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 四日目にもなれば酔っ払いのダル絡みやナンパをあしらうのにも慣れてくる。しかし従業員用の御手洗前でわざわざ待ち伏せされたのは初めてだった。

「こんな仕事抜けてよ、別の店で一杯やろうぜ」
「えーっと、んー……」
「通り向こうの海前の店にゃおれの仲間もいるんだよ」

 顔を真っ赤にして通路を塞ぐ男性へ、曖昧に笑う。なんでわざわざお仲間さんがいるとこまで私が行かなにゃならんのだ。それに通り向こうはゴミ治安だから気を付けてねってこの前オーナーから聞いたぞおい。人攫いの一派とかがたむろしてるんだとか。そんなん尚更行くかボケ、である。

「どうせ人なんて来ねェんだ、この店には」

 なんてこと言うんだ! 男のあんまりな言葉に憤る。まあ事実だけど。今日もルフィたちと、他数人程度の客入りだった。お、オーナー……! 宣伝もっと気合い入れてくれ……! 初日だけで満足しないで。

「いいだろ嬢ちゃん」
「うわっっっ、ちょ……離してください!」

 いつの間にか距離を詰められていて、どうでもいいことを考えていたせいで手首を握られてしまった。ぼーっとしてなければきっと避けられたのに、と悔しくなる。サンジの動きに比べたらこんなのトロすぎる。
 酒臭いしなんかベタついてるし、とにかく気持ち悪くて、触れられた箇所を始点にゾッと全身へ鳥肌が立っていった。振り払おうとしたがうまくいかなくて、愛想笑いもとうとう消える。焦りを顔に出す私に、男は下卑た笑みを深めた。

「な、おれだってほんとはこんな店――」
「おい」
「ア?」

 男が振り返ったことで、私からも通路の先にいた人物が確認できた。とはいっても、声で分かっていたけれど。

「む、麦わらの……!」

 男がヒュッと息を飲む。酔っ払っていてもルフィが誰かは分かるんだ。オーナーは職業柄よくチェックしてるとか言っていたけど、この街の人は大体手配書把握してるのかな。ウォーターセブン近いもんね、ここ。

 ルフィが黙って男の手を掴むと、人体からとは思えないような耳を塞ぎたくなる音が通路に響きわたる。男は裏返った悲鳴をあげて、その場から飛び退いた。赤くなった手首を抑えながら「す、す、すみませ、でひたッ!」と泣きながら言うと、走って逃げていく。何度も転ぶ後ろ姿が見えなくなってから、私はふうと息を吐いた。

「……ありがとう、ルフィ。でもなんでここに?」
「戻るの遅かったから。お前、今日ずっと体調悪そうだったし」
「えっ」
「大丈夫か?」

 実は朝から頭が痛くて、身体がダルかった。しかし疲れが溜まってきただけと、自分でもそんなに気にしていなかった。今日も特訓に付き合ってもらったサンジにだって気付かれなかったのに。どうして分かったんだろう。野生の勘だろうか。ルフィなら有り得る。

「チョッパーに診てもらえよ」
「平気だよ、そんな、大したことじゃないし……」

 戸惑いながら答えたが、ルフィは疑り深い眼差しでジロジロ見てくる。居心地が悪くなって、足元へ視線を逃がした。しばらく遠くの喧騒を聴きながら黒の革靴の爪先を見つめていたが、「なあ」とルフィが静かに沈黙を破ったので、仕方なく顔を上げた。

「……ごめん」
「え?」
「おれのせいでお前の大事なもの、失くさせちまった」

 ルフィの言葉を聞いて、自分の心がみるみる冷えていくのを感じた。こっちがもういいって言ったことを、なんで掘り返すかな。「ごめん」と繰り返すルフィに、溜息を吐きたくなったが、衝動をなんとか堪えて口を開く。

「あれがなにか、フランキーから聞いてないの?」
「聞いてねェ」
「そう。じゃあ教えるけど、あれはどうせもう使えないものだった。動かないし、持っててもなんの役にも立たない。だから失くしてもなにも問題はない。はいおしまい」
「でも大事なもんだったんだろ」

 間髪入れずに返されて、二の句を継げなくなる。締めの言葉通り、私はもう完全に話を畳むつもりだった。

「使えなくても、動かなくても、お前にとっては無意味なもんじゃなかったんだろ」

 ちがうと、口だけでも否定しなくちゃいけなかったのに、声が出せなかった。……は? いや口だけでもってなに? たかがスマホなんだ。しかももう使えないやつ。あんなのどうでもいい、本心からそう思ってる――思わなきゃ。ぐちゃぐちゃな思考の中、無理やり声を絞り出す。

