9.ファッキュー善意の第三者
私にとって八月七日は、一年の中で最も忌々しく、そして恐ろしい日だった。今年の八月七日は晴れのようだけれど、安心はできない。午後から雨の予報がでている。私は一週間前から怯えていた。
カーテンを開けては閉め――青空を見たくないので、家にいる時は朝晩関わらずカーテンは基本閉めっぱなしにしている――を、五分おきに繰り返し、そうやって半日近くを過ごしてから、やっと外に出ることを決意した。なにかしたいことがあったわけじゃないが、なにか別のことに意識を割かないと、頭がどうにかなってしまうと思った。
とはいえ、外に出てもやっぱりやりたいことなんてなかった。爆買いとかカラオケとかしてみたら少しは気が紛れるのかもしれないが、生憎バイトもしていないため、自由に使えるお金も多くない。かといって、この灼熱地獄の中を歩き回るのもいやだった。夏休みということで家に籠りっきりだったので忘れていたが、世の中はすっかり盛夏であった。
暑くて仕方がなかったので、行きたい場所があったわけではないが、私はたまたま通りかかったバスに乗った。逃げ込むように入った市営バスは想定通り涼しくて、汗ばんでいた体がたちまち冷えていく。私は一番後ろの端の座席に腰掛け、窓に軽く頭をつけて、瞼を降ろした。
∞
「――うおっと……あっぶね……」
唐突な揺れで、一瞬だけ意識が覚醒する。薄ら目を開けると、窓のある右側が真っ赤になっていた。ああ、もう夕暮れか、なんて思いながら前、というか下を見れば、倒れかけた体を、左から伸びてきた誰かの腕が支えている。人のいるおかげで、左側がとてもあたたかい。快適すぎるクーラーのおかげで体はもう冷えきっていて、隣の不思議なぬくもりは、今や寒いくらいの私にはあまりにも抗いがたい誘惑だった。
私は気が付くとまた目を閉じて、自然とぬくもりの方へ擦り寄っていた。誰、とか、迷惑になる、とか、そういうことはもう頭になくて、ただもう少しこうしていたいということ以外、なにも考えていなかった。揺れで目を覚ましかけはしていたが、まだ眠たかった。こうしていたかった。だってこんなに心地良い眠りは、とっても久しぶりだった。
「っ……」
上から息を呑んだ音がした。掴まれていた肩へ、また控えめに力が加わった感覚がした。それは起こそうとしているとかそういう力の入れ具合ではなくて、むしろ私を支えて、恐々自分の方に引き寄せるような、そんなものだ。私はありがたくその好意を受け入れ、素直に腕へと身を預けた。ぬくもりが僅かに震えた気がした。けれどなにも咎められない。拒まれない。
私はそれに安堵して、ぬくもりの方へとさらに体を預け、再び意識を心地よい微睡みへと溶かした。
∞
「あ、の……――=A……チャン。そ、そろそろ起きたほうが……」
「ん……」
控えめな呼び掛けが耳朶を打った。声の方へと持ち上げた瞳に、銀と青が映り込む。その煌めきは寝起きの視界には染みるほどに鮮烈すぎて、一瞬何が起きたのか分からなかった。
「……は」
「お、おは、よ……」
辿々しくそう言ってから、目の前の――私がさっきまで凭れかかっていた男は、「ひさしぶり」と照れ臭そうにはにかむ。
――何百年経っても忘れきることのできなかった青が、見たくもない青が、すぐ目の前で柔らかく晴れ渡っていた。
∞
最悪。最悪最悪最悪。最っ悪だ!
数百年、避け続けてきたのに! 大人になったコイツの顔なんて、もうほとんど忘れていたのに。あとちょっとで完璧に忘れられそうだったのに‼ しくじったしくじったしくじった。しくじった! ここにきて、また、あの男の顔を見てしまった!
ああもう、しかもよりもよって、こいつに凭れかかって眠りこけていただなんて! 有り得ない――気持ち悪い!
