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私は投げるような乱暴さでハリーの胸ぐらから手を離した。暴れ柳へと走る。私を捕らえようと鞭のようにしなった枝へ向けて雑に呪文を放つ。動きを止めたことを目視しないまま、私は根元へ飛びつくように転がって、そのまま穴の中へと飛び込んだ。
こんなに心が燃えたのは、生まれてから二回目だった。私の頭も体も、まるで以前の――両親の時のように、煮え滾る怒りが完全に支配していた。
それでも私は部屋の中へ押し入ったり、叫んだりはしなかった。それは理性の力などではなく、ただ単に、あとからやってきた誰かが私の口を物理的に塞いだからに過ぎなかった。口を抑える手に噛み付けば口内には鉄の味が広がったし、腹を拘束する手に爪を立てれば皮膚を抉るような気色悪い感覚がした。けれど力は緩まない。私がどれだけ暴れても、腕も足も指先が痺れそうなほどしっかり握り込まれていて、私は複数人に体を抑え込まれているようだった。
十秒か、一分か、はたまた五分か。とにかく時間が経ってから、やがて静寂がおとずれた。ようやく解放された私は、押さえつけていた全てを無理やり振り解き、部屋の中へドタバタと駆け込んだ。
その人は、すぐに見つかった。
私が施した拙い変身術は解けていて、いつも通りの姿に戻っていた。白い首筋から血が噴き出し続けている。美しかった金の髪はだらりと垂れ、投げ出された手足は痙攣していた。よくよく見れば首だけじゃなく、至る所から血がでている。周囲の埃っぽい床は、彼の赤黒い血で水溜まりを作っていた。傍らに膝をつけば、ぴちゃりと粘ついた音がした。飛び散った血でべったり濡れる頬を撫でながら、そっと後頭部へ手をやって頭を持ち上げる。
「――、ぁ……」
死に際特有の、息苦しいゼイゼイという音が彼の喉から漏れる。そんな呼気の中で、目が合った彼が笑ったように見えたから、私も微笑んだ。彼はなにかを言って、はくはくと口が動いたが、ほとんど音になっていなかった。残念だなと思った。最後に向けられた言葉くらいちゃんと聞き取りたかったな。
奥深くへとゆっくり落ちるように、瞳の光が徐々に閉じていく。聡いこの人は、すでに自らの死を悟っていた。
「大丈夫だよ」
これまでだしたこともないくらいに甘い声で私は囁いた。大丈夫、大丈夫だからね。ポシェットからガラス瓶を取り出して栓を抜く。自分でも驚くほど落ち着いていて、以前のように手が震えることはなかった。
腕の中の彼は、もう私ではないどこかを見つめようとして、伽藍堂になりかけている。それでもまだ間に合うことはわかっていた。
口元に寄せた瓶を傾け、全て口に含む。薬はひんやりしていて、ほんのりと甘いような、けれどどこか塩っ辛いような味がした。冷たい唇に自分のものを押し付けて、力の入っていない顎を少しだけ指で押した。できた隙間から薬が流れていく。祈るように唇を合わせ続ければ、しばらくして彼の喉がこくりと動いた。全ての薬を移し終えてから口を離し、青白い顔の彼を見下ろす。
「あっ」
ハーマイオニーが背後で息を飲む音がする。彼の顔から少しだけ視線をずらせば、皮膚を抉っていたいくつもの傷口が、まるで傷を忘れたようにたちまち塞がっていっていた。おびただしい量の血すら溶けるように消えて、いまや彼の身体で不自然な箇所といえば、ところどころ破れた衣服だけだった。それさえも、直してしまえば何事も無かったかのように全てが元通りの姿になる。乱れていた呼吸も、寝ているみたいに穏やかなものへとなっていた。
「エレナあなた、まさかその薬……」
まだぼんやりしている彼を壁際へと凭れかけさせ、口元を拭いながら立ち上がる。怯えたようにこちらを見つめるハーマイオニーへ一度笑いかけた。ハーマイオニーは、なにかを恐れているような顔をしていた。だから大丈夫だよ、という意味を込めたつもりだったのに、どうしてかハーマイオニーはますますぐしゃりと顔を顰めてしまった。
「エレナ、ドラコは……」
「全快するはずだよ。怪我が怪我だし、目覚めるのには少しかかるかもしれないけど。それよりスネイプ先生からハリーにプレゼントがあるんだって。ね、先生?」
スネイプ先生がじろりと私を睨んだ。お前が仕切るんじゃねえという気持ちなのかもしれない。その眼差しに、そういえば前もこの屋敷で先導役みたいなことしたなあと思い出した。いやこれでも不本意なんですよ、いつだって私は。
「なんの話か我輩には――」
「いやそういうのもういいから。空気読んで。ていうかあなたの杖まだ私が持ってるのお忘れ? 自分で選択出来るうちが華ですよ」
畳み掛けるように脅せば、スネイプ先生はぐっと息を詰め、一度深く、諦めるように溜息を吐いた。顔を気難しく顰めたまま、懐から空の瓶を取り出す。目元へそれをあてがい、涙を流すように溢れ出した銀色の雫を瓶の中へと落としていった。瓶に溜まった青白い海は、彼の葛藤を顕すようにぐるぐると渦巻いていた。
