挟んでから、彼女はゆっくりと顎を震わせる。

「やっぱり私じゃなくて、叔父さんが残るべきだったんです」

 そう言うなり、エレナの身体が急に前へ傾いた。ハーマイオニーが慌てて支え、がっくり落ちたエレナの顔を覗き込む。

「……眠ってるわ。誰かなにか――?」

 あまりにもいきなりだったから、問いかけたハーマイオニー同様、ハリーも誰かが魔法で眠らせたのかと思った。しかしそうではないらしく、みんな困ったような顔をして首を横に振った。

「この子も疲れていたんだろう……今夜は色々あったから」

 そう溜息を吐いたエドガーの顔は、急に何十歳も老け込んだように見えた。エドガーが杖を振ると、どこからともなく担架が二台現れ、ピーターとエレナをそれぞれ乗せて運んだ。

「ビル、フラー、ひとまず二人を家に運ぶが構わんかね?」
「はい、もちろん。さあ、みんなも早く中へ。冬の夜の海は冷えるから」

 ビルに言われ、全員は今更凍えそうなほどの寒さを認識した。身を震わせたり腕を摩ったりしながら、それぞれが海岸から逃げるように撤退していく。「エドガー」ハリーも手を擦り合わせて暖を取りつつ、エドガーの隣に並んで話しかけた。

「あの、さっき、エレナが眠ってしまう直前に言ってたあれって、いったい――?」
「……さあな」

 ハリーを横目で見てから、エドガーは緩慢に首を横に振る。「きっと錯乱していたんだろう」担架で運ばれていく金色の小さな頭を見つめながら、エドガーはどこか自嘲気味にそう呟いた。
 

- 211 -
 ←前 次→
 back
 >>HOME