鬱憤に突き動かされるまま、足元に積もった雪を蹴り飛ばすみたく思いっきり靴を宙へと突き出す。そんな荒くれた足取りは、日暮れを過ぎた夜の町にはやけに響いていた。
「ついてこないで」
振り向かないまま追いかけてくる足音へ向けて言い放てば、「や、でも」と声が返ってくる。声は戸惑いに満ちているけれど、足音は止まらない。
「家、ここらへんじゃないだろ。せめて駅まで送るぜ、もうこんな時間だしさ」
「いらない。大体なんでそんなこと知ってるの」
「おばさんから聞いた。ていうかあの、駅そっちじゃ――」
「なにそれ、ストーカーみたい。気持ち悪い」
「ウギャッ」
背後で化け物の断末魔じみた悲鳴が聞こえたので、勝ったと思った。妙なところで繊細な男だし、これでもう追ってこないだろう。
それでも念の為、と私は歩調を緩めず歩き続け、見知らぬ公園の前まできてからやっと足を止めた。
……本当に、ここは一体どこなんだろう。マップアプリを開いて位置情報を確認し、顔を顰める。住んでる場所から目を疑うくらい遠い場所だった。駅も遠くて、来た方向と真反対。ああもう、せめてバス亭から離れなきゃよかった。それもこれも全部アイツのせいだ。
「さいあく……」
「まあ反対に戻るだけだし、そこまで悲観しなくてもいいだろ」
「うるさい、大体お前が――……は⁈ なんでいるの⁈」
「えっ⁈ ずっといましたけど……⁈」
足音がしなくなったから、安心してたのに!
驚きと動揺で、思わず声を荒らげてしまった。目の前の男は、困ったようにおろおろと眉を下げている。そうだった、こいつは、運動神経がやたら良くて、それで――。
「お前めっちゃ歩いてたけど、でもここがどこかは分かってないんだろ? 夜の知らない町を女の子が一人で歩き回るのは、危ねェよ」
そうだ、こんな男だった――忘れていたけど。
急に目の前が回るくらいの疲れがドッと襲ってきた。私がフラフラと公園のベンチに座り込むと、当然のように男も連れ添ってきた。
「大丈夫か? 具合悪い? なんか買ってくる?」
「うるさい……」
背中を摩ろうか迷っているのか、肩あたりで彷徨っていた手を力なく払い除ける。実際に当たったわけじゃなかったけれど、男は素直に手を引っ込めた。
膝を支えにして両肘をつき、頭を抱えて背中を丸める。夜中で曇っているとはいえ、真夏だ。私たちを取り巻く空気は、じめじめと蒸していた。時折吹く生暖かい風が、産毛を逆立たせるように肌を舐めていく。吐き気のような不快感がじわじわと胸を燻っていた。
「……ねえ」
鬱屈とした気持ちで私が声を発すると、男は「お、おう!」と意気込んで声を弾ませた。のっそりと上体を起こして、力の入らない目で男を見る。よほど沈黙が気まずかったのか、男は話しかけられたことに大層喜んでいる様子だった。
「アンタ、帰ったら? いつまでここにいるの」
「えっ、いやだって……お前は?」
「タクシーつかまえて帰る」
「……そんなに俺と一緒なの、いやなのかよ」
「いや」
嫌悪を示してそっぽを向く。暫く経って、隣から「そうかよ」と低く絞り出された。
「――でもタクシーが来るまで俺もここで待つぜ」
「あ?」
思わず振り返れば、男は、傷付いたように口を引き結びながらも、私を真っ直ぐ見続けていた。苦しそうな顔つきだけれど、暗がり中でも強く光る青色は揺らがない。その青に心臓が嫌な音を立て、背筋には這うような寒気を感じた。防衛反応が働いて顔を逸らしたくなる。だがそんなことをしたら負けたみたいではないかという幼稚な反抗心があったので、私は精一杯の不機嫌顔で睨み返す。
「だってやっぱ危ねェって。夜だし、暗いし……」
コイツをこの場で背負い投げでもしたら、余計なお世話だったなと、納得して退散してくれるだろうか。
「だから、せめてタクシー来るまでは、その……いやがられても待つからな、俺」
「……あっそ」
私は男を品定めするように眺めてちょっと考えてみたけれど、無理だなと諦めた。今世どころか、軽く数百年はもう体をちゃんと動かしていない。隣に座っている男は、私よりもう一回り近く大きな体躯をしていて、鍛えてない私の細腕なんかじゃとても持ち上げられそうになかった。
「……あの、さ。今日、部活で。あ、俺ほんとは帰宅部なんだけど、でもたまに助っ人で呼ばれたりしてさ。それで今日もそんな感じで、それがあって……で、えーっと、こっちの方の高校で練習試合? みたいなのが――アッ、あの、バスケ! バスケの練習試合な! 俺、今日はバスケ部の助っ人してて、それで、えー、あの――……とにかくあって」
