33.5
◆◆◆
突如として傷跡に激痛がはしった。これまで一度も感じたことのないような苦痛に耐えきれず、ハリーはその場に座り込む。手から杖が滑り落ち、がっくりと膝を折った。
どこか遠くのほうから聞こえるような甲高い声がした。
「よけいなやつは殺せ!」
しかしそれきり、なにも聞こえない。墓場は静かなままだった。甲高い声が焦れたように再び怒鳴りをあげ、深閑を壊す。
「殺せ!」
「アバダ──」
「シレンシオ!」
震えた声が途中でぴたりと消え去った。踞るハリーには、なにがどうなっているか分からない。いったい、何が起こってるのだろうか……。早く動かなければ──だが傷跡の痛みは一向に収まらない。あまりの痛さに吐き気さえしてきた。
「ワームテール!」
金切り声が夜闇を切り裂いた。次の瞬間、緑の閃光がハリーの閉じた瞼の裏で光る。なにか重いものがハリーの脇の地面に倒れる音がした。ふと痛みが薄らぐ。何が見えるかと思うと、目を開けることさえ恐ろしかったが、ハリーは痛む目を開けた。
「エレナ?」
エレナがハリーの足元に大の字に倒れていた。掠れた声で呼びかけるが返事はない。
エレナの顔を見つめる。彼女の蒼い瞳を穏やかに、しかしそれでも固く隠しこんだ目蓋を。薄く開かれた彼女の口元を。うそだ──そんなわけない──ついさっきまで、いつものようににっこり笑っていたのに。
信じられなかった。受け入れられなかった。信じられないという思いのほかは、感覚が麻痺していた。呆然とするハリーを、だれかが引き摺っていく……。
ハリーは再び体が地面に叩きつけられるのを感じた。顔が芝生に押し付けられ、草いきれが鼻腔を満たす。ハリーは地面に横たわったまま動かなかった。体中の力が抜けてしまったようで、頭がひどくクラクラする。
それでもハリーは手にした二つのものを離さなかった。滑らかな冷たい優勝杯の取っ手と、エレナの亡骸を。どちらか一つでも手離せば、世界のなにもかもがガラガラと崩れていってしまうような気がしていた。
二本の腕が乱暴にハリーを掴み、仰向けにした。
「ハリー! ハリー!」
見上げる空に星が瞬き、アルバス・ダンブルドアがしゃがみこんでハリーを覗き込んでいた。大勢の黒い影が二人の周りを取り囲み、だんだんと近付いてくる。
ハリーは迷路の入口に戻ってきていた。スタンドの上の方が見え、そこに蠢く人影が見え、そのさらに上には星が見えた。
片手から優勝杯が転がる。しかしハリーはエレナをますますしっかりと引き寄せた。空いた手でダンブルドアの手首をとらえる。
「あの人が戻ってきました……戻ったんです、ヴォルデモートが」
「何事かね? 何が起こったのかね?」
ダンブルドアの顔が時々ぼーっと霞んだ。コーネリウス・ファッジの顔が逆さまになって、ハリーの上に現れた。愕然として蒼白だった。
「なんたることだ──ワイアット! ダンブルドア、死んでいるぞ!」
周りに集まってきた人々の影が息を呑み、同じ言葉が繰り返された。「死んでいる!」「死んでいる!」「エレナ・ワイアットが死んでいる!」ハリーは重い頭を横に動かす。聞きたくなくて首を振ったつもりだった。
「ハリー、手を離しなさい」
ファッジがぐったりとしたエレナの体からハリーの手を引き剥がそうとした。いやだ、離したくない……。
「ハリー、もう助けることはできんのじゃ。終わったのじゃよ、離しなさい」
「いやだ、エレナは、エレナは……」
「もうよい、ハリー……さあ、離しなさい……」
「うそだ、そんな──エレナ!」
耳に飛び込んできた声に胃が痙攣して吐きそうになる。今一番聞くのが苦しい声──ネビルの声だった。ダンブルドアは、痩せた老人とは思えない力でハリーを抱き起こし立たせる。
「ダンブルドア、わたしがハリーを医務室に連れていこう」
「いや、むしろここに──」
「ワイアットの両親が走ってきているぞ……こちらに来る……話したほうがいいのじゃないのかね──」
「ハリー、ここにじっとしているのじゃ──」
いくつもの知ってる顔がこちらへ走ってきているのが見える。ハリーの目にはその光景が、ぐらぐらとぼやけ、奇妙に揺れて映っていた。
「大丈夫だ、ハリー。わしがついているぞ……行くのだ……医務室へ……」
「ダンブルドアがここを動くなって言った」
