13.壊れた天秤
ああ、この人生が終わらなきゃいいのに。
恋人として二人で過ごす時間を重ね、ロナルドの笑顔を見ながら、私は何度そう思ったことだろう。
しかし私がどれだけそう願っても、八月八日は着々と近付いてきていて――八月七日は、二週間も前から、一日強い雨との予報がでていた。
「大丈夫か?」
ロナルドにそう尋ねられる機会が増えた。いや、ロナルドだけじゃない。ギルドのメンバーをはじめとした知り合いたちからも、頻繁に似たような言葉をかけられた。近頃の私は、どうも落ち込んで見えるらしい。
「大丈夫だよ」
もちろんだいじょうぶ。大丈夫に決まっている。なにも問題ない。むしろ大丈夫じゃない理由がない。だから私は、聞かれるたびに笑顔でそう帰した。嘘偽りのない本心であったため、そう告げることになんの苦痛も感じなかった。
落ち込んで見えてしまう理由には察しがついている。言うまでもなく、ロナルドの死ぬ日が近付いてきているからだ。こんなことを言うのもどうかとは思うが、ロナルドの死には、慣れてしまっている。……とはいえ、全く何も感じないというわけではないのだ。特に今回は血迷って恋人になってしまったのだから、なおのことだ
だがこの人生が終わることは、恋人という関係になってしまった時点で確定していた。ロナルドの救済は、今世ではもはや諦める必要があるとすら言ってもいい。
だって、おかしいだろう。
私なんかを恋人にしたロナルドが八月八日を乗り越えるなんて。そんな未来はあり得ない――あってはならないのだ。だってロナルドには、本当は、何度生まれ変わっても変わらない好きな人がいるのだから。
結局、この人生が終わらなければいい≠ニいう祈りは、終わることをすでに受け入れている前提での祈りであった。神様は私にやさしくないので、こんな願いが叶うなんて、最初から夢にも思っていない。強がりでも何でもなく、素直な気持ちで期待などしていなかった。というかむしろ、終わらないほうが困る。だってこの世界は、ロナルドのチョロさに付け込んでお付き合いを始めるなどしちゃったトンデモ世界線になっているから。諦めるからこそ、終わると分かっているからこそ及べた奇行だ。
私は、終わらないで≠ネんて嘯くくせして、本当は、終わらない未来なんて少しも望んでいなかった。
終わると分かっているからこそ、終わりを惜しむことができていた。花火を前に胸を打たれるときの感情と同じだ。なんて傲慢で、自分勝手なことだろうか。
「……大丈夫って、本当かよ」
「ほんとに決まってるじゃん」
ただ私はずるくて卑怯で弱い人間なので。恋人のロナルドとはもうすぐお別れなんだなと思うと、やっぱりちょっぴり寂しいなとか甘ったれたことを思ってしまうのだ。
この先もう二度とこんなことにはならないだろうと分かっているからこそ、淋しさもひとしおだった。
X
私たちを攫う雨は、基本的に八月七日になってから降り出すことが多い。降り始める時間帯に法則性はない。ただ八月八日の夜明けごろに止む、というのだけは決まっていた。けれど今回は、八月六日の時点から新横浜全域に強い雨が降りだしていた。冷たい雫に頭頂部を打たれ、驚いて肩を竦める。反射的に白濁とした空を見上げれば、ポツポツと続けざまに額を濡らされた。一応予報にはあったので、折り畳みは用意している。急いで開けば、すぐ強い雨が傘をひっきりなしに叩く音が上がった。
なんか、怒ってるみたい。
目の前を行く通行人が慌てて走ったり、傘を開いたりするのをぼんやり見ながら、そんなことを思う。そう思ってしまうほど、雨は降りはじめにもかかわらず重たかった。一粒ひとつぶに意思があるかのようだ。なんとなく責められてるみたいな感じが――。
「あ、ヒヨシくん」
ギルドに向かっていた道中だったが、道路の向こう側に知り合いの姿を見かけて立ち止まる。喫茶店の軒下で服を軽くはたいたり、空を覗き込んだりしているヒヨシくんは、『突然の雨だが傘がなくて困っている人』なんだなと、遠目からでも簡単に分かった。傘を買ってきて渡してあげようかなと、コンビニを探して辺りを見回しかける。が、ヒヨシくんに近寄っていく人影があったので、私はおやと思い、一旦観察することにした。なにせ、その女性の様子が、ただ進行方向がヒヨシくんないし喫茶店のほうというふうではなかった。あの二人は知り合いなのでは、という第六感が働いたのだ。
