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これが夢なのか現実なのか、ナツには分からなかった。
麦わらの一味がウォーターセブンに上陸して早々、ロブ・ルッチによって拐かされたナツは、誰かが――“なに”かが、留め処なく叫ぶ『訳せ』という声によって、白く広い一室で覚寤した。声の正体は薬によって強制的に“半覚醒”させられた悪魔の実の能力であるのだが、能力者となって日が浅いばかりか、この世界の超常現象に慣れきっていないナツにはそんなこと知る由もないし、推察すら及ばない。華奢な身の内を廻る咆哮は、自身の状況に当惑するナツの脳や神経を容赦なくわし掴んで甚振った。
針を何十本も突き刺すような、熱した鉄を押し当てたような、化膿した傷口をぐちゃぐちゃに抉るような、身体を刻んで捏ねて引きちぎったかのような。
そんな痛みが束になって、いっぺんにナツを襲う。暴力といっても差し支えない声による倒懸は、か細い体を余すことなく蝕んだ。
ナツも最初のうちは髪を振り乱して暴れて絶叫し、何度も嘔吐していた。けれど半日が過ぎ、胃液さえ枯れ果てると、もう悲鳴をあげて暴れることもしなくなった。どれだけ虚空に向かって謝罪し懇願したところで、助けなどこないことを悟ってしまったということもあるが、なによりそんな気力も尽き果てていたからだ。
ナツは一心不乱で“訳した”。そうすれば轟く声が消えてくれると信じて、目の前にあるもの、体に触れるものを、ひたすらに訳し続けた。意識などとうの昔に筐の水と成り果てており、自分がいったい“なに”をどれほど『訳』しているかなんて、考えられなかった。
触れて、訳して、読んでを数巡し、意識を飛ばし、薬を打たれ、また始めから。
ナツの身体がこの世界に適応し始めていたとはいえ、それも完全ではない。ナツの肉体はまだまだ脆弱であった。身体に釣り合わない能力の過剰使用と、『この世界の常人』であったとしても負荷がかかりすぎる薬の濫用。司法の塔に連れてこられてから半日もしないうちに、ナツの神経細胞は尽く破壊された。二日が経過する頃には、五感の機能も著しく低下し、通常と比べて半分まで落ちていた。
例えば、首を締め上げられて、やっとそこではじめて、目の前の存在に気が付く――といったように。
“訳す”ことにかんしては、活性化させられた能力が勝手になんとかする。視界がどれだけ霞もうと、“訳した”文字は不思議と問題なく読めていて、内容もしっかり頭に入ってきた。
けれど自身の力だけで、息を吸うのもままならないほどに、ナツは衰弱していた。
それが、ちょうどロビンとフランキーの見せられた時のナツの状態であった。
CP9の五人を倒し、ロビンの手錠を開ける鍵を手に入れ、正義の門をくぐる前にロビンの元へと辿り着き、そしてさらに地下で拘束されているというナツを救出する。
麦わらの一味とフランキーを合わせても戦力はギリギリで、やることは山積みだった。
「じゃあルフィ、とりあえずアンタは急いで地下に行って――」
「おれはハトのやつを追う」
「えっ?!」
ナミの指示を最後まで聞かずに、ルフィはきっぱり断言した。意志を曲げるつもりはないと表明するように、地下に繋がる階段とは反対へ爪先を向ける。「ロビンがあの門くぐっちまったら、もう取り戻せねェ」仲間に背を向けたまま、ルフィは拳を握り締めた。
「……それにあのハトをぶっ飛ばせなきゃ、どの道全員でここから帰れねェだろ」
「それはそうかもしれないけど、でも……!」
ルフィの言葉はたしかに的を射ている。しかしアンタは本当でそれでいいの。ナミはそう問いかけようとしたが、ルフィの足元を見てハッと口を噤んだ。強く握り締めた拳から、ぽたぽたと赤が垂れている。流れた血は、瓦礫だらけの床に小さな血溜まりを作っていた。
「おれはハトのやつを止める。だから、だから――アイツのことは頼んだ、お前ら」
「ああ、任せたまえ、ルフィ君!」
思いっ切り暴れて来い!
