21
水の都、ウォーターセブン。
麦わらの一味は、念願である船大工を見つけるため、島の端に錨を降ろしていた。
船から見えるウォーターセブンの街並みに目を輝かせていたルフィは、「よっしゃ、行こう!」と、当然のようにナツへ向かって手を伸ばす。
「い、いかない!」
パシンと乾いた音が響き、メリー号は水を打ったように静まり返った。
ナツのあからさますぎる態度に、船員全員が唖然とする。しかしルフィの手を振り払ったナツ自身が一番驚いた顔をしていた。『やってしまった』と分かりやすく書かれたナツの顔から、サーッと血の気が引いていく。
「ぁ……ご、ごめんなさい、あの、えっと、あの……お腹が――あっ、頭が! 痛くて! ほら気圧で! ほら見てくださいこの見事な曇り空! これはもう寝るしかない、ということで失礼します船大工見つかるといいですねそれじゃ!」
誰にも口を挟む隙を与えず一気にそう言い終えると、ナツは脱兎の勢いで女部屋へと走っていった。音を立てて扉が閉まり、その余韻が消える頃、やっとナミが「ルフィ」と目を細める。
「アンタやっぱり、避けられてるわね」
「……避けられてねェ!」
手を弾かれた体勢のまま凍りついていたルフィは、やり場のなくなった手をギュッと握り締めて、虚勢を張るように勢いよく振り下げた。「どう見ても避けられてるだろ」ウソップからも冷静に言葉を投げられ、ルフィはグッと下唇を口内に巻き込むようにして噛んだ。
ここ数日、ナツがなにかと理由をつけてのらりくらりと煙のようにルフィから逃げていることは、もれなく全員が気付いていた。ナツ本人はさりげなく、と思っていそうだけれど。だからこそ今日、ナツは自分の行動に――自分の体が起こした、反射的な拒絶に狼狽していたのだろう。
「避けるにしても、あんな強く拒絶するつもりはなかったんだろうな」
「ひどい顔してたしね、あの子」
「避けられてねェ!」
「ナツ、なんでルフィを避けるんだろう……?」
「おい! だから避けられてねェって!」
ゾロの分析に同意しながら、ナミはじっとりと真珠色の空を見た。気圧、気圧ね。まあ、低いことには低いけど。
チョッパーはムスッとしているルフィと物音一つしない女部屋の方をオロオロと交互に見ていた。ロビンが「さあ」と意味ありげにルフィへと視線を流す。先程から仲間に総スカンの総スルーを食らっているルフィは、憤然としていた。
「船長さんがなにかしたんじゃないかしら」
「おうおうおうおうナツちゃんに何しやがったクソゴム。とっとと吐け、今なら卸す程度で許してやるから」
言いながら、サンジはフーっと紫煙を燻らせる。グラグラ薫って揺蕩う白の膜を隔てて見るルフィは、いつになく弱々しく見えた。
いつも船員達を自由に振り回してくれる傍若無人を体現したかのような我らが船長が、船で最もか弱いナツに振り回されている。
「(クソ笑える話だな)」
船のコックとして、在庫の蓄えのことなど少しも考えず空腹がままに暴飲暴食の限りを尽くす船長に対し溜め込んでいた鬱憤も、ちょっぴり晴れる。……が、まァ、同じ男としては? やっぱりどうしても、同情の気持ちが否めないのが正直な気持ちで。しかしこの憐憫は、いついかなる時であれレディの味方な愛の騎士でいたいサンジとしてはかなり度し難い感情であり、サンジは一人全然関係ない所で勝手に複雑な心境に陥っていた。
「……べつに」
黙り込んでいたルフィが、やっと話し出した。頭に片手を置いて麦わら帽子を深く被り、顔を隠す。
「……避けられてねェよ」
もう何回も紡いだ言葉を、ルフィは今までで一番低い声でまた呟いた。メリー号が再度沈黙に包まれ、海がチャプチャプと揺れる音だけがする。
ルフィは一味の反応を見ずにくるりと踵を返すと、黄金の詰まった荷物袋を抱えて船から飛び降りた。ナミとウソップは顔を見合わせて、呆れたように肩を竦めてから同時に駆け出す。
――何もしてないとはついぞ言わなかった、正直者の船長の後を追って。
ロビンとチョッパーが連れ立って出ていったタイミングで、女部屋の扉が静かに開く。船番であるゾロが片目を開けてそちらを見ると、予想に違わず、気まずそうな様子のナツが部屋から顔だけ覗かせて、キョロキョロと首を回していた。
船にゾロしかいないと分かっても、ナツは罰の悪そうな表情のままだった。そんな顔を向けられる謂れも覚えも、少なくとも自分にはないので、ゾロは「なんだそのシケたツラは」と顔を顰めた。
「いや、えっと……すみませんでした」
「なにが」
「この船の船長を、みんながいる場所であんなふうに拒絶してしまって」
目を伏せてそっと告げられた言葉が意外で、ゾロは思わず切れ長の目を見開かせた。
この一味には、基本的に垣根がなく、船長の沽券をこうして慮る存在は、この船では稀な存在だった。
平たく言えば、船員同士、立場関係なく仲がいい。それは今のところプラスにしか働いていない。が、しかし、今後の旅が更なる苛烈さを極めるのは明白であるし、ゾロとしても、今後の身の振り方について考えなければならないな、と漫然と思っていた。
つまり、ルフィという、一味の頭をたてる振る舞いをする必要があるな、と。
