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◆◆◆
「ネビル、エレナ」
「ウワッ、ハリー、心臓麻痺を起こすところだった!」
私とネビルは、それから特に喋りもせず、階段の隅でぼんやり座り込んでいた。しばらくそうしていたところに、ハリーが一人で私たちの前へと現れる。半透明のマントを脇に抱えたハリーの顔は、青白く強ばっていた。
「ハリー、一人でどこへ……まさか、捕まりに行くんじゃないだろうな? 」
「違う、予定通りの行動だよ。やらなければならないことがあるんだ……それよりネビル、ヴォルデモートの蛇を知ってるか?」
「蛇?」
透明マントを片手にどこかへ行こうとしているのは明白で、もちろんネビルは警戒した。が、ハリーは息をするような流暢さで自然に嘘を吐き、はぐらかしてみせた。
「ああ、巨大な蛇で、アイツはナギニって呼んでて……」
「聞いたことあるよ、うん……それがどうした?」
「もし、きみにそういう機会があったら――」
「蛇を殺すの?」
「ああ、蛇を殺してくれ」
記憶だともう少し、なんていうか――『万が一の保険』的にお願いしていた気がする。ロンたちが無理そうだったなら、というもしもの場合に備えて、のように。だが今目の前にいるハリーは、それよりももっとしっかりとネビルへ蛇のことを託しているようだった。
「分かった、やってみる。ハリー、きみは大丈夫なの?」
「大丈夫さ。ありがとう、ネビル。……エレナ」
「うん?」
ネビルへの頼み事を終えたハリーが、今度はこちらを窺った。言葉を探すように瞳が揺れる。少しの間、私はそれを静かに見つめ返した。
「……ドラコは地下の――スネイプの部屋で休んでる」
「……そっか。教えてくれてありがとう」
わざわざ名前を出したということは、恐らくそこには、スネイプ先生もいるはずだ。ネビルがいる手前、スネイプ先生がいることまでは明かさなかったのだろう。ハリーの眼差しから、なんとなくそうであろうことが察せられた。それと同時に、多分これは、彼が本当に口にしたかったことではないのだろうな、とも感じた。
「ドラコ? ドラコがどうかしたんだ? 休むって、怪我でもしたの?」
「多分僕よりもエレナの方が詳しいよ」
「うーん、わたしはなにもわかんないかも……」
ネビル相手に今更雑なすっとぼけは通じないと理解していながら、明後日の方向へと顔を逸らす。疲れているからか、マジでもうびっくりするくらいなんにも言い訳が思いつかなかった。
じっとりと睨んでくるネビルと分かりやすく動揺している私に、ハリーはくすりと笑った。気負いのない穏やかな顔は久しぶりに見たような気がして、けれど今から彼が進もうとしている道を思うと、心臓が軋むように痛んだ。
ハリーは、私のことを恨んでもいい。私がずっと隠していたことを、知らないフリをして平然と振る舞っていたことを責め立ててもいいのだ。それなのに彼は、なにも聞かなかった。ハリーは私が欲しい情報だけを伝えて、自分のことはなにも、誰にも言わずに独りで往こうとしている。
「それじゃあ僕は、あの――またあとで……」
「ハリー」
透明マントを羽織り直そうとしていたハリーが、動きを止めて私を見た。ボロボロになった眼鏡の奥から、続きを尋ねる緑の瞳が届けられる。
「私は……私たちは、ハリーを信じてる。きみは必ず打ち勝つって信じてる――本当に」