ハリーはガサガサに荒れた声で言った。力を振り絞って引き寄せるだれかを見上げる──マッド・アイ・ムーディだ。
「おまえは横になっていなければ……さあ、行くのだ……」
──『ムーディのことが嫌い。大嫌いなの。だからハリーもあんなやつ信用しないで』
戻ってきてからずっとぼやけていた視界が、急にピントが合わさったようにハッキリする。突然目の前の男がいやになるほどしっかり見えた。
「ハリー、落ち着け……今はここにいない方がいい……」
──『忘れないでね』
自分を半ば引きずるように、半ば抱えるようにしていた男を突き飛ばそうとしたのは咄嗟のことだった。
どうしてそんなことをしなくてはならないのか、明確な理由は分からない──けれど、彼女がそう言っていたから。しかし疲れ果てたハリーの腕はろくに動かず、ムーディの胸に力なく添えるだけだった。
「やめてくれ……はなして──」
突然バーンと大きな音がして、ハリーはムーディごと吹き飛んだ。だが背後から腕を強く引き寄せられ、なんとか倒れずに済む。 ハリーは自身をがっちりと掴まえた者の顔を見て口をぽかんと開いた。
「ムーディ?」
通路の奥へと吹き飛ばされたはずのムーディが、どういうわけかハリーの背後にいる。削げた鼻も灰色まだらの長い髪も先程と全く変わらない──ただ、こちらのムーディのほうがやや健康的に見えた──が、一つ決定的に違うのは、後ろに立つムーディの顔には「魔法の目」ではなく黒い眼帯がついていることだった。
ムーディそっくりの男は、黒い目を細めて前方を睨みつけている。困惑しきっているハリーを一瞥もしないどころか、自身の後ろへ放り投げるように突き放した。
勢いのままに、今度こそ地面に叩きつけられると思ったハリーだったが、またもその予想は裏切られる。ハリーを抱き留めたシリウスはくしゃりと笑った。しかめっ面のようなその笑みに、ハリーは一瞬泣いているのか笑っているのか区別がつかなかった。その背後にはマクゴナガル先生の姿も見えた。彼女は眉をきゅっとひそめて泣くのを堪えるような顔をしている。
「よく……よく帰ってきた、ハリー」
「シリウス! いったいなにが──?」
二度目のバーンという轟音が空気を揺らし、ハリーは慌てて音の方を振り返る。
そこでハリーはムーディ──魔法の目がついている──が邪悪にギラついて光る紐に拘束されているのを見た。通路に転がるムーディに、一人の男が近寄っていく。恰幅のいい金髪の男はムーディの胸ぐらを片手だけでギリギリ掴みあげると、乱暴に壁へと押し付けた。
男はムーディの眼前に杖を突き付け、「レベリオ」と杖で見えないなにかをぐりっと捻りとるように動かして呪文を唱える。するとムーディの顔が溶けるように変わりはじめた。傷痕は消え、肌がなめらかになり、削がれた鼻はまともになって小さく縮んでいく。「魔法の目」が男の顔から飛び出し、本物の目玉が現れた。長い鬣のような白髪混じりの髪は頭皮の中に引き込まれていき、薄茶色へと変わる。じたばたともがいていた義足もみるみるうちに普通の足へと変化した。
ハリーはその男がだれかを知っていた。ダンブルドアの「憂いの篩」で見たからだ。しかしあのとき見た顔と比べると、その男は今はずっと老けて見えた。
「お粗末な変身だ。ポリジュース薬はもう飽きたのか?」
金髪の男が嘲笑った。ハリーはその声を聞いてやっと、男を掴みあげているのがだれかに気付く。彼はエレナの叔父のエドガーだ。
「なぜ……」
「この十三年間、ずーっと見ていたからさ、お前の父親を……。お前憎しでな。こういうの、ニホンのことわざで坊主憎けりゃ袈裟まで憎いっていうんだと」
掴む手に力が込められたのか、クラウチが苦しそうに呻いた。エドガーはそれを歯牙にかけず話し続ける。
「お前の父親の様子が可笑しくなったのにはすぐに気付いた。バーサの失踪、ワールドカップ、そしてアラスター……あいつはお前が、世間が思っているよりもずっと有能な魔法使いだ。無意味にあんな馬鹿な騒動を起こすはずがない。お前がムーディの皮を被ったなにかだと思い至るのにそう時間はかからなかった」
「……っ、……」
「完璧な計画だったとでも思っていたのか? フン、間抜けめ。おめでたいやつだ……セブルスがお前に粗悪品を掴ませていることに気付かなかったか? シリウスがお前のいない時を見計らって本物のアラスターに薬や食事を渡していたことには? ポリジュース薬が効かなくなったときはどんな心地だったんだ?」
