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押し寄せる大軍の叫びも、巨人のぶつかり合う音も、ケンタウルスが起こす蹄の地鳴らしも、なにもかもがぷつりと途絶えて消え去った。誰の声も聞こえなくて、誰の存在も感じない。私の神経はもはや周囲の一切を遮断していて、ただただネビルの姿を網膜へ焼き付けることだけに集中していた。
朝陽を纏った白刃が頭上高く振りかざされる。
弾けるような眩さの一閃がうねる大蛇の首目がけ、真っ直ぐな線となって落とされる。
いつかに読んでいつかに観て、そしてずっとずっと待ち望んでいた瞬間。それはコマ送りのようにも、ほんの瞬きのことのようにも映って見えた。
切り落とされた大蛇の首が、空中を回転して舞う。ブラッジャー程の大きさの頭は城の玄関口へと、それから残された胴体は、ヴォルデモートの足元に音を立てて崩れ落ちた。
ああ、ついに――ついにこの時が!
溢れ出す歓喜と感動に身を任せ、私はいよいよもって走り出す。怒りの咆哮をあげるヴォルデモートを前に、ネビルは勇猛にもてらてらと赤く濡れた剣を構えていた。そんな彼の腕を強く引き、後退させつつヴォルデモートとの間に盾の呪文を張る。
奈落の底より深い瞳が、またしても『よけいなもの』となった私をぴたりと見据えた。いつなにが来てもいいよう気を張りつめさせながら、乾いた唇をひっそり食む。こいつと戦うつもりなど毛頭ない。私はただネビルを無事に逃がしたいだけ。そのための時間稼ぎができれば――。
「ハリー! ハリー――ハリーはどこだ?」
ハグリッドの叫びでヴォルデモートの意識が逸れる。その隙を見て、私はネビルを城の方まで全力で引っ張って走った。とにかくネビルをこいつの目から隠したい。最後の分霊箱を失ったばかりのヴォルデモートと、その原因を作ったネビルをあれ以上サシで対峙させたくなかった。
戦場は今や混沌としていた。
ヒッポグリフのバックビークやセストラルまでもが参戦し、立派な鉤爪で巨人の目を引っ掻いたり、死喰い人を空高くから放り投げたりなどしている。それから巨人たちの中でも一回り小柄な巨人――『ハガー』と叫んで乗り込んできたつぶらな瞳の巨人だ。恐らく彼が“グロウプ”なのだろう。ハグリッドの異父兄弟だという――は、腕をブンブン振り回して、他の巨人たちへむちゃくちゃに殴りかかっていた。
敵味方の区別なく、とにかく人々が城の方へと押し流れていく。人の波に無事紛れた私とネビルも、大広間へとなだれ込んでいた。
群衆の頭の向こうから、ヴォルデモートが四方八方へ甲高い声で指示をだしているのが聞こえてくる。が、それを飲み込む勢いで味方の激しい雄叫びが上がっていた。ハリーを失っても尚、誰の心も折れていない。それはきっと一重にネビルのみせた勇姿のお陰だろう。誇らしさで頬が紅潮する。私は興奮のまま彼の首へと抱き着いた。
「ネビル最高だった、銀河一かっこよかったよ! でもきっとアイツをかなり怒らせてる――なるべく目立たないように――」
「ベラトリックス! 親指はどうした? どこかに落としたか?」
愉しそうな揶揄いにそちらを見れば、シリウスがベラトリックスとやり合っていた。煽られたベラトリックスは山姥のような形相をしている。よりにもよってな組み合わせだと顔を顰めたくなったが、シリウスを囲む大勢の人影に目を見張った。
シリウスの左右にはルーピン先生とピーターが並んでいた。そしてその背後には、なんと地下の厨房に避難していたはずの屋敷しもべ妖精たちが控えていた。ドビーとクリーチャーが揃って先頭に立ち、喉が裂けんばかりに声を張り上げている。
「我らが英雄ハリー・ポッター! 偉大で優しい魔法使い、我らの友、ハリー・ポッター!」