「別にいいんじゃねェか、あのくらい」
しかしそれは決断を迫られた時に行うべきことであり、普段から己を曲げてヘコヘコしたり、不必要に遠慮するということを意味するのではない。むしろそれで成り立つ関係は、長い旅を共にする仲間としては不健全だ。
「嫌なことは嫌って言っとけよ」
「……でも」
「なんならもっとあのアホを振り回してやれ」
ゾロがニヤリとしても、ナツは俯いて瞳を彷徨わせるばかりだ。そうしてしばらく言葉を探すような沈黙を挟んでから、やがてナツは「お荷物なのに」と呟いた。それはゾロへというより、自身へ言い含めるような響きをしていた。ゾロの眉がぴくりと上がる。
「荷物じゃねェだろ」
「え?」
特に深い意味を込めて言ったわけではなかった。ただ、そう思ったから気持ちを音にしただけ。けれどゾロは口にしてから、ポカンとするナツを見て、しまった、とすぐさま顔を歪めた。これではまるで、ナツを慰めているみたいだ。どこぞの浮かれコックじゃあるまいし、ましてや慰め役なんてガラでもないのに。迂闊なことをした自分に苛立ちすら覚える。
けれど飛び出した言葉をなかったことにはできないし、一度言った言葉をなかったことにするほうが自分の中で座りが悪いと感じたので、ゾロは仕方なく、「グルまゆとウソップは助かったって言ってたぞ」と続けた。言葉足らずな補足でもナツにはしっかり伝わったらしく、彼女は「ああ、試練」とすぐに合点がいったというように軽く頷いた。
「それはよかったです。……けど、でも、あれは――あれは多分、私がいなくてもなんとかなりました」
言い淀んだ末、やけにきっぱり断言したナツへ、なにを根拠にとゾロは目を眇める。ナツはゾロの視線を苦笑でいなし、デッキに手を置いて海のほうを見つめた。潮を含んだ風が、ナツの髪をゆらゆら空へ遊ばせる。
「この世界には、私がいなくてもなんとかなることが多すぎる」
流れてきた声色に、これはまた自分へ向けられた言葉じゃないなと、ゾロはすぐに悟る。遠くの海を見つめるナツの横顔を数秒睨んでから、ゾロは荒々しく息を吐き出すと、乱雑な仕草で自身の頭をかいた。
「てめェがどれほどのもんだよ」
「え……」
「世界はでけェんだから、そんなの当たり前だろうが」
ナツは笑って、「その通りですね」と言ったが、ゾロは刻んだ眉間の皺を消さず、二度目の溜息を吐いた。ああ、伝わってねェな、これ。そう分かったが、そろそろ面倒になってきたので、ゾロはもう口を挟まないことにした。
「なんでもいいが、船の風紀は乱すなよ」
「ホギャッ、ふ、ふうき……!」
ナツは雷に打たれたように大袈裟によろめく。やめて今の私には刺さりすぎるそれ。そう胸を抑えて半過呼吸になるナツへ、ゾロは胡乱気な眼差しを送った。
「ふうき、みだ……う、ぐうの音しかでない……」
「ぐうじゃなかったろうが」
自分が急所をピンポイントで穿いた自覚がまるでない剣士からのツッコミに、ナツは(比喩なんですけど)と思った。が、言わなかった。もしかしたらこの世界にはない慣用句なのかもしれない。
ナツはふらふらと頼りない足取りで、縄梯子の方へと歩み寄る。ゾロが「オイ、どっか行くのか」と声をかけると、ナツは梯子に触れながら振り返った。
「頭を冷やしてきます。本屋行きたいし」
「……なら誰か戻るまで待った方が」
「え、なんでです?」
「……いや」
ゾロはなにか言いかけて口を開いたが、結局「なんでもねェ」と首を横に振った。
「街出るならついでに酒買ってきてくれ」
「はーい」
この世界では無一文のはずのナツだが、実はナミからお金を借りていた。というか押し付けられていた。最低限持っておけ、と。「利子十倍よ」押し付けた本人は、現状ナツに返す宛がないと知ってるくせして、素知らぬ顔で悪徳高利貸しのようににっこりした。
そうとも知らず、ナツは生真面目に「分かりました」と頷いていた。ハウトゥー“歴史の本文”で得た印税で返す気満々だったからだ。つまり取らぬ海王類の皮算用、絵に描いた餅、机上の空論――要するに、できもしないことを考えての無謀な『分かりました』であった。
小さい背中がさらに小さなゴマ粒になるまで見送り、一人になったゾロは大きな欠伸を落とした。
「ま、“貝”持ってるし、そこらのチンピラとかならなんとかなんだろ」
痛がりつつも、それなりに余裕はあるように見えた。故に、ナツの中には『いざとなれば貝を使う』という選択肢はちゃんと入っているだろうと、ゾロは踏んでいた。
実際、ゾロの予想は正しかった。
ナツの身体は、衝撃貝の負荷を『痛いけど、まあ……』と思える程度には、この世界に馴染んでいた。ちょっとイラッとするなくらいの相手に使おうかと考えられるくらいには、衝撃貝はナツにとって手軽な武器と認識されていた。
だから、もし『そこらのチンピラ』に絡まれていたら、ナツだって一も二もなく衝撃貝を使用して逃走していただろう。
もちろんそれは、『持っていれば』に限る上、絡んできたのが『そこらのチンピラ』であれば、に限定される話なのだが。
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