10.水底からの慟哭


 私は怒鳴りながら、衝動のまま彼を突き飛ばした。私があんまり脈絡なく動いたからか、なにも構えていなかった彼の体は、呆気なく後方へと傾く。
「なに、っ、う……!」
 私は驚愕している彼の頭へ手を伸ばし、後頭部の髪の毛をひっ掴んだ。後ろ髪を思い切り奥へと引けば、引かれる動きに合わせてガクンと顎が上がる。喉仏がさらけ出され、苦しげな呻き声が零れた。古いベンチがガタガタ揺れる。それによって体勢が崩れたタイミングで、私はもう一度彼を突き飛ばした。そうして真下になった痛そうな彼の顔を、ベンチ横に設置されていた街灯が冷たく照らす。
「謝っとけばいいとか思ってんの? 私のこと馬鹿にしてんの?」
「ちがっ、おれ、そんなつもり――!」
 ショックを受けて狼狽する彼へ、馬乗りになる。高く振り上げた拳を、彼の胸元へ叩きつけた。
「っ、傷付けようと思ったことはなかったって――お前が嫌いでなにかしようとしたことなんてなかったんだって、俺はただ、それだけ――!」
「うるさい!」
「っ、」
「うるさいうるさいうるさい――黙れッ‼」
 気が付くと、握りしめた拳は彼の顔へと向かっていた。黙れと喚きながら、何度も拳を振り下ろす。彼は痛そうにしていたけれど、私の非力な腕ではろくな傷もつけられず、頬は赤くなるだけだ。なんなら私の手の方が先に音を上げそうで、それがまた、涙が出そうになるほど憎らしくて悔しかった。
「ウ、グ、ぁ……ぅああア゙ア゙ア゙ッ!」
 やり場のない感情をどうにかしたくて、両手で頭を激しく掻き毟る。散々慣れない動きをさせられた手首がツキンと鋭く痛み、それさえも自分の愚かさを責めているように感じてしまい、また腹が立った。自分の喉から絞り出される獣のような咆哮が、聞き苦しくてたまらない。
「っ、う、――ァ、あんたがッ!」
 犬のように荒く切れた呼吸の合間に、なんとか人間の言葉を捻りだす。
「あんたがなんにも悪くないって、そのくらい――そのくらい、ちゃんと知ってる!」
 心臓が爆発しているみたいにバクバクと激しく鳴り続けていて、身体中が火照っている。視界にまで赤い血が巡っていて、眼球が溶けそうなくらい熱くなっていた。だのに内側で流れる血はひどく冷たい気がして、そのちぐはぐさが心底不快で不愉快で、吐きそうだった。
「馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの? ふざけてんじゃねえよなにがごめんだよなに謝ってんだよなんなんだよお前のそういうところが嫌いなんだよ憎いんだよ憎くて憎くてずっと、ずっとッ――お前は、本当に‼ ずるいんだよお前だけ‼ お前だけ、私はもうこんなになってんのに‼ お前だけ、お前だけがずっとそうやって穢れなくて綺麗でまっさらで――それでなにも悪くなくて‼ そう、悪くない‼ お前がなにも悪くないって、悪かったことなんて一度もないってことくらい! ずっと! ッずっとずっと、ずっと‼ 始めからずうっっっと知ってた! そのくらい私にだってちゃんと分かって、た、のに、ッのにさァ゙ア゙⁈ ねえ! ねえねえねえねえ! ね゙え゙‼ なんで? なんでなんでなんでなんで? なんで⁈ 私、弁えてたのに! ちゃんと応援したじゃんイヤだったけど我慢したじゃん! 苦しくても悲しくてもそういうの全部押し殺して頑張ったよ。頑張ってたよ私なりに精一杯! 出来る限りの努力はしてきたつもりだよ! だのに、なんで、どうしてこんな目に合わなくちゃいけないの? どうして私なの? 私が何したっていうの? お前は悪くなくて、じゃあ残ってるのは私だけで、じゃあ私の何が悪いの? もう何千回も考えたよだって終われないから考える時間だけはあったから! でも分かんない、わかんないよもうなんにも‼ 大丈夫大丈夫って、なにが大丈夫なんだよなんにも大丈夫じゃねェよ大丈夫だったときなんて一度だってなかったよずっともう――もう――ねえいい加減苦しいよもう許してよ私このまま一生走り続けなきゃいけないの? そんなの耐えられないだったらもう殺してよ死にたいよもうずっと死にたい終わりたいお願いしますどうか死なせてください殺してください助けてください許してくださいいつになったら報われるのしあわせになれるの、ウソ違うの、しあわせになんてなれなくてもいい別にそこまで望まない望んでないだからお願いだから早く普通≠ノならせてよ私を元に戻してよ誰でもいいから早くなんとかしてよ私生まれてきたことを後悔なんかしたくなかった生まれてこなきゃよかったなんて思いたくなかったこんなふうになんてなりたくなかったなりたくなかったのに、のに、なんで⁈ 私の生まれてきた意味って何なの⁈ 私が生きてる意味なんてあるの? ってアハハハハあるわけないだろあったら今こんなになってねぇってんだよなァァアアッハッハッハッ今更何を分かりきったことを言ってるんだろうね私は。本当に愚か者のろくでなしの大間抜け。そんなんだからこう≠ネってんだよなほんっと頭悪い。死んでしまえ消えてしまえくたばってしまえ。生きてる価値ない。知ってる、それ私が一番よく知ってる。だからずっと死にたいって死なせてってお願いしてるのに、あーあどうして私って、ほんと、いつになったら、いつまで、もう、どうしたら――ッあ゙あもう疲れたなァほんとにさァ‼」