「我がご主人様、しもべ妖精の擁護者、勇敢なるレギュラス様! そしてシリウス様の名の下に、闇の帝王と戦え!」
敵意を漲らせた妖精たちの手には、大ナイフや肉切り包丁が握られていた。しっかり研がれて鋭いそれらはとてつもなくよく切れそうだったし、実際死喰い人たちは踝や脛を滅多刺しにされていた。魔法とか関係ない分かりやすい物理攻撃はシンプルに怖かった。しばらく夢に見る気がする。ネビルと二人、無言のまま彼らから距離をとった。
なんであれ、ほとんど小隊くらいの数になった彼らは気勢を削がれた死喰い人たちを完全に圧倒していた。シリウスが出過ぎた時はルーピン先生が、ルーピン先生の目の回らない所はシリウスが、と息のあった見事な連携をとっているし、そんな二人に守られるような場所に佇むピーターは、こっそり逃げ出そうとする死喰い人へ俊敏に反応しては、的確な呪文を放って対処していた。
怖気付いた死喰い人の逃走を阻んでいたのは、ピーターだけではなかった。
「さあ、まだまだあるぞ!」
「そうさ、僕ら今日のために――お見舞いしてやる機会はもちろん今日以外でもずっと探してたけど――たんまり用意してたんだ!」
初代悪戯仕掛け人に負けないチームワークを見せていたのは、言わずもがなといったところか、我らが自慢の双子だった。爛々としたそっくりな笑顔を並べて、商売道具を大盤振る舞いして死喰い人をおおいに困らせて――これは当然、かなりかわいい表現だけれど――いた。敵の頭上にだけとんでもない落雷が降ったり、死喰い人たちだけが突如としてひどい体調不良に見舞われたりしている。死喰い人がドミノ倒しみたいにバタバタ倒れていく様は、思わず引き攣り笑いをしたくなるほど圧巻だった。
ダイナミック退学の時並にやりたい放題している彼らをサポートしているのは、レベッカとセドリックだ。 レベッカの顔が呆れきっているのは遠目からでもはっきり分かったが、それでも彼女が放つ呪文は双子への呪いをことごとく無力化していたし、箒に跨ったセドリックはお得意の箒さばきをもってフレジョの仕掛けた罠へ死喰い人を次々追い込んでいる。彼らは初代悪戯仕掛け人に負けず劣らずな相性の良さを存分に見せていた。
「はは、みんなすごいや!」
ハグリッドが投げ飛ばしたワルデン・マクネアを避けながら――マクネアは石壁にぶつかって気絶し、そのまま床に伸びた――、ネビルが杖を握り締める。
「さあ、僕らも力にならなきゃ――」
「うん、そうだけど、でもネビルは――」
「ドラコ!」
耳朶を打った名前は、私の口を噤ませるのに十分だった。少し目線を走らせれば、遠くでマルフォイ夫妻が戦場を髪を振り乱して駆け回っているのがすぐに見つかる。
「ドラコ――!」
「……エレナ?」
「ぁ……ああ、えっと、えー……そう、ネビルにはもっと後方から支援を――」
「誰か、誰かドラコを――だれか、私たちの息子を知りませんか?!」
「支援を……して……」
意識がそぞろとなって、どうしても言葉がもたついてしまう。もう彼らからは視線を外したのに、夫妻の必死な形相が脳裏に焼き付いて離れない。悲痛な声はやけに私の鼓膜をついていた。うまく続きを話せないでいる私へ、ネビルが「エレナ」とにこりとする。
「行ってきなよ。僕なら大丈夫だから」
「……ごめん、すぐ戻る!」
マルフォイ夫妻の背後に姿現しをした私は、彼らが私を認識するより早く二人の腕を掴み、今度は別の場所へと姿現しをした。向かった先は、辛うじてまだ崩壊していない薄暗い廊下だ。頭上の方から、戦闘の振動や喧騒がぼんやり伝わってくる。
そんな冷たい廊下に突如連れてこられた夫妻は、怖々と首を回し、そこでやっと私に気が付いた。私たちは生憎と初対面ではない。むしろちょっぴり因縁のある相手だ。当然二人は私の姿に仰天して、ぎょっと顔を蒼褪めさせた。
