16.さざ波と昔日の恋
いつの間にか、私は夜の海にいた。
横殴りの強い風が吹き、ハッとする。ヤスリがけされているみたく乱暴に頬を擦られ、潮風を吸い込むと、喉奥がいやにヒリついた。そこら中に立ち込める磯臭さが鼻腔を満たしている。持ち物はカバンひとつ無く、カーディガンのポケットに携帯が入っているだけだった。真夜中に近い時間帯で、充電も、もう残りわずかだ。
どうして私、こんなところにいるんだろう。だってついさっきに、ロナルドの背中を見送ったはずだった。ヒヨシくんにこっぴどく叱りつけられていたはずだった。
でもここには誰もいない。辺りに人気はなく、見渡す限りの真っ暗闇で、それは目が闇に慣れてもたいして変わらなかった。海も空ものっぺりと昏くて、二つを隔てる境界線も、ろくに見えない。
……ゆめかもしれない。
だって、いきなり海にいるなんて、おかしい。
うん。やっぱり、ゆめなのかも。
ヒヨシくんと話して、ロナルドに嘘をついたのが夢か。
それとも、こうして海を前に立っている今こそが夢なのか。
どちらが夢でどちらが本当かは、分からない。判断がつかない。
だがこの際、別にどちらでもよかった。
黒い海が、誘うようにテラリとした粘着質に光っている。月も星も肉眼ではどこにも確認できないのに、どこから光を拾ってきたのか、とにかく艶めかしく光っていた――不思議と、そういうふうに、見えた。海原が畝って騒ぐ音に、足が引き寄せられる。
私は引っ掛けていたサンダルを脱いで、適当に砂浜へ放った。迷いなく黒へと足先を浸ける。昼間の熱を借り受けたままの海は、重たい黒をしている割には、奇妙な温かさをしていた。爬虫類の口の中は、こんな感じなのだろうか。ぼんやり思う。
なまじ海水が暖かい分、ベタつく海風が絶えず吹いている地上の肌寒さが顕著になる。かといって、海の中が心地いいかと言われたら別にそうでもなくて、ただただ生暖かいだけだった。相も変わらず、どことなく気色悪い口内のような温度をしている。
どうでもいいことばかりをふわふわ考えながら、また一歩進む。私が歩く度、足底を受け止める砂が、生き物のように蠢いた。
本格的に暗順応しだした視界で、奥を見据える。よくよく見れば、濃紺の空にはぽつぽつと星がちらついていた。
沖の方は風がさらに強いのか、波同士がぶつかって、白の縁どりが次から次へと生まれていた。ここから見ると、形のない泡の塊というより、連なった細い鎖のようだった。掴めそうな気がして、なんとなく触れてみたくて、私の歩幅は次第と広くなっていた。
奥へ進むにつれて、予想通り風の勢いが増し、波の嵩も高くなっていく。揺れる度に濡れた箇所が風に晒され、真夏だというのに寒さを感じた。濡れた箇所から冷えが這い上がってきているようで、身震いをする。不気味さを覚えていたはずの海水の生暖かさすら、なんだか急に恋しくなってくる。私はただこれ以上寒くなりたくないという一心で、ますます歩を大きくした。
波の流れや踏み崩れていく砂が、浮いた踵をふわりと押す。海水は重たかったけれど、足取りだけは軽くなって、まるでバレエでもしているかのように、体が浮いて跳ねた。おお、まさしく浮き足立つ。すごく下らないことだけれど、漠然とおかしくなった。クスクス笑いながら、跳ねていく。この言葉を思い付いた人も、こうだったのかな。私みたいにこうして、海の中を歩いていたのだろうか。踊るように、奥へ、奥へと。
そんなことに現を抜かしていたせいで、盛り上がった砂に足を取られてしまった。体が前に傾いていくが、手をつこうにも、目の前は海面でそれも叶わない。……まあ、いっか。あったかそうだし。
バシャンと一際大きな音を立てて、水が跳ねる。
前へ倒れていた体は、引き止められていた。後ろから引かれたらしい腕が痛い。見れば、黒い革の指先が、二の腕に食い込んでいる。手を追って、なんとはなしに視線が動き、顎が持ち上がった。
