6.驟雨に希望を
篠突く雨が、世界を白く烟り暈している。絶え間なく降る重たい豪雨は、普段は喧しい町を、まったくの別人かのように沈黙させていた。車軸を流すようとは、正しくこんな天気の日に生まれた言葉に違いない。車軸どころか、世界が丸ごと流れていきそうな勢いだ。
なんて、気が付いたら陥っていた取り留めもなさすぎる場違いな思考に、私は自身の集中が切れてきているのを感じた。顔を濡らす雨粒を、肌へ擦り付けるようにして拭う。ほんの少し、それも再び雨が頬を殴るまでの短い一瞬だけだが、それでも先程より幾分かは視界がマシになり、散漫となっていた意識を切り替えることくらいはできた。
「――=I」
雨の中、遠くで誰かが私の名を叫ぶのを、濡れた鼓膜が辛うじて捉えた。雨のせいか、本人の疲弊のせいか分からないけれど掠れていて、誰の声かも分からない。けれど私は、その声と、それから本能が察知した危機感に従って冷えきった体を動かした。身を翻して飛び退いた場所からさっきまで自分が立っていた場所を見ると、地面が深く抉れていた。恐怖が心臓を悪戯に擽り、体内の温度がさらに冷えた。
市民の避難は終わらせた。避難が遅れた人もいない。この場にいるのは退治人と、吸対の人間と、それから憎らしいくらい強大な吸血鬼だけ。この吸血鬼は、吸血鬼のくせに流水を厭わない、厄介な奴だった。こんな雨、人間だって嫌なのに。
溜息と同時に地面を蹴る。異形の形をした吸血鬼の長く鋭い爪が、再び目前まで迫ってきていた。避けた先で背中がぶつかる。ただでさえ鉄の味がしていた呼吸が詰まり、激しく咳き込んでしまった。
「わり、ッ、あ……」
「ロナルド……」
振り返って、その相手がロナルドだと分かるなり、私は戦闘中ということも忘れ、座り込んでしまいそうなくらいの安堵感に包まれる。銀の頭に帽子はなく、服もボロボロで、白い頬にもかすり傷がいくつもついていた。しかしそれでも青い瞳は、底の見えない煌めきを放っていたものだから、つい安心してしまったのだ。
ロナルドの方も、私を見て一瞬気を抜いたように見えた。彼の視線が、私の全身を確認するように上下へ素早く二往復した。
「怪我は」
「ない。ね、これさ、珍しく脚色なしでロナ戦に書けるね」
ロナルドは少し目を丸くして、「うるせ」と軽く笑った。緊迫を僅かに緩めた彼が、軽く息を吐く。
「これ終わったら、皆でケーキ食おうぜ」
恋人さんはいいの、と。
本当はすぐにそう思った。彼からつい昨日、付き合い始めたという報告を受けたばかりだった。付き合って最初の誕生日なんだから、恋人に祝ってもらったらいいのに。相手もきっと、一番にお祝いしたいだろう。遠慮か知らないけど、そういう配慮は逆に失礼だったり、相手を傷付けたりするんだよ。ロナルド、そういうところあるよね。
「……うん、誕生日だもんね」
けれど私は思うだけで、そのどれもを、結局一つもロナルドへ伝えなかった。いや、別に、二人っきりってわけじゃないし。こんな雨の中、それも朝に呼ぶのも申し訳ない、し。
誰に聞かれている訳でもないのに、私は脳内で色々と言い訳を並べ立てた。
∞
雨は夜明けとともにあがり、吸血鬼は、新横浜の総力をもってして退治した。
ロナルドは、私の目の前で命を落とした。
伸ばした手は、届かなかった。
雨は上がったはずなのに、頬が濡れていく。
夜が明けたはずなのに、視界がどんどん暮れていく。
暗く狭まる闇に身を投げるように、私は意識を手放した。
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