 腕を上げるのも大声をだすのも辛かった。無茶な声のあげ方をしたせいで喉が痛い、血の味がする。それでも手も口も止まってくれなかったから、感情のままに吐露した。
 彼は、すっかり放心していた。色素の薄い瞳が細やかに揺れる。意味が分からないだろう。怖いだろう。いきなり殴られて、罵られて、目の前で錯乱されて。謝っただけなのに、なにも悪いことはしていないのに。
「……かわいそう」
「え……」
 無意識のうちに、こんな薄っぺらい言葉が零れていた。私が微笑むと、彼の顔に困惑が波のように広がっていく。私は殴るために上げていた拳を解き、彼の胸へ音もなくそっと降ろした。被せた手の下では、トクトクと少し早い心拍が、命を刻んでいた。
「ね、ね、かわいそう。ほんと、とってもかわいそうだよね、ヒデくんって。だって、ヒデくんはなんにも悪くないのに。だって本当は、最初から全部私が、私だけがいけないのに、ね? うふ、あははっ! でも私がなにもできないから。助けられないから。守れないから。上手くできないから。役に立たないから。みんなみんな私が悪い。ヒデくんじゃない。でも、でも、こんなのどうしようもないでしょ? だってどうすればいいの? なにをしたらよかったの? どこで間違えたの? いつから? なんにもわかんないよ。わからない――ただくるしい、こわい、ずっと終われない。……私、わたしは、ただ――……」
 胸から溢れた熱いなにかが我先にとせぐり上がってきたせいで、息苦しさで胸が詰まる。声が出ない。滔々と紡いだ言葉たちは理性を通していなかったので、途切れた言葉の続きは、自分でも分からなかった。
「――=c…?」
 ヒデくんが恐る恐る私の名を呼んだ。音の柔らかさに、また目の前が赤く染まりそうになる。自分でもそれがどういう感情かは判然としないけれど、とにかく激情で震える奥歯を痛いくらいに噛み締めた。こうでもしなければ、私はまた理性をなくして叫んでいた。
 いきなり乱暴された挙句、こんな意味が分からないことを捲し立てられたというのに、それでも彼はこんな柔らかな声で私の名前を口にする。気遣うように緩んだ青を、私なんかへ注ぐ。
 わたしはそんなきみが、お前が、あなたが、あんたが、ヒデくんが――ロナルドのことが、ずっと。
「――ねえ、死んでよ」
 いつの間にか彼のYシャツを握り締めていた手を、幽鬼のように持ち上げる。蛇が巻き付くような動きで、彼の首へと手を絡めた。喉仏を上から抑えるように親指を添えれば、ヒデくんは緊迫感を滲ませて目を見開いた。強ばった彼の顔へ、顔を近付ける。結いていなかった私の髪が、彼の顔周りへ檻のように垂れた。
「死んでよ、ヒデくん」
 鼻先が触れ合う位置で呟く。私も彼も、もうほとんど呼吸をしていなかった。
 あなたが八月八日以外に死ねば、この不毛なループも終わるかもしれない。なにかが変わるかもしれない。もしかしたら私も、救われるかもしれない。
「おねがいだから」
 そんな醜い身勝手な欲望に囚われたまま、私は懇願を囁いた。
「……おまえ、は」
 ヒデくんは、声を出しづらそうにしながらも、そう絞り出した。力なんてまだ込めてないから苦しくはないだろうけど、その眉は僅かにひそめられていた。
「そんなにおれが、きらいなのか」
 凛と透き通ったその声は、少しの震えもなかった。代わりとばかりに、ヒデくんの首に回した私の指が僅かに跳ねた。
「ころしたいほど、おれがきらいなのか」
 暗がりの中、すぐ目の前では蒼が爛々と輝いている。
「――俺が死んだら、しあわせになれるのか、お前は」
 とっくの昔に諦めたはずの蒼が、手に届かなかったはずの蒼が、こんなにも近くで輝いていた。曇りも穢れもひとつもない、空の奥を宿したような深い蒼。
 色んな記憶が、過去が、感情が、狭い身の内から爆発でもしたんじゃないかという勢いで浮かんできた。喉奥が引き攣るように痙攣して、また呼吸が上がる。耳の横で鳴っているみたいに轟く心臓が、頭痛を覚えるくらいの早鐘を打っていた。
 そんなわけない。そんなわけないでしょう。本当に本気できらえたなら――ころせるなら、しんでほしかったら、そんなことはもうとっくに――貴方が死んで、それでしあわせになれるかなんて、そんなの――嗚呼、嗚呼!
「……ハ、ハ」
 いつの間にか陥っていた思考にはたと気が付いて、乾いた笑いを落とす。彼を殺そうとしたのは、生まれて初めてだった。何十と人生を繰り返したが、そんなことをしようとは――したいとは、これまで一度も思ったことがなかった。なんなら、今でさえ思えていないらしい。
 だってその証拠とばかりに、彼の首に回る指はただ張り付いているだけで、そこから微動だにしていなかった。そんなどうしようもない事実に、私はたった今気が付いていた。