「――ロナ、ルド」
「っ、なに、してんだよ、お前!」
必死の、泣きそうな形相のロナルド。いつもの退治衣装だが、その頭に帽子はなく、風に靡く銀髪は、いつもより鈍い色になっていた。名前を口にすれば、掴まれている箇所へさらに力が込められる。
「ロナルドじゃねぇよ……なにしてんだよ、ほんと……」
けれど、蒼褪めた顔から紡がれる声は、波に攫われてしまいそうなほど小さかった。
「お前ンち行こうとしたら、ちょうど出てくるところで……でもなんも持ってないし、なんか様子が変だなって思ったんだよ。そしたら能面みたいな顔で電車乗っていくから、ついていったらこんなことしてて……」
ロナルドは海面を睨みつけながら喋った。話すにつれて、眉間へと深く皺が刻まれていく。感情を制御するように彼がふーっと息を吐きだす。それに合わせて、握り潰さんばかりだった腕への圧も引いていった。掴まれたままではあったけれど。
「なんでこんなことしたんだよ」
なんで。なんでだっけ。答えようにも、答えられない。私は素直に「わかんない」と笑った。
「わかんないって……」
「ロナルドは、なんでうちに?」
「……お前に、伝え忘れたことがあったから」
物言いたげにしながらも、ロナルドはそう言った。忘れたこと。じゃあ、つまり、ヒヨシくんを混じえた出来事は現実で、それで海にいる今も、夢じゃなくて。なんだ、どちらも現実だったのか。拍子抜けしたような気持ちになった。
なら私は、本当にどうしてこんなところに来たのだろうか。海に来る前の記憶が、やけに不明瞭ではっきりしない。暴れたような気がした。部屋をめちゃくちゃにしたような気もした。喉が痛くなるくらい、長いこと泣いたような気もした。
「……あ」
記憶が揺れ、唐突に思い出した。私がどうして、なんの為にここに来たのかを。
「終わると、思ったの」
「え?」
「こうしたら――私が終われば、全部終わると思ったから」
こんなことわざわざ言う必要はなかったのに、口が滑ってしまった。案の定ロナルドの瞳は見開かれ、すぐに歪む。ロナルドには、私の言った終わる≠ェどういう意味を持つか、正しくは理解できなかったことだろう。それでも優しい彼は、自分が傷つけられたかのような顔をして「なんで」と絞り出した。
「なんでそんなこと言うんだよ」
「ロナルド、好きな人いるでしょ?」
「……は?」
「私に相談しようとしてたじゃん」
「……、……アッ」
私が死ねば、またループが始まるかもしれない。なにかが変わるかもしれない。そうしたら今度こそ、間違えないで進ませることができるかもしれない。かもしれないじゃない、できる、やるのだ、やらなくちゃ。
「好きなんでしょ? 私に相談しようとしてたくらいだもんね。大丈夫、分かってるよ、大丈夫。私、応援する。だから、そのためには、こうするのが一番早いの」
次こそ、ちゃんとする。もう二度とふざけない。大丈夫だ。こんな世界にしたりは、もう絶対にしない。
「あの、それは――いやでも、だからってこんなことするのは違うだろ!」
「違わない。こうするしかないんだよ、もう。……だって、間違えちゃってるんだから」
口にしてからまた後悔する。これだって言う必要ないのに。だってどうせ、通じない。案の定、「間違え?」と、意味が分からないだろうロナルドの顔が、当然の疑問で顰められた。「そうだよ」またしても理性を通さず、口が勝手に動く。
「間違い、間違え。ずっとそう。間違えでしかない、こんな世界」
「なにを、なに言って――」
「だってそうでしょ、そうじゃん。だって、だってこんな世界が――ッ、こんな、ロナルドが好きな人と結ばれない世界が、正しいわけないじゃん!」
自分でも怖いくらい、感情がいきなり沸騰した。私はかぶりを振りながら、波風の音に負けないくらいに叫んだ。
