31.5
◆◆◆
分霊箱は、とうとう残りひとつとなった。
必要の部屋でティアラを破壊し、フレッド達と別れたハリーとロンとハーマイオニーは、大広間へと駆け込んでいた。ヴォルデモートを――正確には、ヴォルデモートが連れている大蛇を――見つけるためだった。
大広間は熾烈を極める戦いの影響で、見る影もないほど荒れ果てていた。美しい空を描いていた魔法の天井には無骨な穴が開き、本物の空が見えていて、寮ごとの大きなテーブルも無惨に砕けてバラバラになっていた。
ハリーは大急ぎで戦場へ視線を走らせた。しかし見回した限り、ヴォルデモートはおらず、当然ナギニの姿も見つからなかった。ハリーは落胆と安堵を同時に覚えつつ、次の場所へ向かうために踵を返そうとした。
「ハリー!」
「イタッ! なんだよ――?」
金切り声を上げたハーマイオニーが、急にハリーの腕をきつく引っ張った。ハーマイオニーが凝視するほうを見る。先程はヴォルデモートを探すのに夢中で気が付かなかったが、大広間の中央では、シリウスとリーマスが、ベラトリックス・レストレンジを相手に、一際凄まじい戦闘を繰り広げていた。あまりに激しい決闘で、振り捌く杖がかすんで見えるほどだった。四方には絶え間なく呪文や火花が盛大に散っているため、三人の周囲だけ人が極端に減り、遠巻きにされていた。
ハリー達は急いで加勢へと向かった。しかしハリーを見つけた死喰い人達がひっきりなしにハリー達の行く手を阻むので、なかなか三人の元へと近付けなかった。歯痒い思いの中、ハリーは必死で首を伸ばして大広間の中央を見つめた。
二対一だというのに、ベラトリックスは歯茎が剥き出しになるほど凶悪で残酷的な笑みを浮かべ、恐ろしい気迫を放っていた。そんな魔女を相手取るシリウスとリーマスは、眉間に深い皺を刻んでいる。
「かわいいかわいいニンファドーラはどうした? えぇ?」
ギラつく緑の光線を放ちながら、ベラトリックスは恍惚とした表情で挑発した。
「あいつは戦いから逃げたのか? あの臆病者の恥知らずは!」
「彼女を馬鹿にするな!」
吼えるリーマスの杖が空気を切り裂く。ハリーにはリーマスがなにをしたのか分からなかったが、ベラトリックスは胸を掻き毟るようにその場でもがいた。その隙をついてシリウスがフェンシングをするように鋭く杖で宙を突く。しかしベラトリックスは見えないなにかを引きちぎる動きのあと素早く盾を展開し、シリウスの呪文を防いだ。
落窪んだ眼窩の奥で血走った目をぎょろつかせたベラトリックスは、シリウスとリーマスを睨みつけた。乱暴な仕草で杖を頭上高くへと振り上げる。ベラトリックスの血反吐を吐くような絶叫とともに大広間中の窓が一斉に割れ、ゾッとするほどけたたましい音が大広間を包んだ。中央の三人以外が戦いの手を止め、頭を庇ってそれぞれの身を守る。ハリーも頭を守りながら、それでも三人から目を離すまいと、腕の合間からなんとか戦況を覗いた。
ベラトリックスは砕けたガラスを余さず操り、二人へ向けて飛ばした。シリウスとリーマスは至って冷静に、大きな銀色の盾を張り巡らせる。銀色の盾に阻まれるかと思ったガラス片はすり抜けていき、たちまち輝く大量の砂塵となった。空気が細かく煌めく中で、シリウスがせせら笑うように口元を歪める。
「こんなもので――」
「シリウス!」
ベラトリックスの瞳が勝ち誇ったように光った。言い知れぬ恐怖に駆られてハリーは叫んだが遅かった。漂っていた粉末がシリウスとリーマスの全身にまとわりつき、くっついた先から結晶化していく。瞬きの合間に二人の身動きは封じられてしまった。必死に身を捩る二人へ、ベラトリックスがおぞましい引き攣り笑いを響き渡らせた。
二人の危機に、ハリーはヴォルデモートを探すことも一時忘れ、夢中で走り出した。だが足首の辺りに勢いよくぶつかってきたなにかのせいで体勢を崩してしまった。
「なんだ――?」
ハリーは腹立たしい気持ちで足元を見下ろした。黒い影が、人の足にぶつかりながら中央へ物凄い勢いで向かっていく。ハリーが呆気に取られている間に黒い影は中央に辿り着いた。影はベラトリックスの背後から、頭上高く飛び上がる。空中で弾けるように大きく膨らむと、人の姿となった。突如として現れた男は、今にも死の呪いを放たんとしていたベラトリックスを羽交い締めにする。シリウスとリーマスが――誰よりも早く、男の正体に気が付いた二人は、同時に息を呑んでいた。