予想通り、二人は知り合いだったらしい。傘を閉じて軒下に入るなり、女性は身振り手振りで何事かを話した。ヒヨシくんもそれに答えるように楽しげに笑っている。たまたま会ったのではなく、なんなら待ち合わせしていたのかもしれない。そのくらい、傍目から見て二人はお似合いで、仲睦まじげな雰囲気だった。
へえ、ふうん、ほーん。あのヒヨシくんが。デート。退治人時代のヒヨシくんが女性とデートしているところは腐るほど見かけてきたが、隊長になった彼がデートしているところを見るのははじめてじゃないか?……うん、初めてな気がする。吸対所属になってからは女遊びもやめたのか浮いた話をきいたこともなかったし、つまりあの女性は本気のお相手ということかな。もしかしたら彼女と身を固める気なのかもしれない。わあ、おめでとう! まあこの世界線も明後日にはなくなるんですけど。……あれ。本当に本当に今更なんだけど、私ってロナルドだけじゃなくてこの世界に生きとし生ける生物全ての命を台無しにしてない? あ、だめだ、また心が死にそう。今はもうとりあえず、これ以上考えないことにした。
それにしても。
横顔しか見えないが、どことなく見覚えあのある女性だ。どこで見たんだっけ。……今回の人生ではない気がする。もっと遠くの、色褪せた記憶のような。
道の真ん中でウンウン唸る私はさぞ邪魔で不審者だったに違いないが、突如として降り出した雨のおかげで、人通りもかなり少なくなっていた。
雨音に思考を委ね、しばし掠れに掠れたモノクロの記憶を探る。
「――は?」
そうして私は思い出して、持っていた傘を落としていた。
あの女性――一つの小さな傘の下、ヒヨシくんと肩を寄せ合って歩いていく、優しそうなあの女性。
そんな彼女こそがロナルドの想い人であり、そして本来ならばロナルドと付き合うはずだった吸血鬼の女性だった――ということを。
冷たく痛い雨に打たれながら、思い出していた。
∞
八月七日は、ロナルドとともにいつもの吸血鬼と戦って、彼の死を見届ける予定であった。彼の散る姿を目に焼き付けて、そうして次の人生での戒めにしよう、と。そう考えていた。
だが昨日、傘を捨て置いたまま、結局ギルドへも行かず、土砂降りの中を逃げるようにして帰宅した私は、濡れて重たくなった服も着替えず、ただただソファの上で丸くなっていた。そうして一晩を明かした結果、見事に風邪をひいていた。当然です、バカ。
最初は無理をしてでも戦いに参加するつもりだったが、自室からキッチンへ水を取りに行くのもままならないほどだったので、外に出るのは諦めた。ロナルドを見送る前に私が死にそうだ。あと下手したら私を庇ってロナルドが死ぬシナリオになりそう。それだけは絶対にいやだった。
マスターにだけ念のための連絡をいれた私は、薬を飲んでから半日ほど寝ていた。インターフォンが鳴った音に意識を呼び覚まされる。横になったまま窓のほうを見ると、重たい墨のような空が広がっていた。
「え、なんで?」
「マスターに聞いて」
まだなんとなく気怠い体を引き摺って玄関へ赴けば、ロナルドが立っていた。ギョッとした思いを隠せず、ついあけすけに零すと、ロナルドは困ったように「一応、連絡はいれたんだけど」と続けた。
「ごめん、ずっと寝てて……」
「そっか。体調、どうだ?」
「もう平気」
薬の効果がでているのだろう。筋肉が張っているような感覚もすっかり抜けているし、寝る前に比べれば熱もかなり引いている。けれど私が笑っても、ロナルドは顔を難しく顰めた。言葉もなしに、両手が迫ってくる。大きな手は私の両頬をすっぽりと包んで、少しだけ引き寄せた。コツンと額が合わさり、温度を探るようにすり、と動いた。
「っ……!」
「……全然まだ熱ィじゃん」
ほんの目と鼻の先でロナルドが不貞腐れた面持ちでそう呟く。吐息に頬をくすぐられて、私は咄嗟に口内で歯をぎゅっと噛み合わせた。いや、それは、だって。脳内に言い訳が溢れかえる。どれも言葉にはできないまま硬直していると、ロナルドは何事もなかったかのように離れていった。
「とりあえず部屋入ろうぜ。しんどいんだろ」
「いや、ほんとそこまでじゃ……えっ、ロナルドも?」
「悪いかよ」
ロナルドがムッと口を尖らせたので、「だって、伝染すかもしれないし」と慌てる。
「俺は強いから平気」
「なに、いや……じゃあ散らかってるけど、それでもいいなら」