スネイプ先生は、瓶をぶっきらぼうにハリーへと突き出した。ハリーは戸惑いがちに私を見て、次にたぷんと揺れる瓶、最後にスネイプ先生をじっと見た。彼の瞳は明け方の海のように凪いでいて、仇への怨讐も今は遠くにあるような気がした。
「お前たちは戦った」
その時、だし抜けにすぐそばでヴォルデモートの声がした。また部屋に戻ってきたのかと錯覚しそうなほど間近から聞こえる声に、ぞっと心臓が縮み上がる。恐らく、ホグワーツと周囲一帯の地域に向かって話しているのだろう。きっと全員が、ヴォルデモートの息を首筋に感じ、その声をはっきりと聞いているのだ。
「勇敢に。ヴォルデモート卿は勇敢さを讃えることを知っている……」
高圧的で神経に障る口調だ。嘲笑いまじりのそれに耳を塞ぎたくなったが、甲高く冷たい声は壁や床、空間全てを震わせて届けられていた。なんて不愉快なASMR。勘弁して。
「しかしこのまま俺様に抵抗し続けるなら一人また一人と、全員が死ぬことになる。魔法族の血が一滴でも流されるのは、損失であり浪費だ」
「(魔法族ね……)」
白々しい言葉に内心で復唱して鼻で笑う。よく言う。お前にとって私やハーマイオニーは魔法族じゃないくせに。
その後ヴォルデモートは、今から一時間の猶予をくれると言った。負傷者を手当てしろと、見せかけの寛大さを示した。慈悲深いこと。有り難すぎて吐き気がする。
「――さて、ハリー・ポッター。俺様はいま、直接お前に話す。おまえは俺様に立ち向かうどころか、友人たちがお前のために死ぬことを許した……」
「……ブーメラン過ぎない?」
じわじわとハリーを刺すためにたっぷり持たせた沈黙は、私が茶々をいれるだけの時間に成り果てた。ハーマイオニーが複雑そうな顔をして、ロンは深々と頷いてくれる。
「俺様はこれから一時間、『禁じられた森』で待つ。もし、一時間の後にお前が俺様の許に来なかったならば、降参して出てこなかったならば、戦いを再開する。そのときは、俺様自身が戦闘に加わるぞ、ハリー・ポッター」
ハリーは自分の命を差し出すべきか目に見えて揺れていた。そんなハリーに、ロンが「馬鹿なことは考えるなよ」と釘を刺すように強い口調で言う。それからロンは、スネイプ先生を激しく睨みつけた。
「いいか? そんなもの僕らには必要ない。ダンブルドアを殺したやつの記憶なんか――」
「ダンブルドアは生きてる」
「……は?」
「ダンブルドアは、生きてるよ」
ハリーなりロンなり、とにかく絶対誰かがそう言うと思った。だから彼らに真実を伝える準備はばっちりできていた。しかし私の告発はスネイプ先生も驚かせたらしく、彼は絶句して私を凝視していた。
「何言ってるんだよエレナ。ついに頭が――」
「生きてるよ。その人の記憶を見れば、全て分かる」
失礼なことを言おうとしてるロンを遮って、吐き捨てるように強い口調で言い切った。
「ハリーは私のことが信用できない?」
「そういうわけじゃないけど――」
「まあね、いきなり過ぎるよね。気持ちは分かるよ、少し考える時間がほしいだろうって」
「ああ……」
「でもだめ、そんな時間はない。分かってるでしょう?」
ばっさり切り捨てて、目で強く訴えかける。許されたのはたったの一時間。こんな問答の時間すら惜しいくらいなのだ。痛いくらいの沈黙が数秒流れ、ついにハリーの手がおそるおそる上がった。止めかけたロンの腕を、ハーマイオニーが軽く引く。ロンほどじゃないが、ハーマイオニーもまだ納得できなそうに眉を下げていた。それでも私を信じてくれたのだろうと表情から分かって、感謝の気持ちでたまらなくなった。
ハリーは、突き出された小瓶を怖々と見つめた。緑色の瞳に青みがかった銀が映り、不思議な色合いになっている。スネイプ先生は、ハリーの手に納まった瓶を今すぐ取り戻したそうな、なんともいえない顔で見つめていた。
「……ぅ、……」
小さな呻き声にハッと振り返る。壁際の彼――ずっと閉ざされていた目蓋が、重たげに持ち上がった。ふるりと睫毛が震え、浩々と生気を取り戻した瞳が潤っていく。
瞳に私が映る前に私はさっさと歩き出し、トンネルの入口へと急いだ。次の行き場所を考える。時間がなくてシリウスたちの元へは行けなかったし、探さなければ……。
「……ぁ……ぼく、は……?」
この選択に悔いはない。
これで私の『のぞみ』は果たされる。
「……私が分かるか、ドラコ」
「スネイプ、せんせい……」
私は愛されて、恵まれていた。とても幸せな人生だった。だから失うことに淋しさはあれど恐怖はないし、この選択に悔いもない。
「ぼく、父上に……闇の帝王に呼ばれて、それで……」
「きみ、ナギニに噛まれたんだ。致命傷だった。けど――」
「おいマルフォイ、エレナに感謝しろよ。なんでか知らないけど、あいつがお前を助けてやったんだからな」
「……エレナ?」
だから――。
「エレナって……誰のことだ?」
だから、私を忘れて笑ってください。
全員が揃ったままの平和な世界を謳歌してください。願うことはただそれだけです。
――本当にそれだけ、それだけでいいから。
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