そげキングがそう言ってルフィの背中を叩いたのを合図に、麦わらの一味とフランキーは、各々敵を探して走り出した。
✲✲✲
「えっ……?」
雑兵共を片付けつつ、ナミとウソップはナツがいるであろう地下室に辿り着いた。しかし扉を開けるなり飛び込んできた光景に、ナミは敵地にいることも忘れ、構えていた天候棒を下ろしてしまっていた。
「か、海賊がなんでここに……!」
「スパンダム長官は……CP9は?!」
大層な防護服で身を包んだ人間二人が、鎖と共に椅子に繋がれたナツを囲んでいた。非戦闘員なのか、ナミとウソップの姿に慌てふためいている。
「なにを……やってるの?」
一人はナツの腕を固定し、もう一人は毒々しい青の液体が揺れる注射器を構えていた。状況の理解を拒んだナミの脳が、そんな言葉を転がさせる。拘束の先から伸びるナツの手首はだらんと落ちており、指先ひとつ、ぴくりとも動かない。そんなナツの隣には、椅子の背もたれを超える高さの本の山。鎖、注射器、本。これらが何を意味するのか分からない――分かりたくもない! 目の前がカッと怒りで赤く染まる。ナミは天候棒を握り直した。
「私達の仲間に! なにしてんのよ、アンタ達!!」
「必殺“鉛星”っ!!」
ウソップが注射器を吹き飛ばす。床にぶちまけられた青は、たちまち気化して、跡形もなく消え去った。
「ああっ! き、貴重な薬が……!」
「長官に殺される……!」
「そんな心配、必要ないわよ。今ここで消し炭にしてあげるから!」
男二人を宣言通り黒焦げにのした後、ナミとウソップは急いでナツを繋いでいた拘束を解いた。幸いなことに、椅子の鍵は注射器を持っていた方の男が所持していた。
二人はナツの名前を何度も呼びかける。しばらくしてからナツは睫毛を震わせ、ゆっくりと瞼を持ち上げた。円い瞳が焦点を探してふらふらと彷徨う。
「ナ、ミ……」
「よかった! 気が付いた!!」
「と……、……だれ?」
「! はじめまして! 私が誰かって? 私はそう、正義の味方、狙撃の島のそ――」
「ああ、ウソップか……」
「言わせろ! 最後まで!!」
ウソップのツッコミに弱々しく口角を上げて笑ったナツに、ナミもウソップもホッとする。無理やり起こしたせいで掠れ声だし少し舌足らずだが、それはしょうがない。とにかく生きてる、無事だ。早くチョッパーに診てもらわなくては。
ウソップは「よし、乗せろ!」と武器であるカブトを前に抱え直して、背中を開けた。
「え?」
「え、じゃねェよ、逃げるんだよ! 俺達ァロビンとナツを助けに来たんだぞ!」
「バスターコールがかかった! 海軍が来るわ! 早くこの島から脱出しなくちゃいけないの! こんな地下でもたもたしてたら生き埋めよ」
「バスターコール……」
ナミの介助を受けながら、ぼんやりと舌で転がす。本来ならば知らない単語だけれど、今のナツにはそれがなにを指すのか分かっていた。なぜなら、“訳した”中にあったから。そこでナツは自分が“訳した”本の山の存在を思い出し――そして気付き、息を呑んだ。
「だめ、行けない!」
「えっ?! 何言っ、ちょっ、オイ、暴れ――!」
ナツが全力でもがいたせいで、立ち上がろうと中腰になっていたウソップは、バランスを崩して床に倒れた。
「行けないってなにを――」
「こ、これ! 私がやったの。この本たちは、本当は、元は……ひ、人で」
「はァ?!」
本の山を矯めつ眇めつ見るウソップに、ナツは説明しようとしたが、ナツ自身、自分の能力を把握しきれていなかったし、やったといっても意識も朦朧としている部分も多かった。うまく話せる気がしないと、「とにかく!」と無理やり話を進めようと、ガラガラの声を張り上げた。
「バスターコールが来るなら、この人たちをこのままにはしておけない! 助けなきゃ」
「助けるって……どう見てもただの本だぞ、これ。本当にヤクヤクの実の能力でやったものなのかよ? そんな能力があったなんて俺達聞いてねェぞ」
「……詳しいことはあとで絶対説明する。だから、先に行ってて。お願い」
「っ……う、でもよ――!」
