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胃がのたうち回ってるみたいに気持ち悪い。
耳の裏に心臓があるみたいに爆音が鳴り響いて頭が痛くなる。
喉が詰まって呼吸が苦しい。
しかしそれら全てを抑えながら立ち上がって杖を構えた。今ここにいるのは私だけ。誰も助けになんか来れないんだから、怖がってる場合じゃない。
対処、えっと呪文……いやとりあえず対話だ。対話をしよう。寒すぎてちゃんと呪文唱えられる気がしないし。べべべべつに日和ってませんいや嘘です初見吸魂鬼ハードル高すぎる怖い。
ルーピン先生が伝えていた台詞を思い出しながら、顔と思しきあたりを精一杯睨み付けて声を張り上げた。脳内で無様降伏はしちゃってるけど虚勢くらいは張らせてほしい。
「こ、こにシリウス・ブラックはいません。お引き取りください!」
吃ったが、それでもなんとか噛まずに言えた。室内を見渡すような動きをしていた吸魂鬼はピタリと動きを止める。そしてゆっくりとこちらへと向き直った。その反応は、まるで初めて私の存在に気付いたかのようだった。
あっこれもしかして余計なことをした? もしかして、黙ってたら特に何かされるとかなかった?
判断ミスしたかも、という自責から思わず喉奥が小さく引き攣った。
そんな私の怯えを察知したのか、纏わり付くような冷気の塊がゆっくりと近付いてくる。足が数歩下がるが、狭い室内に逃げ場などなくすぐに窓際に追い込まれた。
「ぁ、……」
とうとう動けなくなった私に黒い巨体が覆い被さってくる。なにかを吸い込むような音が間近で聞こえた。ガクガクと膝が震えていて、どうして立っていられるのか自分でも不思議だった。
どうしよう、どうしよう私、間違えた、──
──『やあ』
それは、聞いたことも無い声だった。
突然脳内に響いたその声は、決して私を勇気づけるようなものではなく、むしろ恐怖を助長させた。呼びかけられた途端、全身がぞっと粟立った。
しかしそれと同時に体の芯へ燃えるような熱が灯った。感じたこともない激しい怒りが蝕む恐怖を塗り替えていく。そのおかげか、全身の硬直が解け、杖の感触がやっと指先に戻ってきた。
悪寒を掻き立てる声は、つらつらとしゃべり続けた。
──『息子がいつもお世話になっているようで』
息子? この人は誰かのお父さん? でも同級生の父親なんて数える程しか会ったことがない。こんな声の人はいなかったはずだ。こんなに嘲りと侮蔑を織り交ぜたような声音で喋る人なんて。
──『きみはどうも、信用できなくてね』
吸魂鬼は稀にトラウマを思い出させるという。そのトラウマが本人さえ忘れているようなものであっても。現にハリーは赤ん坊のときの記憶を思い出していた。
どんなに忘れようと心の奥底に仕舞い蓋をしたって、彼らはその蓋を無理やりにでもこじ開けてくるということだ。他者の幸せを奪うことに余念がなさすぎる。もっと他のことに精を出してほしい。
ともかく、要するに。私が今聞かされているものは、
──『悪く思わないでくれよ…… ────!』
私が『忘れてしまっている記憶』ということなのだろうか。
だと、しても。
「──エクスペクトパトローナム!」
私に『これ』は逆効果のようだった。
突き付けた杖先から現れた銀色のフクロウが吸魂鬼を激しく突き回すようにして追い立てる。吸魂鬼は隙間風のような唸り声をあげると逃げるように大きくその身を翻した。室内から躍りでるようにして飛び出していく。それを私の守護霊が追いかけていった。
吸魂鬼がいなくなったからか、室内に灯りが戻る。眩しさに数度瞬きを繰り返してから、力なく座席に座り込んだ。未だチカチカと頼りなく点滅する電球をぼんやりと見上げる。
「……誰だったんだろ、あの声」
吸魂鬼でトラウマプレイバックしてしまうのはハリーのように『もうめちゃくちゃ怖かった、二度とあんな目にあいたくない!』って経験した人だけだと思っていた。原作でトラウマプレイバック描写がされてたのもハリーくらいだったし。だから記憶が蘇ること自体珍しいのかと。でもそれは認識違いだったようだ。
そもそも私の場合、なぜか恐怖よりも怒りの感情が上回っていた。あの声のおかげで正気に戻れたと言っても過言ではないから逆に助かったくらいで、なんだか変な気分だ。あと聞かせられた声に全く心当たりがなかったというのも大きいのだろう。うーん、小さい頃に最低卑劣な不審者にでも会ったのかな。最悪すぎたから防衛本能が働いて忘れてるとか?
……だからって怒り>>>恐怖になるって我ながら精神図太すぎる。いくら人生二回目だからってこれはどうなんだ。トラウマとは? なんなら夏休みにダンブルドアの前で墓穴掘っちゃったことのほうが断然トラウマになってる気さえするし。完全に選出ミスだよ、吸魂鬼さん。
声の主が誰か気にならない、と言ったら嘘になる。
でもこんなときに呼び覚まされる記憶ってことはろくな思い出じゃないってことだけは確かだ。ならそんなもの、わざわざ思い出そうとする必要はないだろう。
「……よし、休憩終わり!」
ネビルたちのところに行こう!