彼だけが持つ特別な色の瞳が見開かれた。いつにも増して煌めくそれが、一瞬だけ波打つように揺れる。
「私たちは、英雄だからとか選ばれし者だからとかじゃなくて、六年を共に過した大事な友達として、ハリー・ポッターを心の底から信頼してる」
「ああ、エレナの言う通りだ。僕たちは全員、きみの友として戦い続けるよ、最後まで」
「――……うん」
僅かな合間を挟んでから、ハリーはゆっくり、くしゃりと相合を崩した。
「ありがとう」
「――ハリー・ポッターは死んだ」
“それ”が再び私たちの耳へと注がれたのは、ちょうど叫びの屋敷での騒動を洗いざらい吐かされた直後の、薄らとした夜明けの頃だった。ネビルがゾッとした顔で立ち上がり、禁じられた森のほうを見る。「そんな」ネビルが零した掠れきった囁きは、言い表せないほどの悲壮感を含んでいた。
ネビルの隣に並んで視線を遠くへやりながら、私は下唇を食んだ。黒い森の上の方では、夜がゆっくりと白みはじめている。
頭の冷静な部分は、ハリーが成し遂げたことを教えてくれていた。目を瞑って、ひっそりと吐息を吐き出す。流れどおりだという安堵と、それでもまだ確信は持てないという恐怖。それらが入り混じった息は、ひどくか細いものだった。
「お前たちがやつのために命を投げ出しているときに、やつは、自分だけ助かろうとして逃げ出すところを殺された。お前たちの英雄が死んだことの証に、死骸を持ってきてやったぞ……」
「うそだ」
血の気の引いたネビルの顔にサッと怒りが混じる。私の方も同じ気持ちで、ヴォルデモートに対する軽蔑の念が胸を満たしていた。
「勝負はついた。お前たちは多くの戦士を失っただろう。『生き残った男の子』は、完全に敗北した。もはや戦いはやめなければならぬ」
大広間で傷を癒していた戦士たちが、次々と玄関口へと流れ出てくる。誰もが絶望的な顔で呆然と校庭の奥を見つめていた。シリウスは特に悲惨なもので、脱獄した時のようにげっそりと窶れて老け込んだように見えた。
「抵抗を続ける者は、男も女も子どもも虐殺されよう。 その家族も同様だ。城を棄てよ。俺様の前に跪け。さすれば命だけは助けてやろう。お前たちの親も子どもも、兄弟姉妹も生きることができ、許されるのだ。そしてお前たちは、我々がともに作り上げる新しい世界に参加するのだ」
「ふざ、け、――!」
押し寄せた激情で、声をだすのもままならなくて、声もなく口が震える。言葉にならない代わりとして、軋むほど歯を食い縛る。だってこんな、こんな――いったい、なにをほざいているんだ、この男は!
牙が肉を抉る音を、助けを求める悲鳴を、それを嘲笑う声を。
床に散った血をどうでもよさげに踏み付ける姿を、ピクリともしない手足を、ビー玉へとなりかけた瞳を。
噎せ返るほどに生臭い鉄の香りを、指先を濡らした血の生暖かさを、のっぺりと無機質になっていく肌を。
そして禍々しい緑の閃光、割れた硝子――黒ずんで嗄れた、変わり果てた彼の手。
私は聞いていて、見ていた。直接触れて感じた。ドラコの件だけじゃない、私の家族はみんなお前の愚かさの犠牲になった。私はその全てを憶えている。私はそれを生涯決して忘れない。お前が許そうとも私は絶対にお前がしたことを許さないし、そもそもお前なんかに許される道理もない――ないのに、お前は、お前は、お前は本当に!