強いなら死なないでくれない? とか言ってはいけないことを言いそうになった。寝起きということもあり、まだ頭がうまく回らない。追い返す口実も見つからなかったので、私は観念して彼を部屋へ招くことにした。
「キッチン借りるな。マスターから卵粥のレシピメモもらったんだぜ」
ロナルドは私をリビングのソファに座らせ、置いてあったクッションを抱かせると、キッチンへと消えていった。すごい自信満々だったけど、途轍もなく不安だ。ロナルドって料理できる人だっけ。全然できないひとだった気がする。壊されるかもしれない。明日にはリセットされるから構わないが……。けれどいつまで経っても、覚悟していたような爆破音は、全く聞こえなかった。流れてくるのは控えめに調理器具を扱う音のみで、ゆったりと時間が過ぎていく。単調で穏やかな音に、微睡みも戻ってきた。しかし心地よい眠気に意識を半分預けていれば、キッチンから卵粥の匂いがふんわりと漂ってきて、睡魔を掻き消される。食欲を刺激する温かい香りに、空腹で胃が鳴いた。そういえば昨日からほとんど食べてない。薬を飲むためにチョコレートを少し口にした程度だった。
「できたぜ!」
「えっすごい、美味しそう」
ほどなくして、匂いから思い描けた通りの品が運ばれてきた。熱視線に見守られながら、粥をれんげで掬う。口に入れるなり、お米の甘みが労わるように疲弊した体へ沁みていった。卵は余熱で少し蒸したのか、散らばる黄色もふわふわだ。シンプルな味付けな分、卵のコクがしっかりと際立っていた。
マスターのメモを見せてもらうと、ほんっとうに細かいレシピだった。適量とか曖昧な表現は一切使われておらず、工程の一つ一つにワンポイントアドバイス的な一言が記載されていた。卵粥のレシピとは思えないほどびっしり丁寧な書き込みがある。すごい、さすマス。……なのにどうしてコユいや何も言うまい。
「ゼリーとか色々買ってきたやつ冷蔵庫入れといたから、なんかほしかったら言って。とってくる」
「ありがとう、自分でとります」
そんな甲斐甲斐しくしてもらうほどじゃない、本当に。
遠慮とかではなくそんな本心からの言葉だったのだが、ロナルドは眉根に皺を寄せた。
「……体調不良、昨日からだったんだろ? ギルドにも来るって言ってたのに来なかったって聞いたし」
「いや、それは……」
「あのさ。俺、頼りないかもしれねェけど、でももうちょっと、その……頼ったりしてほしいっていうか」
思いがけない言葉に目を瞬かせる。ロナルドは恥ずかしそうに瞳を上へと向けながら、頭を掻いた。
「ほら俺、一応お前の、こ、コ……ッコイビト、なわけですし?」
――こいびと。
ロナルドがぎこちなく紡いだ四文字に、冷水をかけられたような心地になった。れんげを落とさなかったのは、我ながら偉かったと思う。
「そうだね、ありがと」
ちがうの、それ。本当はちがくて。私じゃないの。あのね、ほんとうはね。
思わず口走りかけた言葉をつぶすように、必要以上に卵粥を口内へ押し込む。
数秒前まで美味しかったはずの卵粥は、もう少しも味がしなかった。
∞
だめなスイッチが入っている。
思考がどんどん重たくなって、底なし沼に足を自ら沈めていっているような、そんな感覚。ああ、いけない。よくないな。自分でも、そう思っていた。
「なんだよ、割ったりしねェよ」
キッチンの入り口に寄りかかって、洗い物をするロナルドを眺める。監視していると思ったのか、ロナルドは臍を曲げたような顔を作った。それでもすぐ嬉しそうに、くしゃりと笑った。それに合わせて、私も無理やり口角を持ち上げる。笑う気分じゃ、全然なかったけれど。
水音と、ささやかな喋り声だけだった空間に、無機質なコール音が割り込んでくる。ロナルドのズボンのポケットからだ。
「悪い、とってくんね?」
「あ、うん」
震える携帯の画面には『マスター』の文字が浮かんでいた。
「誰から?」
手を動かしながら、ロナルドがこちらを見ずに聞いてくる。シンクをちらりと確認すれば、手にしている茶碗がもう最後の一つだった。
「マスター。……でる?」
「頼む」
「……あっ」
コール音と震えが止んだと一緒に、水音に負けないよう少しだけ声を張る。きょとんとこちらを見たロナルドへ、私は「ごめん」と申し訳なさそうな顔を作った。
「間違えて拒否っちゃった」
「えっマジか。じゃあ――」
