15.飴玉を詰めた瓶を叩き割る
ロナルドの誕生日から数日経っても、私は過去に戻れないでいた。世界は間違がっていることにも気付かず、淡々と空を廻し続ける。待てど暮らせど私は一向にループできない。
一日、また一日と過ぎていくごとに、焼け付くような焦燥感が少しずつ心に蓄積されていった。
変化し続ける見知らぬ世界が怖くなり、私は家から出れなくなった。携帯も常に電源落として、誰とも連絡をとらなくなった。
すぐにロナルドが気付いて家まで訪れた。けれどいくら言葉をかけられても、私は一つも返事をしなかったし、扉も絶対開けなかった。それでもロナルドは、毎日ここへと足を運んだ。
ロナルドが来ない時間帯には、知り合いが代わる代わるで訪れた。「体調が優れませんか」とマスターに言われた時は、申し訳なさが募った。つい返事をしてしまいそうになったくらいだ。結局、しなかったけれど。
∞
彼≠ェやって来たのは、ロナルドの誕生日から一週間と少し過ぎた頃だった。
モニターに映った顔に、心臓を激しく揺さぶられる。足をもつれさせながら、私は玄関まで走った。体当たりする勢いで、ドアを思い切り開け放つ。
「ぅお、なん――」
「会いたかった」
声を上げるのは久しぶりだったので、みっともなくガラガラしていた。彼が驚いたように目を見開く。非番なのか、隊服ではない。肩向こうの鮮烈な薄暮が、彼の美しい銀髪を照らしている。
私は狼狽している彼の手を掴んで玄関の中へと引っ張り込んで、開けた時と同じくらい性急に扉を閉めた。
「会いたかった、ヒヨシくん」
「……こりゃ随分とまた、情熱的じゃな?」
ヒヨシくんは見るからに当惑しつつも、そう言って冗談っぽく笑う。その、如何にも慣れている振る舞いに、ここ最近四六時中考えていたことを告げる勇気が湧いてきた。
そう、ずっと、八月八日を迎えてしまってから、ずっと考えていたこと。
「……お前、最近ちゃんと寝れて――」
「ヒヨシくんってさ、女遊び激しかったよね」
「ダアッッッ、あの、いや、まあその通りじゃから正直ぐうの音もでんが――い、一応念の為言っておくけどもどの子とも双方納得した上での合意の関係というかイヤ弟の恋人相手に俺は何言っとるんじゃキッツ忘れてくださいとにかくある意味全員と誠実にお付き合いしとったしそれに今は全然そんな、ほんと落ち着いとるし……!」
「ねえ、じゃあ、私はどうかな」
「……はっ?」
世界が戻らないなら、ヒヨシくんが、あの女性と別れればいい。
話もまともに取り合わないで、私は自分の要求だけを押し付けた。ヒヨシくんの顔がぎしりと固まる。ひどい侮辱をしていることは、分かっていた。
「私も女だし、やりたいことはやれると思う。ヒヨシくんの好みに全部合わせる。性格もスタイルも可能な限り努力するし、顔だってヒヨシくんが望むなら整形だってする。だから、だから――」
だから、あの女の人と別れて。
あの人は、ロナルドの運命だから。
「私を恋人にしてよ、ヒヨシくん」
そのかわり、私に出来ることなら、なんだってするから。
本当の願いを隠して、懇願を口にする。最初はたじろいでいたヒヨシくんだったが、そんな動揺も波のように引いていき、怖いくらいに真剣な顔つきとなった。
「ヒデオと付き合っとるんじゃろ」
「別れる」
「ずっと好きじゃったろ。嫌いになったんか」
「もうすきじゃない――きらい」
ヒヨシくんはぐしゃりと真剣な顔を崩して、肩を落とす。
「あのなァ」
彼が溜息混じりに私を覗き込む。子どもの駄々を窘めている時の顔をしていた。
「そんな泣きそうになるくらいなら、始めから言うんじゃにゃあ」
ピンと額を軽く弾いてから、ヒヨシくんは私の頭を撫でた。