「なんて……気持ちの悪い……!」
「エレナ……」
ヴォルデモートの言ってることはなにもかもが滅茶苦茶で最悪で、胸糞悪くて堪らなかった。耳から脳が腐敗しているんじゃないかと錯覚するくらい、不快でしょうがなかった。
噛み合わせた歯から獣のような荒い呼吸が洩れ、視界が霞むくらいに感情が激しく揺れていく。許容量を超えた怒りで吐き気まで込み上げてきて、私は思わず叩くように口元を抑えた。胃に吐く物がないせいで、饐えたような臭いが口内に広がって、それがまた不快極まりなかった。
ネビルが気遣うように私を覗き込む。彼はまた私の手を握り、背中を緩く摩った。
ヴォルデモートの声が途絶えた後には誰一人喋りだそうとせず、校庭も城も静まり返っていた。全員が黙り込んだまま、禁じられた森のほうを見つめている。奴らがやってくるのを、じっと待っていた。
その間もずっと、ネビルは私の背中を摩ってくれていた。甲斐甲斐しい献身のお陰で具合は僅かながら持ち直し、憎悪の感情も、徐々に鎮まっていっていた。
やがて、校庭を超えた向こう、森へと続く橋から黒く蠢く集団がやってくるのが見えた。先頭を率いるのは、当然、今や口に出すのもおぞましいあの男だった。そのすぐ傍に立たせられているのは、大好きなみんなの森番で――。
「ああぁぁっ!」
最初に悲鳴を上げたのは、マクゴナガル先生だった。崩れ落ちこそしなかったものの、後ずさってよろける彼女をキングスリーが支えた。
「ああ、そんな!」
「ハリー! ハリー!!」
ロン、ハーマイオニー、ジニー、それから、シリウスがハリーの名を叫ぶ。それが引き金となり、義に奮い立った仲間たちが、口々に死喰い人を罵倒する叫びを上げた。
「黙れ! 終わったのだ――ハグリッド! そいつを俺様の足元へ下ろせ。そこがそいつに相応しい場所だ!」
眩しい閃光で、全員が沈黙させられる。無理やり従わされたハグリッドが、せめてもの抵抗とばかりに、ハリーを丁寧に芝生へ転がした。ハリーの亡骸のすぐ脇を、ヴォルデモートは大股で往ったり来たりする。
「分かったか? ハリー・ポッターは、死んだ! 惑わされた者どもよ、今こそ分かっただろう? ハリー・ポッター は、最初から何者でもなかった。ほかの者たちの犠牲に頼った小僧にすぎなかったのだ!」
「ハリーはお前を破った!」
ロンの大声で呪文が破れ、ホグワーツを守る戦士たちが再び叫び出す。隣のネビルが、繋いでいた手へ一度だけキュッと力を込めた。私もきつく握り返した。力は流れるように緩められ――やがて、完全に離れていく。寒くなった手を、固く握り締める。きっとこうでもしてないと、私は彼を引き止めてしまうだろう。
雄叫びは轟々と響いたが、さらに強力な爆発音がまたもや全員の声を消し去る。
「こやつは、城の校庭からこっそり抜け出そうとするところを殺された。自分だけが助かろうとして殺された――」
自身の嘘に酔いしれきった演説の途中で、ネビルが集団から抜けて飛び出していった。すぐさま閃光が走り、ネビルは地へと丸まって呻く。地面に打ち付けられたネビルへあちこちから悲鳴が上がり、誰かが「エレナ!」と切羽詰まった声で私の名を呼んだ。だが私は声の方を見ないどころかその場から少しも動かず、ただネビルから目を離さないでいた。
「いったい誰だ?」
ヴォルデモートは奪ったネビルの杖をぞんざいに投げ捨て、酷薄な笑みを浮かべた。
「負け戦を続けようという者が、どんな目に遭うか、進んで見本を示そうというのは誰だ?」
「我が君、ネビル・ロングボトムです!」
ベラトリックスが嬉しそうにキーキー叫んだ。
「カロー兄弟を散々手こずらせた小僧です! 例の闇祓い夫婦の息子ですが、憶えておいででしょうか」
ベラトリックスの顔は妙にゲッソリとしていたが、その目だけはいつも以上の狂気を宿して輝いていた。
「おう、なるほど、憶えている」
ヴォルデモートは、やっと立ち上がったネビルを見下ろす。敵味方の境の戦場に、武器もなく、隠れる場所もなく、ネビルはたった一人で立っていた。
「しかし、お前は純血だ。勇敢な少年よ」
「だったらどうした?」
「お前は気概と勇気のあるところを見せた、ネビルよ。高貴な血統に相応しい行動を……貴重な死喰い人になれる――」
「一言いいたい!」