「エドガー、手を離すのじゃ」
クラウチの顔が赤紫を通り越し、真っ青になりはじめた。ダンブルドアは、ハリーとシリウス、そしてムーディらしき男の横を早足で通り抜けてエドガーの肩をつかむ。
「お前の正体なんて最初から分かっていた。……しかしその目的だけは分からなかった。なにを目的に地獄から這い上がってきたのか……それさえ分かれば、お前なぞすぐにでも──!」
「エドガー!」
ダンブルドアはとうとう杖を使って二人を引き離す。エドガーは大きく後方へと吹き飛び、ハリーたちの足元まで転がった。ムーディが呆れて唸る。ハリーが知っている唸り声とそっくりだった。
「おい、もう少し冷静になれんのか」
「冷静だとも」
「嘘をつけ。それ以上腑抜けているようなら儂もダンブルドアも容赦なくお前をここから追い出すからな」
ムーディに釘を刺され、エドガーは立ち上がりながらフン、と鼻を鳴らした。ムーディの脅しが効いているのかその場から動かない。
ダンブルドアが倒れるクラウチを覗き込むようにかがむ。どこからともなく現れたスネイプから小さな薬瓶を受け取ると、クラウチの口をこじ開け三滴流し込んだ。あれはなんだろう。ハリーの視線に気付いたシリウスが「ベリタセラム、真実薬だ」と答える。真実薬とはなにかを尋ねる前にダンブルドアがクラウチへ静かに聞いた。
「話してほしいのじゃ。どうやってここに来たのかを。どうやってアズカバンを逃れたのじゃ?」
「……母が助けてくれた──」
クラウチは身を震わせて、深々と息を吸い込む。そして抑揚のない、感情の消え失せた声で、淡々と話しはじめた。
余命いくばくもない母親が自分と成り代わり、そして自分はアズカバンから逃れたこと。その後は父親の管理のもと、「服従の呪文」をかけられ長い時間を過ごしていたこと。クィディッチ・ワールドカップに行き盗んだ杖で『闇の印』を打ち上げたこと──そして、そんな彼の元に、ヴォルデモートとワームテールが現れたこと。
話がヴォルデモートの件まで来ると、クラウチの表情は完全に変わっていた。虚ろながらも輝く瞳には醜悪な光が宿っていた。狂気の笑みを浮かべながら、ハリーを代表選手に仕立てあげた計画を詳らかに話していく。
「──やがて父は逃げ出した。父はダンブルドアにすべてを打ち明け、告白するつもりだった。ご主人様はなんとしてでも父を止めるようにおっしゃった。しかし父を見つけたのはポッターとワイアットだった。俺は間に合わなかった。だがまだチャンスはあった。しかし邪魔が入った」
「お父上を眠らせたのは君か?」
「そうだ。苦肉の策だった。あの状況で殺すには危険すぎた。俺は失神している父にとにかく深い眠りの呪いをかけた。解除方法は知らない」
本当のところをいえば、ハリーは、エレナがうっかり知らないうちに変な呪文をかけてしまったのではないかと疑っていた──のちに事情を話した末ロンも同じような結論をだしていた──。しかし本当に彼女は失神させただけだったのだ。「エレナは練習しきって完璧になった呪文しか使わないわ!」頭の中で怒ったハーマイオニーの声がする。彼女の言う通りだった。
「俺は夕食前に、優勝杯を迷路に運び込む仕事を買ってでた。そしてそれを移動キーに変えた。ポッターを確実に優勝杯に辿り着くよう、迷路の外からポッターの行く手の障害物を呪文で取り除いた。フラー・デラクールは『失神』させ、クラムにはワイアットをやっつけさせようと『服従の呪文』をかけた。だがポッターがワイアットを助けた」
「じゃあ、あの蜘蛛の群れもまさかお前が?」
ハッとしてハリーは聞いたが、クラウチは「ちがう」と否定した。
「ワイアットは滅茶苦茶な道を歩いていた。ずっと同じような場所をぐるぐると回るだけだった。このまま行けば優勝杯に辿り着くことは到底不可能だろうと思った。だから俺はあいつにはなにもしなかった。しかし数秒目を離した隙にワイアットは蜘蛛の群れに勝手に引っかかり、なぜか優勝杯の場所目掛け一目散に駆けていっていた」
エドガーが顔を覆った。手の間から「運がいいのか悪いのか……」という呟きがこぼれ落ちる。