「もう――もう、間違ってるんだよ、なにもかもが! おかしいの、狂ってるの、世界も私も、もうずっと! 私だってこんなつもりじゃなかった。こんなはずじゃなかった。こんなことになるなんて思ってなかった! だって疲れたんだもん、壊れちゃったんだもん! だから一度くらい夢が見たかった! それさえあれば頑張れるって、そう思った、この先何千回とまた繰り返して、それがまた全部だめで、折れそうになったとしても、この幸せな夢さえ胸に残ってさえいれば、今度こそ折れずにいられるって、きっと最後まで頑張れるって、私、そう思ったから! でもそれがまさかこんな、こんな――……ちがう、ちがうの、本当に。ごめんなさい、言い訳ばっかり。役に立たない、本当に、私は……私がいたから、私のせいで、全部めちゃくちゃで、最初から私だけが悪くて、でもわたし――わたしは、ただ――」
胸から溢れた熱いなにかが我先にとせぐり上がってきたせいで、息苦しさで胸が詰まる。声がうまく出せない。
「ただ――!」
それでも無理やり、私はただ思い浮かぶがままひたすら言葉を重ねた。
「――ただヒデくんが、すきだった、だけ、で!」
そうして吐き出した声は、いつかに忘れてしまった言葉の続きのような気がした。
「大好きだったから、幸せになってほしかった――本当にそれだけだった」
つっかえが取れたかのように、声が滑り出していく。言うつもりのなかった言葉が、伝える資格なんてない心の破片が溢れて散っていくのを、止められなかった。
そう、好きだった。たしかに最初はそれだけだった。
それなのに、どうして、いつからこうなってしまったんだろう。
好き。すき。あなたがだいすき。心の底から、この世のなにより、あなただけをあいしている、ずっと愛していた。繰り返した時の中で、変わらなかったのはあなたへの想いだけだった。それだけが、私の輪郭を辛うじて繋ぎとめていて、ギリギリのところで私を私として確立させていた。私には愛も憎悪も、結局は同じもので。そんな曖昧で不確かなものたちだけが私のよすがで、私にとっての揺るぎない真実だった。
だから、だから。
この愛をうそにしないためにも、私はここで終わらなければならない。
「……ごめんなさい」
気が付くと海は凪いでいて、黒い海面は鏡のように静まり返っていた。降ってきた雫が波紋を作る。知らないうちに、私はまた泣いていた。何が悲しいのか、自分でも分からない。口内に溜まっていた唾液を飲み込み、切れ切れになっていた呼吸を整える。それから私は、黙りっぱなしのロナルドへ、安心させるための笑顔を作ってみせた。
「……とにかく、大丈夫だから。絶対うまくいくから。なにも問題ない。ロナルドは、なにも心配しないで」
強引に話を纏めて、じっと海を見つめる。目の前から大きく息を吸う音がした。
「……おれは――」
その瞬間、長らく大人しくしていた海が唐突に動いた。唸った強い風が波を揺さぶり、胴を押し流そうとしてくる。体勢を崩しかけたが腕へと素早く力が加わり、体の向きを変えるように引かれる。ロナルドと向き合う形になった。両肩を掴まれる。
「俺は、お前が好きだ」
海の騒ぎも風の呼吸も、ロナルドの声も。取り巻いていた音が一遍に消え、真っ白い空間に放り込まれたような、そんな感覚に陥る。
放たれた言葉には、自分がいまどこでなにをしているのか、一瞬忘れさせるくらいの衝撃があった。ゆめなのかもしれない――と、思考も一番はじめまで戻ってしまう。
「好きだ」
意識をわし掴むような力強い声で、鼓膜を揺らされる。私がこの場に、ロナルドの前に、ヒデくんとともに、たしかに存在しているのだと、それを訴えかけるみたいに、肩にかかった熱が増した。
「俺の好きな人は、ずっとお前だけだよ」
「……は、なに――なにを、言って」
「お前がアニキのことを好きなんだとしても、やっぱり無理だって、そう簡単に諦められない、ごめん。……って、そう伝えるつもりで、お前の家に行った」