凛としたネビルの声が夜明けの澄んだ空気を切り裂く。城の戦士たちも、死喰い人でさえも、ネビルの無鉄砲さに恐れ慄いたような反応をみせた。ヴォルデモートが目を細めてネビルを見据える。
「よかろう、ネビル。聞かせてもらおうではないか。――何が言いたい?」
滑らかな声には、下手な呪いよりも背筋を凍えさせるものがあった。ヴォルデモートの漂わせる静寂が嵐の前の静けさであることは、この場にいる全員が気付いていた。
「ハリーだけじゃない――」
「よせネビル!」
「――毎日人が死んでる!」
それでもネビルは声を上げた。ネビルの拳の震えは遠目からでもしっかり分かったが、それが単なる恐怖からではないと、私は知っていた。
「友達や家族……ああ、今日ハリーを失った。でもハリーは――ここにいる」
ネビルは振り返って自身の胸元を示す。仲間へと向けられた眼差しには、諦めなんて微塵も浮かんでいない。
「みんな……みんなの死は、無駄じゃない。みんなは僕らのために戦った。家族のために。――だがお前の死は、違う!!」
ネビルの勇気溢れる声が、折れかけていたみんなの心に火を灯していく。
「お前は僕らの家族を傷付けすぎた。僕らは決して屈しない」
昇り始めた朝日が城の鐘を照らし、反射した光が降り注ぎ、みんなの足元を照らす。城がもたらした天使の梯子のような黄金の光は、希望と名付けたくなるほど荘厳で美しかった。
「戦いはまだ、終わってない――ダンブルドア軍団!!」
呼応して爆ぜた歓声は、決起の声は、私たちの覚悟は、とうとうヴォルデモートにさえも制御不可能となった。
「――いいだろう。それが、お前の選択なら、ロングボトムよ。我々はもともとの計画に戻ろう」
ヴォルデモートは、恐ろしいほどに凪いだ声でそう語り出した。落窪んだ眼窩の奥から覗く瞳は、邪悪な炎で燃えている。
「どういう結果になろうと、お前が決めたことだ」
ヴォルデモートが杖を振るった。破れた城の窓の一つから、草臥れた老鳥のような物が飛び出してきて、ヴォルデモートの手へと落ちてくる。ヴォルデモートは、その薄汚れた物の尖った先端を掴んで乱暴に振り捌いた。ボロボロで、空っぽのなにか――組分け帽子が、くったりと垂れ下がる。
「ホグワーツ校に、組分けは要らなくなる。四つの寮もなくなる。我が高貴なる祖先であるサラザール・スリザリンの紋章、盾、そして旗があれば十分だ。そうだろう、ネビル・ロングボトム?」
ヴォルデモートがネビルへ杖を向けると、ヤツの呪文によってネビルの体が凍りついた。立ち尽くすネビルへ、目の下まですっぽり隠すように無理やり帽子が被せられる。私の周りで、私以外の全員が動く気配がした。死喰い人側もいっせいに杖を上げ、臨戦態勢をとる。それなのに、私だけは腕をおろしたままだった。
だってネビルは大丈夫だもの。ネビルは大丈夫、大丈夫、ぜったい。分かってる、信じてる、ずっと前から――。
「ネビルがいまここで、愚かにも俺様に逆らい続けるとどうなるかを、見せてくれるわ」
ヴォルデモートが杖を軽く振れば、組分け帽子がメラメラと燃え上がった。ネビルは動かない。その場に根が生えたように立ったまま、ネビルの体が炎に包まれていく……。
「ッ、もう無理!!」
未来は分かっていたし、ネビルを信じていた。
だけどもう、ただ見ているだけだなんてとても無理だった。だってそれはそれこれこれじゃん、こんなの!
私は無我夢中でネビルへ向けて光の矢を放った。ネビルを蝕もうとしていた炎はたちまち消え失せる。が、ヴォルデモートは私を気にかけなかった。それどころじゃなかったのだ。なぜなら私が我慢の限界を迎えたその瞬間、同時に色々なことが起こっていた。
まず、遠い校庭の境界から、どよめきが聞こえた。何百人とも思われる人々が押し寄せ、雄叫びを上げて城へ突進してくる音だ。
それからつぶらな瞳をした巨人が「ハガー!」と叫びながら、城の側面からドスンドスンと現れる。
さらにそこへ、蹄の音まで加わってくる。弓弦が高く鳴り、死喰い人の上へと大量の矢が降った。不意を衝かれた死喰い人たちが狼狽えて隊列を乱す。
騒動に紛れて、素早く鮮やかな動きでネビルは自身にかけられていた『金縛りの術』を解いた。地面に落ちた組分け帽子から、ネビルがなにか、銀色の物を引き抜く。
それは、ルビーの輝く剣だった。
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