「私、なにしてんだろ……ハハ」
 あまりの惨めさに笑いが込み上げてくる。私は身を起こしながら、口を開いた。
「ほんと、わたし……あは、ハ――……ごめん、なさい」
 高らかに自嘲する予定だったのに、意図せぬ謝罪が続いた。予想だにしない単語に自分でも驚いているうちに、寝そべったままの彼の頬へ、ポタリと、水滴が落ちてきた。目元に落ちたそれが、ゆるやかに耳の方へと流れていく。
「ごめんなさい」
 頬を流れていく雫を見ていたら、また言葉が零れていた。蚊の鳴くような謝罪に合わせて、感情がまたさざ波だっていく。
 ごめんなさい。そう、私、あなたに謝らなくちゃいけないことがあるの。たくさん、数えきれないほどあるの。あのね、まず、まずは――――助けられなくて、ごめんなさい。守れなくてごめんなさい。何十回も失敗してごめんなさい。うまくできなくてごめんなさい。それから、何十回も見捨ててごめんなさい。ひどいことしてごめんなさい。弱くてごめんなさい。情けなくてごめんなさい。無力でごめんなさい。卑怯者でごめんなさい。救えないくせに救われようとしてごめんなさい。あなたのいない世界を望んでごめんなさい。私なんかが貴方を好きになってごめんなさい。
「……ごめんね、ヒデくん」
 なにもかも、私でなければよかったのだ。
 私じゃなければ、きっと、こんなひどいことにはなっていなかった。
 ひとつふたつと、また続けて雫が落ちてくる。それは彼の顔だけでなく、俯く私の項も濡らしていた。涙ではない。雨だ――雨が、降ってきていた。
 ハッと顔を天へと向ける。この雨は、きっと夜明けまで止まないだろう。何となく分かる――分かってしまった。夜に隈なく敷き詰められた雨雲は、どこにあるかすら分からない。黒い空はいつにも増して底が知れなくて、絶望の空というに相応しい表情をしていた。
「――あのさ」
 不意にヒデくんの声がしたと思ったら、バサリと頭になにかを被せられ、急に視界が暗くなる。埃っぽいような汗臭いような匂いが鼻をついた。布……服、だろうか。降っていた雨がポツポツと頭上を叩く規則的な音がする。
「たしかに俺は、アニキみたいなかっけェ退治人にはなれないのかもしれない」
 くぐもった声がする。
「でも」
 閉じられていた視界が開き、即席傘の向こうから覗き込まれる。銀のくせ毛が濡れて垂れ、しっとりし始めていた。街灯の光を吸い込んだ細い線のような雨粒が、彼の体に当たって跳ねる。それが不思議と、やけに鮮明に見えた。
「雨くらいからだったら、今の俺でも、お前のこと守ってやれる」
 そう言ったロナルドは、歯を見せて笑った。自分は変わらず濡れたまま、でもそんなことは少しも気にせず、眦を落として、私だけを一心に見つめたまま、笑っていた。
「お前のことだけは、なにがあっても絶対守れる退治人にはなるって、約束するよ」
「……やく、そく」
「ああ」
 手が伸びてくる。触れる直前で躊躇うように止まったが、私が動かないでいれば、彼は意を決したように私の頬へ触れた。ザラついた皮膚をした親指が、ぎこちなく頬を滑るが、雨や湿度のせいでその感触は、じっとり湿っていた。
「……な。だから、大丈夫」
「……なにが」
「もう俺がいる。なにがあっても、俺がお前の傍にいる。俺がお前を守る。だから怖いことなんてもうねェって……もう泣かなくても大丈夫だってことだよ」
「だい、じょうぶ」
「……うん」
 私が掠れた声で呆然と繰り返すと、ロナルドは眦を下げた。
「だいじょうぶ――だいじょうぶだぜ」
 ロナルドは、被せている布ごと頭を抱え込むようにして、私を抱き締めた。降ってくるやさしい声は、いつかにどこかできいたことがあったような気がした。でもそれがいつのどこかなのかとかは、くたびれた脳細胞ではもう思い出せなくて、とても分からなくて、私はそれが、途方もなく悲しかった。
「わ、私も」
 止まらない嗚咽が苦しくて、うまく喋れない。みっともない私の頭を、布越しに撫でられる。大丈夫だと言われているように感じた。それに背中を押された気持ちになりながら、大きく口を開け、水っぽい雨の空気で肺を満たした。
「わたしも、約束する」
 私は片腕をロナルドの背中へ回して、しがみついた。空いた手を使って、頭に被さっている布をロナルドの頭へも引っ掛ける。触れた髪はもうかなり濡れてしまっていて、今更かもしれないと、もう遅いかもしれないと思ったけれど、それでもこれ以上は濡れないようにと、必死に布をロナルドの方へと引っ張った。
「ロナルドを絶対まもるって、これからは、なにがあっても必ずたすけるって約束する――約束する、から」
 涙でまともに喋れなかったけど、なんとか伝える。今までごめんなさい、ずっと逃げてて、今更都合がいいかもしれない。けど、これからは――もう二度と。
「がんばる、絶対――ぜったい、がんばるから、わたし」
「……うん、ありがとな」
 雨音にまぎれて、彼がそう笑った声がした。