「何をバカなこと考えとるかは分からんがな。お前さんがヒデオを大好きなことくらい、俺はちゃーんと知っとるぞ」
戯れるように、元から乱れていた髪をもっとぐしゃぐしゃにされる。されながら、私は唇を噛み締めて息を押し殺した。
だって、でも、好きでいても、意味ないんだよ。
好きなだけでは、もう、どうにもならないのだ。
∞
「お前さんたちは一度ちゃんと話し合った方が良さそうじゃな」
ちゃんと食べてるか、寝ているかと、一通り健康状態の確認をされたあと、とりあえず今日は帰るというヒヨシくんを見送る。とはいえ、見送るもなにも元より玄関から一歩も動いていないが。
「話すこと、別にないよ」
「そういうとこじゃコラ」
家の外に出てそう言えば、ぐいと頬を抓られた。たいして痛くもなかったけれど、緩んだ口がひとりでに動き「いたいよ」と笑う。久しぶりに、少しだけ気が抜けた。
「……アニキ?」
心臓が喉まで飛び跳ねる。抜けた気は一瞬で戻ってきた。パッと手を離したヒヨシくんの顔が瞬く間に真っ青になる。そんな彼の背後から伸びる長い影の主は、悄然と揺れる瞳で私たちを見つめていた。
「お、おー! いやなに、様子を見てきてやってくれとゴウセツの奴から頼まれたでな! ほんっの少し話して、そんでちょうど今帰るところでな⁈」
「あ……話した――話せたんだ、アニキは。……俺、一週間以上顔どころか声も聞いてなかったんだけど……さすがアニキだな……」
「オビャゴア、ッグッ、あの――タイミング! が! たまったま、あのあれ、ホラごみ捨て? とか、の――な⁈ 合ったんじゃよな⁈」
助けを求めるように視線を送られる。ロナルドからも、縋るような眼差しが注がれていた。よく似た兄弟からの視線を受けながら、私は少し考えて口を開いた。
「ちがう。ヒヨシくんだったから、話したくて開けた。ヒヨシくんにずっと会いたかったから」
「は」
「ノワァアアァッッ、なにっなに、なにを、ッお、おまえーッ⁈」
ヒヨシくんにどう別れてもらうかは一旦置いておいて、とりあえず、私たちの問題から先に片付けた方がいいだろう。
「――は、ハハ」
ヒヨシくんに肩をガクガク揺さぶられながら、次の言葉を探していれば、ロナルドが急に笑い声を上げた。大きな声ではなかったけれど、やけに響いて聞こえた。ロナルドを見る。道の先で茜を背に己の影の中で立ち尽くすロナルドは、深く俯いていた。視野を絞るように目を細めても、確認できるのは大きく歪んだ口元だけだった。
「そっか」
ぽつんとした呟き。ロナルドは「そうだよな」と自身へ言い聞かせるようにもう一度言って、徐に顔を持ち上げる。どこか怪我でもしたかのように、苦しげに目を眇めて、不格好な笑みを浮かべていた。
「お前は、アニキのことがずっと好きだったもんな」
誰が誰を好きだって? ずっと?
私の心を代弁するように、隣から「ハ⁈」と大声が響く。
「昔からずっとアニキを見てたこと、俺、知ってたよ」
「おいお前まで何言っとる⁈ 落ち着け、というかだからやっぱお前ら、ちょっと話し合い――」
「そうなの」
そうなわけない。
私が好きなのは、見ているのは、昔からずっと、変わらずただ一人だけ、だけど。
「私は、ヒヨシくんのことが好き」
だからこそ、そんな唯一無二のあなたには、絶対に幸せになってもらいたいのだ。
未練を断ち切るつもりで、世界に宣告するつもりで、声を張り上げる。身を切る思いで吐き出した真っ赤な嘘は、数メートル先の愛しい彼に、しっかり届いた。
「――うん、知ってたよ」
なにも知らないロナルドは、そう言って、また笑った。
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