すぐに二度目のコールが鳴ったので、じゃあの続きは分からなかった。どうせロナルドのことだから、『かけなおして』とでも言うつもりだったのだろう。要するに、今の私の行動には、何の意味もなかった。ロナルドが手早く水気を拭った手を差し出してくる。少し逡巡してから、私はその手に携帯を乗せた。
「もしもし? すみません、さっきでれなくて――え?」
『〜〜〜』
目の前にいるはずのロナルドの声が、今はやけに遠く聞こえる。きっと耳が拒絶しているのだ。私は目を瞑って、二人の会話が終わるのをじっと待った。ベールの向こうから聞こえていたような声が、段々途絶えて、やがて完全に聞こえなくなる――。
「――大丈夫か?」
「……え?」
「寝てたから、いま。起きてんのしんどい? ベッドまで運ぼうか?」
「……ううん、平気。ねえ、それよりマスターなんて?」
尋ねた瞬間、心配そうだったロナルドの顔付きが変わり、厳しく引き締まる。彼は一瞬で退治人の顔になった。
「やばい吸血鬼がでたから、応援にきてほしいって」
ああ、そう。そうだよね。今日はだって、八月七日だもんね。聞かなくても分かっていたのに、そうじゃなければいいと一縷の望みを抱いてしまった――いまさら、いまになって。
「……あ、お前は休んでろよ!」
「やだ」
「やだ⁈」
にこりともしないで短く言うと、ロナルドはひくりと頬を引き攣らせた。
「いや、やだってお前な……そんな辛そうにしといてなに言って――」
憤っていたロナルドの声が、中途半端に途絶える。私が抱き着いたからだ。緊張で固くなった胸もとへ、頬を摺り寄せる。ロナルドの全身に、さらに力が入った。
「デュワッッッっとどっ、な、はっ、ぇ、どっなっエッ――えっ⁈」
「私いかないよ。家にいる、ちゃんと休んでる。だから、だから――ねえ。ロナルドもいかないで」
「は……え? な……どうした?」
動揺が消え、ただの困惑で染まりきった声。私は本気だというのが伝わるように、腰へ回した手の力を強めた。
だめなスイッチが入っていて、考えがどんどん後ろ向きになっている。自分でも分かっていた。ああ、いけない、よくないな、と。そう頭が痛くなるくらい、思っていた。
「私もどこにもいかないから、ロナルドも――ヒデくんも、どこにもいかないでよ」
だけどコレは、自覚があるからといって止められるほど生易しい衝動ではなかった。
諦めなくちゃいけない。
なかったことになるからこそ――するからこそ、恋人ごっこなんて勝手な真似ができたのだ。それを受け入れていたはずだった。
だけど昨日の光景を見てしまってからは、もうずっと、心がぐちゃぐちゃだった。
それでも絡まった心をなんとか無視して次回へ行こうとしていた。でも結局、それさえもうまくできなかった。彼と接しているうちに脆弱な心の天秤はあっさりと揺れ、欲望へと傾いてしまった。
だって私、あの女性もロナルドのことが好きなんだとずっと思っていた。
好きで好きでたまらなくて、何回繰り返しても結ばれるのが運命なんだって、それが正しい流れなんだって、そう思っていたのだ。当然だろう、なにせ何十回も恋人になったって報告を受けてきたのだ。
だからロナルドも相手も、きっとお互いじゃなきゃダメなんだって、私はそう信じて疑っていなかった――のに。
昨日見た彼女はヒヨシくんの隣で幸せそうで、ロナルドのことなんてなんにも気にしてないみたいな顔をしていた。
ショック、失望、怒り、絶望、悲しみ、期待。胸に浮かんだ感情は、一つには絞れない。黒く渦巻いた感情を自分でもうまく処理できなくて、どうしても手が震えてしまった。だから傘なんて、もうとても持っていられなかったのだ。
「おねがい、いかないで、ヒデくん」
あの女性はなにも悪くない。ただ私がいたから。ロナルドに恋人がいたから、そのせいで付き合うことができなかっただけだ。やっぱり私が元凶だ。災いの源だ。
それを分かっていても、一度崩れた心はだめだった。ヒデくんの死を見届けるのも、ひとりでいるのも、終わってしまうと分かっていて見送るのも。もう全部、今の私にはできない。無理だ。いやだ。
「……悪い」
長いこと黙ってから、彼はやっとそう押し出した。「ごめんな」と繰り返しながら、熱い手が、背中を撫で擦るようにしてぎこちなく動く。
「行かなきゃ」
苦しくなるくらいきつく一度抱き竦めてから、ロナルドは身を離した。慈しむような穏やかな相貌で、私の頭を撫でる。
「だって俺は、退治人だからさ」
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