ブレずに真っ直ぐ穿ってくるロナルドの瞳は、辺りの黒い海を反射して、瑠璃色となっていた。ぽかんと口を開いたまま、時間をかけて言葉を咀嚼する。
「ちがう」
戦慄いた唇から、弱々しい声が零れる。言葉に合わせて、否定するように首が揺れた。
「ちがわねェよ」
「ちがうよ! だって、それ――お、おかしいじゃん、そんなの。だって……!」
だって私は知っている。吸血鬼の彼女と晴れて恋人となったと嬉しそうに報告して来た彼を、何度も見てきた。意味の分からない嘘で、私を惑わせないでほしい。なんで、なに、今さらそんな――。
「そんなわけない」
混乱を通り越して苛立ちまで覚え始める。無意識のうちに、拒絶も尖った音になっていた。
「そんなの勘違いに決まってる。恋人になったでしょ? お試ししたでしょ? だからロナルドはそんなバカなことを思い込んじゃってるだけで――」
「そんなんじゃねぇよ! 俺は付き合う前から、お前が好きだった。小さい頃からずっと。初恋だった。好きな人がいるって言ったのは……お、お前に男として意識されたくて。……そろそろちゃんと、そういう対象としてみてもらいてェなって思ってるところに、吸対からギルドに依頼が来たんだよ」
「依頼?」
「銀髪蒼眼の人間を中心に吸血行為を働く、危険度Aオーバーの吸血鬼が新横浜に現れたって。さっきの、意識されるとかに、ちょうどいいかなって思って、その囮調査に最初は俺が立候補した。……まあその、お前と付き合うってなったから、結局囮役は俺じゃなくてアニキなったけど」
囮。
ロナルドは退治時と遜色のないほどの真面目な相貌をしている。嘘をついているようには、とても見えなかった。
「なに、それ」
それでもやっぱり信じられなかった。酸素を求めるように、口がはくりと震える。
「なにそれ、なにそれ! き、聞いたことない! だって、そんなの、これまで一度も――う、うそだ。からかってるでしょ?」
「元は俺が囮役だったから、お前に伝えるのはとりあえず退治が終了したらにしてくれって皆にお願いしてて……作戦が終了したあと伝えようとしたけど、タイミングもなかったんだよ。急に家からでなくなったろ、お前」
「……え? 終了したらって」
混乱の中、引っ掛かった部分をオウム返しすると、ロナルドは「ああ」と頷いた。
「八月七日だっけ。ほら、お前が風邪ひいちゃった夜」
「……えっ?」
「え?」
「あ、いや……え、でもちがうでしょ、それは……だって、だってあの――お、応援! 頼まれてたじゃん、マスターに。私その吸血鬼がヒヨシくんと歩いてるの見掛けたけど、あの人そんな、マスターたちが苦戦するほど凶暴なようには見えなかったし!」
「普段は外見変えてるんだよ、そいつ。人型からはかなり離れた、戦闘用のフォルムが別にあるんだ。あとリンボーダンサーたちの遠い血族だったらしくて。変身も得意で戦闘力もあって、尻尾も簡単に掴ませない。こんなふうに、なかなか捕えられなかったからS寄りAオーバー判定」
なにもおかしいことはないというふうに、ロナルドはつらつらと説明した。
「なにそれ……」
いやもう本当に、『なにそれ』それ以外の感情が死んでしまった。卒倒しそうになりながらも、情報を一つずつ整理していく。
じゃあ、じゃあなに? 今まで退治人ルートのときに戦ってたあの強すぎる吸血鬼は、ロナルドの想い人だと思っていた女性で?
戦闘時はフォルムチェンジしてるから、人型しか知らなかった私は正体に気が付けなくて?
今まで恋が成就した故の笑みだと思っていたものは、単に任務が成功してホッとしていただけ?
「でも、もっと早くに言ってもよかったな。変な勘違いさせちまったし……」
ロナルドは心底申し訳なさげにしているが、まったくもってその通り過ぎてかけるべき言葉なんて見つからなかった。
だってほんとに、いや本当にそう。ほんとにそう! もっと早く――具体的には千年くらい早くに言ってくれればよかったのに!