「なんだ?! いったい――」
振り返ったベラトリックスは、驚愕に目を見開く。すぐさま憎悪で顔を歪め、「貴様!」と怒鳴った。
「生きていたのか、ワームテール!」
「っ……!」
「貴様、貴様、よくもぬけぬけと――私に触れるな! 穢らわしいドブネズミめ!」
唾が飛ぶほど罵倒され、ベラトリックスからの決死の抵抗で頭や胴を殴られ続けながらも、ワームテール――ピーター・ぺティグリューは、拘束する手を緩めなかった。かつて銀の腕が輝いていた箇所には、木製の義手がついている。
ベラトリックスは怒りに任せて激しく身を捩った。体格差のせいで元々しがみついているに近い形だったが、とうとうベラトリックスの背中からピーターが振り落とされる。ベラトリックスは無様に転がったピーターへ、忌々しげに杖を振りかざした。間一髪でネズミの姿へ再度変身したピーターは、呪いを器用に掻い潜って避け、ベラトリックスの体をちょこまかとよじ登って、杖を持つ手にがぶりと噛み付いた。その行為に、ハリーは一年生のとき、コンパートメントでスキャバーズがゴイルの手に噛み付いたことを思い出したが、しかし今行われているのはそんなかわいい反逆ではなかった。ベラトリックスの手から血飛沫が上がり、悲鳴をあげて髪を振り乱す。ピーターはどれだけ振り回されても今度こそ口を離さず、むしろますます長い歯を食い込ませた。やがてぶちりと耳を塞ぎたくなるような音がしたあと、ベラトリックスが喉を絞るように叫び、今度こそネズミが宙を舞った。
「あ、あ、アアアアアッ!!」
ベラトリックスが自身の赤黒い手を凝視しながら、絶望的な声を上げた。血塗れとなった魔女の手からは血が噴き出していて、親指がなくなっていた。四本の指から杖が滑り落ちる。ベラトリックスが慌てて飛びつくよりも早く、結晶から抜け出したシリウスが杖を遠くへとはじき飛ばした。山姥のような形相に脂汗を浮かべるベラトリックスへ、リーマスが呪文を飛ばす。その閃光に捕われる寸前で、ベラトリックスは姿くらましをした。ベラトリックスが消えた大広間は静まり返り、それから歓声や雄叫びが洪水のように広がった。
この場を完全に支配していたベラトリックスが逃走したことで、戦況は簡単にひっくり返った。冷酷な笑い声に戦意を削られていた味方たちも勢いを取り戻し、今やすっかり死喰い人を押していた。
ローブを叩いてガラス片の残骸を払ったシリウスが、きょろきょろと首を回す。シリウスはハリーを見つけると、安心したように微笑んだ。家族の無事に、ハリーもホッとした。不意にシリウスの背後で淡い光が上がる。シリウスの背後にいたリーマスが、口元を赤くした小男の襟ぐりを掴んで立ち上がらせるところだった。ピーターは、最後に貝殻の家で見た時に比べ、かなり元気になっているように見えた。
「さあハリー……そろそろ行こうぜ」
「ああ、うん――」
シリウスがピーターの口元を乱暴に擦っている。ピーターはされるがままで、肩身を狭そうにして俯いていた。シリウスとリーマスの顔はこちらからは伺えない。三人はなにかを話しているようだった。ハリーは内容が気になったが、ロンにせっつかれ、後ろ髪を引かれながらも大広間をあとにした。
「私達も戦わなきゃ」
死喰い人の追撃をかわしつつ大広間を出たハリー達は、タペストリーの裏側に隠れた。硬い口調で呟いたハーマイオニーは、真っ直ぐにハリーを見つめる。
「戦わなければ……あの蛇に近付かなくちゃいけない……だから、ハリー。あなたは、ヴォルデモートの居場所を見つけないといけないわ。だって、大蛇はあの人が連れているんですもの……さあ、やるのよ、ハリー。あの人の頭の中を見るの!」
それは難しいことではなかった。傷痕はもう何時間も前から焼けるような痛みを訴えていて、ハリーは痛みに意識を委ねるだけで、ヴォルデモートの想念を覗くことができた。
ハーマイオニーに言われるままハリーが瞼を下ろすと、取り囲んでいた耳障りな騒音は徐々に消えていき、すべて遠くのものとなった。ハリー一人が周囲から隔離され、みんなから離れたところに立っているかのようだった――。