「……しかしご主人様の計画はうまくいった。あのお方は権力の座に戻られた。これから闇の秩序は確実に隆盛し続けるだろう──そして俺は、ほかの魔法使いが夢見ることもかなわぬ栄誉を、あのお方から与えられるだろう」
聞かれたことを話し終えたクラウチはそれきりぷつりと黙り込んだ。競技場にいたはずの大勢の観客はいつの間にかいなくなっているようで、辺りは静まり返っていた。
「エレナの名前をゴブレットに入れたのはお前か?」
水を打ったような沈黙の中、エドガーが静かに口を開く。クラウチが緩慢な動作で首を横に振った。
「ちがう、俺ではない」
「じゃあだれが?」
「分からない」
しかしクラウチは「心当たりはある」と続ける。一辺倒な調子でつらつらと語り始めた。
「十月三十日の真夜中、俺がゴブレットに呪文をかけ、ポッターの名前を入れてすぐに、だれかが大広間へとやってきた。俺は焦っていた。ポリジュース薬の効き目が切れそうだったからだ。俺はゴブレットにかけた「錯乱の呪文」の解除もせず物陰に隠れ息を潜めた。するとほどなくしてそいつも「錯乱の呪文」を唱えた……女の声だった。そしてその女はゴブレットに紙を入れ、足早に去っていった」
「女だと? だれだ、そいつの名は?」
「スリザリンの六年生、レベッカ・スミルノフ」
「そんな!」
ハリーには全く聞き覚えのない名前だったが、マクゴナガル先生は悲痛そうに声をあげて口を覆う。スネイプでさえ珍しく苦い顔を浮かべていた。
ダンブルドアは悲壮の色を顔に浮かべ立ち上がる。ムーディのほうを見た。
「アラスター、ハリーを上に連れていく間、ここで見張りを頼んでもよいかの?」
「ああ。もう二度とこんな若造に遅れをとることはしない」
「セブルス、コーネリウス・ファッジを探して、この部屋に連れてきてくれ。ファッジはまちがいなく自分でクラウチを尋問したいところじゃろう。ファッジに、あと半時間もしたら、儂は医務室に行っておると伝えてくれ」
スネイプは無言でさっと競技場のほうへと向かった。
「そしてミネルバは医務室に行き──ワイアット夫妻のもとへ」
ダンブルドアは途中で声を詰め、微かに震えさせて指示をだした。マクゴナガル先生は目元を素早く拭いとって小さく頷く。しっかりした足取りだったが、その手は真っ白になるほどに固く握り締められていた。
「エドガー、君も──」
「私はまだ行かん。すべてを聞いてからだ」
「……よかろう。君がそれでいいのなら」
エドガーは頑なな態度で拒否をした。ダンブルドアは何か言いたげに口をもごっと動かしたが、首を振って口を噤んだ。
「ハリー、儂の部屋に来てほしい」
ダンブルドアのやさしい声色に、ハリーは頷く。震えるハリーの体をシリウスが心配そうに介助しながら暗い廊下に出る。ハリーは自分の後ろからエドガーも着いてきているのを感じた。
校長室に着くまで誰も喋らなかった。シリウスがハリーを机の前の椅子に座らせる。ハリーは眠りに落ちて何も考えず、何も感じなくなるまでひたすら座っていたい気持ちになった。
ダンブルドアはハリーと向き合って座るとじっとハリーを見つめる。ハリーはその目を避けた。ダンブルドアは僕に質問するつもりだ。僕に、すべてをもう一度思い出させようとしている。
「ハリー、迷路の移動キーに触れてから何が起こったのか、わしは知る必要があるのじゃ」
「ダンブルドア、明日の朝まで待てませんか? 眠らせてやりませんか。ハリーを休ませてやりませんか」
「それで救えるのなら──君を魔法の眠りにつかせ、今夜の出来事を考えるのを先延ばしにすることで君を救えるのなら、儂はそうするじゃろう。しかしそうではないのじゃ。一時的に痛みを麻痺させれば、あとになって感じる痛みは、もっとひどい」
ハリーはやさしくそう告げるダンブルドアを見つめ返して、言われた言葉をゆっくりと咀嚼した。今だってこんなに辛い気持ちなのに、これ以上になるというのか。それはきっと、もう僕には耐えられない……。「ハリー」エドガーに名前を呼ばれ、のろのろと顔を向けた。エレナそっくりの瞳が真摯にこちらを見据えている。
「どうか教えてくれないか、あの子の最期を──頼む」
不死鳥が一声、やわらかに震える声で鳴いた。ハリーは、熱い液体が一滴喉を通り、胃に入り、体が温まり、力が湧いてくるような気がした。
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