「ドラコ・マルフォイは――ヴォルデモートに殺されかけました。けど無事です、ちゃんと生きてます、大丈夫」
逡巡を挟んで口早に真実を告げる。二人は白い顔に薄らと安堵を滲ませた。
「今はスネイプ先生が彼の自室でご子息を看ているでしょうから、詳しいことは彼から聞いてください。それじゃ」
「待っ――」
これでもう必要な情報は全て渡したはずだ。そう判断してすぐさまその場から消える。そうして大広間へと舞い戻った途端、味方の歓声とヴォルデモートの怒りの叫びが同時に上がった。最後にして最強の副官が倒れ、ついにヴォルデモートが独りになったのだ。
ヴォルデモートが咆哮とともにニワトコの杖を振り上げる。耳を劈くほどの轟音と激しい光が炸裂して――けれど、なにも起きなかった。倒れている者も、傷付いている者もいない。全員が無傷で、そして事態を把握しきれず呆然としていた。
ヴォルデモートが再度呪いを繰り出す。分厚い大気がぐらりと波打ったことで、ようやくヴォルデモートは気が付くだろう。自身の呪いを防げるほどの完璧なシールドが、ヴォルデモートの全く預かり知らぬ内に張られていたことを。その盾の前ではまるで子どもの癡戯に過ぎないとばかりに、ヴォルデモートの呪いは霞のように消え失せていた。
憤怒をありったけ込めた自身の呪いが防がれるなど、夢にも思っていなかったのだろう。ヴォルデモートの蛇目が愕然として見開かれる。事実、ヴォルデモートの呪いを防げる者など、この世にはもういないはずだ。それがこの場にいる敵も味方も含めた完全なる総意に違いなかった。ほんのたった数秒前までは、誰もがそれを疑っていなかった。
「誰だ?」
水を打つ沈黙の中、ヴォルデモートが尋ねる。思わずといったように零れた蛇の囁きじみた声は、狼狽と、それから僅かな恐怖で掠れていた。
「誰だ!」
「私だよ、トム」
半透明に揺らぐ向こう側で、ヴォルデモートは嫌悪で顔を歪めた。それは群衆から一歩進み出た人物に対してかもしれないし、あるいは彼が口にした旧き名に対してかもしれない。尤も、私はその両方に対してだろうと思った。
「お前を知っているぞ」
「おお、私もお前をよく知っているとも」
私と揃いの金髪をした彼は、軽やかに微笑んだ。懐かしむような響きには、和やかな雑談を思わせる雰囲気さえあった。いつにも増して恐れ知らずな彼に、誰もが固唾を飲む。ヴォルデモートがせせら笑った。
「穢れた血の、エドガー・ワイアット」
皆が身動ぎ一つせず中央を見守る中、私は視線だけでハリーを探した。多分どっか、まあ真ん中辺りで待機してるんだろうけど……。
「死に損ないが今になってわざわざ出しゃばるとは」
「そう、その通り。私は死に損なった」
ヴォルデモートの嘲りにも、彼は怒ることなく神妙に頷いてみせる。彼は深い哀しみを湛えた青い瞳で、目の前の敵を静かに見据えた。
「――ゆえにその名は、もう名乗れぬ」
彼が杖を持ち上げる。金髪の頭上に大きな白い光の輪が描かれた。緩やかに下降した輪が、彼にかけられていた魔法を上から順に解いていく。
見慣れた金髪は長い銀へ。
瞳は透明なブルーへと。
無骨な手は皺を刻んだ手へと変わり――否、戻り――。
「さて」
その姿から発せられる落ち着き払った声に、ヴォルデモートの瞳孔は大きく開き、切れ長の眼いっぱいに広がった。今ヴォルデモートの胸には恐らく、驚愕を上回る感情が支配していることだろう。
「改めて自己紹介する必要もあるまいな?」
「――!」
「儂とお主の付き合いじゃろうて。のう、トム」
その感情はきっと、自身をかつての名で呼ぶ数少ない仇敵への紛れもない恐怖に違いない。私はそれを確信していた。
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