男は聞いてもいないのにぽつりぽつりと喋りだした。思いついた端から口にしているだけの、聞くに堪えないグダグダな喋りだ。こんなんが近い将来小説家になるなんて、信じられない。
「そんで俺が最後のブザービート決めて、引き分けだったけどギリギリでウチが勝ってさ――あっ! やっべ、遅くなるってアニキに連絡すんの忘れてた……!」
「……アニキ」
「あ、うん! ほら覚えて、てか聞いたことねェ? 退治人レッドバレット!」
懐かしい響きに、つい反応してしまった。私に会話の意志があると勘違いした男の顔が、分かりやすく明るくなり、思わず舌打ちをしたくなる。先程から失態続きだ。寝起きだから? ちがう、多分、今日≠ェ今日≠ネせいだ。
「俺も高校卒業したら、退治人になるって決めてんだ。みんなを守れる、アニキみたいに強くて紳士で高潔で超絶かっけェェ退治人に――」
「無理」
男がポカンと口を開くのを横目に、私はせせら笑いを浮かべた。大人しく無視し続ければよかったのに、どうしても意地悪をしてやりたくなっってしまった。だってコイツの顔が、あんまりにも純粋だったから。だから胸焼けがするほど、イライラしてしまったのだ。
「あんたには無理、絶対無理。あんたみたいなやつが優秀な退治人になんて、なれるわけないでしょ」
棘を隠さず嫌味を放てば、先程からぎこちなくも交流しようとしていたコイツも、さすがに黙り込んでしまった。
「……なあ、俺、お前になにかしたのかな」
沈黙を挟んで、重く湿った空気の中へ重たい声が紛れ込む。しただろう、と冷めた自分がバカにするように頭の中で言っている。
けれど同時に、してないよと言っている自分の声も聞こえていた。どちらもたしかに本心だった。本心だと自覚できているせいでなおさら頭の中がごちゃごちゃで、なんと答えればいいのか分からなくて、私は声をだせなかった。
「ずっと普通に遊んでたはずなのに、ある日いきなり避けられ始めてさ……おれ、お前になにか……」
弱々しい声が溶けるように途絶えたので、私はその調子でもう二度と喋ろうとしないでくれと内心で祈った。
これ以上私と対話しようとなんてしないで。歩み寄ろうとなんてしないで。そんなことしたって、無意味だ。
だからもう、さっさと見捨ててくれ、こんな女のことなんて――お願いだから。
祈りにも近い感情が込み上げてくる。喉奥が細かく痙攣し始めていて、呼吸がしづらくなっていることに気が付いた。
「――した、んだよな。きっと」
「……は」
信じられない言葉がやたらと確信をもって紡がれた。弾かれたように顔を上げる。男は苦しげに伏せられた睫毛を震わせていた。
「ガキの時の俺、バカだったし――や、それは今もあんま変わんねえけど……――、知らないうちにお前のこと傷付けたり悲しませたりしたんだろ?……おれ、無神経だからな。それに鈍感だし。色々気付かなかったり忘れたりしてんだろうな」
男は自虐的に口元を歪めてから、躊躇いがちに瞳を差し向けてきた。私は何を言うつもりかと――いや、うそだ。この男がこれからなにを言おうとしているかは、なんとなく分かってしまっていた。
聞いてはいけない――言わせては、いけない。私は正体不明の焦燥に急き立てられて、口を開こうとした。
「――ごめん」
間に合わなかったという思いで息が止まる。限界を保っていたなにかが、砕けた彫刻のように瓦解していくような感覚だった。
「ごめん。バカで、どうしようもなくて、悲しい思いをさせちまって、本当にごめ――」
「なに、を」
凝り固まった頬の筋肉を動かして無理やりだした声は、下がりかけていた銀の頭の動きを、思惑通り縫い止めた。こちらを窺った男の顔が、途端に怯えを孕ませて固まる。
「なにを、謝ってるの」
「え……」
先に嫌味を言ったときよりずっと凍てついた音をした声が、夜の公園を廻っていく。
「なにも知らないくせに。なにもわかってないくせに」
なにかを警告するような甲高い耳鳴りが、脳を貫いている。喉が、張り付いたように乾いている。走ってもいないのに、どんどん息が上がっていて、酸素を上手く取り込めない。くるしい、くるしい、くるしい。
「ねえ、なあ、オイ。どうして、なんに対して謝ってるの、お前」
「そ、れは……」
「……おまえはなにも、なにも……なのに、なのにッ……!」
「っ……ご、ごめ、」
プツ、と。
ちぎれそうなくらいに張り詰めていた細い糸が切れる。そんなささやかな音がした。小さな音だったのに、沸騰し始めた脳内では、反響するくらいに大きく鳴って――。
「――なんにも悪くないお前が謝るなよッ‼」
もうダメだった。感情を抑えることができなかった。
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