     ∞

「あの、もしよければ連絡先の交換とか……」
「しない」
「グアッ」
 結局私たちは、駅まで学ランを傘替わりにして歩いた。ロナルドとは反対のホームになるので、改札口でお別れだ。そんな別れ際の切り出しを、バッサリお断りする。
「なんだよいい流れだったじゃん完全に仲直りの展開だったじゃんそんなにべもなく断られるとかある?」
 その場に頽れたロナルドがなにやらブツブツ言っている。私は学ランについた水滴をあらかた払ってから、四つん這いになっているロナルドの頭へと被せた。
「ぅわ暗っ、いきなりなに――」
「次ね」
「へっ?」
 傍らにしゃがみ込みながら、学ランの下から這い出そうとモゾモゾするロナルドの頭をぎゅっと抑えた。間違っても顔を見られないようにと、力を込める。
「――次会ったら、その時ね」
 次こそ、必ず。


 八月七日、晴れのち雨。
 翌日の八日未明にかけてまで降り続いた雨は、二人の人間を世界から消した。いつものように、それはもう、慣れた手つきで。

     X

「――こんなとこで寝ちゃだめなんだぜ!」
「……おはよう、ヒデくん」
 何百年ぶりかの挨拶に、少年は、「おはよう」と嬉しそうに笑った。
 
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