勢いよく立ち上がる。が、一瞬ふらついてしまい壁に手をついた。
トラウマは大丈夫だったけど対吸魂鬼は普段よりも集中するからか、体力がごっそり削られる、気がする。なんか色々根こそぎ持ってかれたような感覚だ。せっかく呪文が使えるのにHP負けするのは悔しいなぁ。今学期は筋トレメインで過ごそう。
杖を握り締めながら扉を開き、通路へと足を踏み出す。
吸魂鬼のせいなのか、汽車内はいやに静まり返っていた。歩きだしてすぐに、私の守護霊がパタパタと近付いてくる。クルクルと私の周りを数度まわってからすうっと宙にとけていった。守護霊、ちゃんとでてきてくれてよかったな。ここ二年の練習の成果をしっかり発揮できたことに頬が緩んだ。
「……驚いた、きみはもう守護霊を扱えるんだね」
「うわぁっ?!」
背後から唐突に投げられた声に情けなく飛び上がる。振り向くとそこには草臥れたコートを羽織る男性が立っていた。男性は少し疲れているがそれでも人の良さそうな笑みを浮かべている。ゆったりとした動作でこちらへ近付いた男性は小さなチョコレートを胸ポケットから取り出すとこちらへと差し出した。
「驚かせてすまないね。さあ、チョコレートだ。これを食べるといい……それにしても素晴らしいフクロウだったよ」
「あ、ありがとうございます……」
「吸魂鬼を執拗に突き回して追い立てていた」
どこか行ったなと思ったらそんなことしてたの?? 衝撃の事実に受け取ったチョコレートを落としかける。男性はニコニコと、なんなら楽しそうだが、こちらもしてはなんだかちょっと気まずい気分だ。やったのはあくまでも守護霊だし、吸魂鬼を追い払っただけだから別に悪いことをしたわけじゃないけど……けどなんか……!
「呪文は誰から教わったんだい?」
「叔父からです」
「叔父さん? 失礼だが名前を、……ああいや、それよりもこちらの自己紹介がまだだったね」
こちらの気まずさなど露知らず、といった様子で質問攻めされるかと思いきや、男性は会話の途中で申し訳なさそうに眉を下げた。男性はコホンと咳払いをし、背筋を少し正した。
「私はリーマス・ルーピン。闇に対する防衛術の新しい担当だ」
……存じておりましたとも。ルーピン先生、ずっと会いたかった。なんなら去年から来てほしかったくらい会いたかった。本当に会えて嬉しい。もうさっきからニヤけそうになるのをずっと我慢してたのだ。今なら多少笑顔になっても変に思われないよね? そう考えて思うままに頬をゆるめる。
「エレナ・ワイアットです。これからよろしくお願いしますね、ルーピン先生!」
「あ、ああ。えーっと、よろしく、エレナ。……ワイアット?」
「はい。叔父はエドガー・ワイアットです。闇祓いをしています」
「エドガー! なるほど、道理で守護霊の呪文がうまいわけだ」
あまりに満面の笑みすぎたのか、ルーピン先生は少したじろいでいた。しかし叔父さんの名前をだせば目を丸くさせてから表情が明るくなる。どうやら知り合いのようだ。先生の目尻が柔らかく下がる。……先生の心の扉がほんっっっの少しだけ開いた気がする。今ほど叔父さんの交友関係が広くてよかったと思ったことはない。ありがとう叔父さん。
通路を歩きながら、ルーピン先生は懐かしそうに目を細めた。
「私も昔、彼にこの呪文のコツを教えてもらったことがあってね……」
「へえ!……あの、分かりやすかったですか?」
「……教えてくれる理論は完璧だったよ」
「……私もそう思います」
そう、理論は完璧。ただアドバイスとかの教え方が『少し』大雑把なだけなのだ。教えてもらったときのことを思い出し、乾いた笑い声がこぼれた。
そんな私に苦笑いを浮かべた先生は、チョコレートをもう一つ手渡してからとあるコンパートメントの前で立ち止まると扉に手をかけた。室内はどんよりと沈んでいて通夜のような空気だった。それでも、並んだ見知った顔ぶれに内心でホッと息を吐く。
「あれ、エレナ? どうしてここに……」
「だってネビルもジニーも置いてっちゃうんだもの。心細くなって追いかけてきちゃった」
青白い顔のまま不思議そうに目を丸くしたロンにそう言って笑う。ネビルとジニーはきまり悪そうに視線を彷徨わせた。ネビルがおろおろと口を開いた。
「う……ご、ごめっ、むぐ?!」
「んん?!」
二人の口に、少し大きめなチョコレートの破片を押し込む。少し意地の悪い言い方をしてしまった自覚はあるので謝らないでほしい。そんなことよりチョコレートだ。チョコレートをお食べ!
「美味しいよね、このチョコ。私もさっき貰ったの」
「毒は入ってないからね。さあ、みんなも食べなさい」
言われるがままに、みんなはもそもそチョコレートを口にしていく。一同の顔にほんのりとした血色が戻るのを確認すると、先生は満足そうにひとつ頷いてからコンパートメントを再びでていった。それにならって私達も元のコンパートメントへ帰っていく。戻って一息ついてから、ネビルがこちらをそうっと伺うように語りかけてきた。
「ね、エレナは大丈夫だった?」
「ん?」
「吸魂鬼よ……会わなかったの?」
「ああ……会ったけど、大丈夫だった。何もなかったよ」
「そっか、それならよかった。……僕らのところはハリーが大変だったんだ」
身振り手振りで説明する二人の話を聞きながらちらりと窓を見遣る。
暗雲は未だに空を埋めつくしている。雨は止む気配をみせない。しかしそびえ立つ山々の向こう側には、懐かしいあの城が見えていた。
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