「――利子十倍」
ウソップは納得できなくて食い下がろうとしたが、ナミは静かに呟いた。脈絡のない単語にナツもウソップも目を丸くする。ナミは目を大きく張って、ナツのおでこに指を突き付けた。
「イダッ?!」
「この前のお金、まだ返してもらってない。一万ベリーの利子十倍、つまり十万ベリー! 借り逃げなんて絶対に許さない! そんなことした日には地獄の果てまで追い掛けるわよ!」
「わ、わかった、返す、返しますちゃんと」
「約束よ」
ナツがコクコク頷くのを確認すると、ナミはすっくと立ち上がり、懐中時計をナツに投げた。「二十分よ」防護服――ひん剥かれたため今は違うのだが――の男たちを椅子にふん縛りながら、ナミは言った。
「遅くとも二十分で切り上げて来なさい。例え全ての本をなんとかできなかったとしても」
「……分かった」
「よし。じゃあ行くわよウソップ!」
「え?! で、でも――いだだだだ! 鼻を掴むな!」
二人が部屋から出ていき、再び一人になったナツは、ふうと大きく息を吐いた。意思に反してガタガタ震える手を一度固く握り締め、本の山を睨んだ。
「……よーし、やるか!」
「オイ、ほんとにいいのかよ」
「いいわけないでしょ!」
「はァ?!」
ヒリヒリする鼻を擦り、地下室からの階段を駆け上がりながら尋ねてきたウソップに、ナミは激しく噛み付いた。ナミだってあんな場所にナツを残していきたくはなかった。せっかく助けに来たのに、あんな部屋に置いていけだなんて、なんてひどいことを言うんだと内心では憤っていた。
「だったらなんで――」
「だってはじめてナツが『お願い』って言ったのよ!」
『ナミ』と。『ウソップ』と。
これまでずっと、頑なに距離を取り壁を作り、線を引いてきたナツが。信頼を分かりやすく口にし、甘えてきた。無意識だろうが、それでもよりにもよってこんな局面でやるなんて、と思ったけれど――場違いにも、嬉しくなってしまったのだ。
「そんなの、きいてあげたくもなっちゃうじゃない……」
今にも泣き出しそうな航海士の横顔に、ウソップは肩を竦めた。難儀なヤツ。とはいえ、自分もかなり絆されてしまったので、人のことは言えないのだが。
「ちょっとウソップなにニヤニヤしてんのよ!」
「イダァッ?! やめたまえ! というかウソップではない、私は狙撃の王様、そげキン――」
✲✲✲
正義の門を目前にして、鍵が五本、ロビンの元へと届いた。フランキーに手錠を外してもらうなり、ロビンは今来たばかりの道を走り出していた。
「おいニコ・ロビン! どこ行くんだ!!」
「あの子が――ナツちゃんがまだ司法の塔にいる!!」
『案ずるな、ロビン君!』
塔へ向かおうとしていたロビンだったが、子電話虫から聞こえたウソッ……そげキングの声に足を止める。
「長鼻君……!」
『彼女ならナミ君とともに救出済みだ! 安心したまえ! 訳あって今ここにはいないが……大丈夫、すぐに合流できるはずだ!』
ロビンの体が安堵で脱力しかける。よろめいたロビンを支えながら、フランキーも「無事だったか……!」と破顔した。
『君は紛れもなくルフィ君達の仲間だ! なにも枷はない、自由だ――思うままに動けばよい!』
「……ええ」
狙撃手からの激励を聞き、ロビンの心に、萎みかけていた希望の蕾がふわりと花開く。彼らは――私の仲間は、うそをつかない。信じられる。私もあの子も、もう自由!
ロビンは滲んでいた涙を拭い去って司法の塔に背を向けると、腕を胸の前で交差させ、正義の門の向こう側で立ち竦んでいるスパンダムを見据えた。
「“六輪咲き”――」
「え?! 何だ?!」
「“スラップ”!!」
まず挨拶がわりに、あの子の分を。けれどこんなものでは、とても足りない。
「ホゲぶ!!」
「存分に……! やらせて貰うわ」
私には仲間がいる。世界中を敵に回してでも、助けてくれる仲間がいる。
そう胸を張って言えるロビンには、もはや恐れるものなどなにもなかった。
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