目眩のような感覚に襲われ、膝からガクンと力が抜けていく。
「うわっ⁈ お、おい?」
崩れた身体を抱き留められる。声は不安げだったが、鍛えられた彼の腕はなんの危うげもなく私の体に回っていた。
「ほんと……なんなの、それ……」
私はぐったりと彼に身を任せ、そのまま肩口に額を預けた。くっついた所からロナルドの鼓動の音が伝わってくる。
「……大丈夫か?」
全然大丈夫じゃない。情報の洪水に、もう脳みそは嗄れていた。ほんと、立っているのもやっとだ。返事もできない。
「……なあ、あのさ」
黙って縋りついていると、先程までとは色の変わった音が耳朶を打った。淀んだ気持ちのまま顔を持ち上げれば、音もなく視線が交錯する。周囲の明るさは変わっていないのに、どうしてか、瑠璃色の瞳がたちどころに透き通って晴れる。青がきらりと煌めき、いつもの色彩を取り戻した。
「おれ、本当にお前が好きだよ」
うそだよ。
即座にそう言おうとした。なのに、声がでてこない。震えた吐息が溢れるだけだった。
「お前が……」
ロナルドが、控えめに私の手へと触れた。武骨な手が、熱を移すように、手の甲を包む。私の手も彼の手も、波で濡れてベタついていた。
「お前が俺の幸せを願ってくれたみたいに、俺もお前に幸せになってほしい」
拒まれるのを恐れているかのように、怖々と人差し指を握られる。
「できることなら、おれと」
「っ、だ、だめ」
今度こそ音になった。でも嗚咽も紛れて、ひどく聞き汚いものになってしまった。
「だめだよ、私じゃ――わ、私なんかじゃ、だめ」
私と一緒にいて、ロナルドが幸せになれるわけない。
「だめってなんだよ」
「わたしは、だって、ヒデくんに相応しくない。卑怯で、弱くて、醜いから」
ヒデくんを救うために何度も繰り返した。何度も空を奏でた。
けれど当然、繰り返した分だけ失敗したし、見捨てようとしたことだって何度もあるし、なにより、完全に彼のためだけじゃなかったんだ。私は自分も救われたかった。ループが早く終わるのを、ずっと望んでいた。
結局は、そういう自分勝手な打算で助けようとしたのだ。決して綺麗な感情だけではなくて、むしろ、醜さのほうがずっと勝る。
「なんでそんなこと言うんだよ」
「だって、それが事実だから」
だから、こんな人間がヒデくんの隣に並ぶなんて、到底許されることではないのだ。
手を離さなきゃと腕を引く。その途端、指をぎゅっと握られた。さっきまで軽く掴む程度だったのに。ヒデくんは怒りや悲しみが綯い交ぜになったような表情をして、顔を顰めていた。
「俺はお前が卑怯だとか弱いだとか、そんなふうに思ったことは一度もない」
それはあなたがやさしいからだよ。
ぬくもりから抜け出せないかと手を引きながら、内心で思う。首を振ることで『ちがう』という意を示した。私は本当に本当はそうなんだよ。あなたが知らないだけ。思わないだけ。
それを理解しているというのに、愚かな心はやさしい言葉の羅列でまたさざめいてしまっていた。きっと口を開いたらしゃくりあげてしまう。だから声を返せなかった。
「けど」
手が離され、ぴったり寄り添っていた熱が消える。私が喪失感に襲われるよりも早く、すぐに五指が絡んだ。指の間から伸びる硬い皮膚で、甲を淡く撫ぜられる。
「分かった。お前が自分でそう思えないっていうなら、今はそれでいいぜ」
手の平同士がぎゅうぎゅうと隙間なく貼り付く。繋がった箇所から、彼の温度と、早い鼓動が流れ込んできた。
「それでも俺は、そういうお前を好きになった。そういうお前と幸せになりたい、この先の未来を歩いていきたい」
穏やかな声音が、静かに囁かれる。
彼はとおくの眩しいものを視界に収めた時のように、緩やかに瞳を細めると、やがてくしゃりと破顔した。
「それを分かってくれれば、今は、それでいいから」
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