彼は、城からは離れた場所に佇んでいた。劣化した壁紙はあちこち剥がれ、一箇所を除いて、窓という窓にはほとんど腐りかけの板が打ち付けてある。激しい戦いの音はくぐもって、遠くに聞こえた。板のない唯一の窓からは、閃光が絶えず迸る城が覗いていた。しかしそれもやはり遠くのことで、陰気な室内を照らすのは、石油ランプただ一つであった。
薄暗い中、彼は蝋のように白くのっぺりとした指で、節くれだつ杖を弄んだ。手に入れてからまだそう経っていない杖へ、矯めつ眇めつ視線を這わせる。そうしながらも、彼の意識はここにはなかった。彼はいま、城にある『部屋』のことを考えていた。
宝物やガラクタが雑多に並ぶ、埃臭いあの『部屋』。千年近くに及んで生徒たちの秘密を強欲に溜め込んだ、あの特別な部屋……。狡猾で賢く、好奇心がなければ決して辿り着けない。あの小僧には見つけられぬ、と彼には自信があった。愚かな臆病者の、ダンブルドアの操り人形にはとても無理だろう。……しかしあいつは予想もしなかったほど深く進んできた……あまりにも深く……。
「わが君」
取り縋るような嗄れた声に呼ばれ、彼は振り向いた。いちばん暗い片隅に、ルシウス・マルフォイが座っていた。ひと月ほど前に自身の館からハリー・ポッターの逃亡を許したために受けた懲罰の痕が、まだ生々しく残っていた。片方の目は腫れ上がって、閉じられたままだ。
「わが君……どうか……私の息子は……」
「お前の息子が死んだとしても、ルシウス、俺様のせいではない。スリザリンのほかの生徒のように、俺様の許に戻っては来なかった。恐らく、ハリー・ポッターと仲良くすることに決めたのではないか?」
「いいえ――決して」
囁き声で言うルシウスへ、ヴォルデモートは鼻を鳴らした。例えドラコ・マルフォイが寝返ろうと、彼にとってはどうでもいいことだった。あんな小者の裏切りなど、これから行うことへ何一つ影響を及ぼさない……。
「そうでないように望むことだな」
「わが君は――わが君は、ご心配ではありませんか? ポッターが、わが君以外の者の手にかかって死ぬことを?」
ヴォルデモートからの無言の眼差しに、ルシウスは臆したように震える声を一度止めたが、すぐに話し出す。埃っぽく湿った空気を吸う音さえ、恐怖を顕に震えていた。
「差し出がましく……お許しください……戦いを中止なさり、城に入られて、わが――わが君ご自身が、お探しになるほうが……賢明だとは思し召されませんか?」
「偽っても無駄だ、ルシウス。お前が停戦を望むのは、息子の安否を確かめたいからだろう。俺様にはポッターを探す必要はない。夜の開ける前にポッターのほうで俺様を探し出すだろう」
ヴォルデモートは、再び指に挟んだ杖に目を落とした。気に入らぬ……ヴォルデモート卿を煩わすものは、なんとかせねばならぬ……。
ニワトコの杖は――杖は、最後の持ち主を征服した魔法使いに所属する。ヴォルデモートは、オリバンダーの言葉を頭の中で呟いた。最後の魔法使い、あの忌々しい老いぼれ、アルバス・ダンブルドアを征服した者……。
『正解』に至ったヴォルデモートは、口の端を高く吊り上げた。みすぼらしい金髪をした目の前の哀れな男を見下ろして、口を動かす――。
「――あいつは『叫びの屋敷』にいる。蛇も一緒で、周囲をなにかの魔法で守られている。あいつはたった今、ルシウス・マルフォイに――」
ハリーが口早に紡いだ言葉に、ハーマイオニーがひどく動揺したように鋭く息を呑んだ。
「そんな、ヴォルデモートはどうして――」
当惑するハーマイオニーの声が、突然耳が割れるほどの破壊音で遮られた。三人は慌ててタペストリーから這い出る。玄関ホールの窓が外へと吹き飛び、大量のガラス片が散っていくところだった。階段上のバルコニーから落下した生徒が、玄関ホールの中央へと転がってきた。ハリーがその人物を誰か認識するより早く、奥から獣のように駆けてきた灰色の影が、ぐったりしたまま動かない生徒へ牙を立てようとした。
「やめてぇぇ!」
叫び声を上げたハーマイオニーの杖――そして、まったく同じタイミングで外から飛んできた呪文は、生徒へ覆い被さっていた影を吹き飛ばした。二つの呪文を防御無しで受けたフェンリール・グレイバックは、大理石の階段の手摺にぶつかり、少し痙攣してから、くしゃりと丸まるようにして床へと落ちた。
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