「ちがう」
「違わないだろ」
「ちがうって、ほんとに……ごめん、私そろそろ仕事に――」
「逃げるなよ」

 横を通って抜けようとしたのに、胸ぐらを掴まれて壁に押し付けられる。髪をまとめていたバレッタが、少し踵の浮いた足元にカシャンと転がる。背中を打った息苦しさで一瞬顔を歪めたが、私はすぐに瞳孔の開いた瞳を間近から睨み返した。

「なにすんの? いたい、離して」
「お前が逃げねェなら離す」

 意味が分からない。抗議のかわりに、胸ぐらを掴むルフィの手に爪を突き立てる。このくらいじゃ怯まないだろうとは分かっていたが、それでもルフィがあまりにも泰然としているので、舌打ちが飛び出しそうになってしまった。

「なにがそんなに気に食わないの? 謝ったってことは許してほしいってこと? だからそれなら気にしなくていいってば。許す許す、はいこれでいい?」
「そうじゃないって分かってんだろ」

 ルフィの声は波ひとつなく落ち着いていて、私だけが過剰にイライラしている。全部、もうなにもかもルフィのせいなのに、私だけがどうしてこんな。

 そう思った刹那、ブチッと頭のどこかでなにかが切れた音がした。

「ああもう、しつっこいなぁ! もうどうでもいいって言ってるでしょ?」
「よくねェからお前はずっと怒ってるんだろうが!」
「ずっと? 違うよ、ルフィがしつこく掘り返してきたからそれがウザくて今怒ったの。それまではべつに気にしてなかった」
「うそつけ!」
「うそじゃない!」

 ふーふーとお互い息を荒らげて睨み合った。頭に血が上っているからか、息が切れているからか、目の前が白く明滅する。首が締まる感覚に、襟ぐりを掴む力がまた強くなったのが分かった。

「おれはお前に無理させてまで許してもらったってことにしたくねェ!」
「はあ? ルフィがすっきりしたいからもう許してるのを無理やり許さないってことにしろって? それこそ私に無理させてるしほんと我儘だし意味不明なことばっかりだね、ルフィは」
「だから許してねェだろお前は最初から!」
「許してるって言ってるじゃん!!」

 鼓膜までゴムなのか、この男は。突き破ってやろうかという気持ちで叫ぶ。ルフィの見せていた平静さはもうとっくに消え失せていて、今や彼も、私と同じくらい感情に振り回されているようだった。

「なかったことにしてあげる! もうそれでいいじゃんか!」
「アホか、なんも解決してねェよ! なんでお前は全部なかったことにばっかしようとするんだよ!」
「そうしなきゃ許せないからだよ!」

 あっと思って息を呑んだ時にはもう遅かった。ああ言えばこう言っていたルフィも、今になってやっと黙る。短い沈黙を挟んでから、ルフィが口を開いた。

「やっぱ許してねェんじゃねーか」
「……さいあく」

 言わされた。最低。こんなつもりじゃなかったのに。どうしようもなく悔しくなって、歯を噛み締めて顎を引く。

「ごめんな、ナツ」
「……いやだ、うるさい」
「うん」

 胸ぐらを掴んでいた手が、私の両頬を包んだ。離してと手首辺りを掴む。さっきの酔っ払いと同じくらい熱い手なのに、さっきと違って不快さは全然なくて、それがまたムカついた。それから無神経に踏み込んでくるルフィにも、触れた手へろくに力を込められない自分にも。
 覗き込むように顔を近づけてきたルフィを視野に入れたくなくて、逃げるように目を伏せる。

「大事なもんだったんだよな」

 耳朶を打ったルフィの声は、また落ち着きを取り戻している。けれどただ静かなだけじゃなくて、どこか柔らかなやさしさが滲んでいる声だった。そのせいか、引き結んでいた口からうっかり力が抜けてしまう。

「……そう。もう使えないけど、思い出がたくさん詰まってた」
「そっか」
「かわりなんてこの世のどこにもない。もうあれだけだった」

 家族や友達との写真とかやり取りとか。もう見れないとしても、あれがもうただの鉄の板だとしても、持っていたかった。だってあれは、私が『あの世界』で生まれた証明ともいえる、唯一の持ち物だった。

 体はこの世界に適応するような変化を遂げていて、変な実まで食べてしまい、果てには海賊になってしまった。これまでの自分を構成してきた常識だって、塗り潰されつつある。記憶や思い出も、濃すぎるこの世界が全て食い潰すような勢いで侵食しようとしていた。私は自分の輪郭が――『黒羽 來柘』という存在が、日毎にぼやけていくのをひしひしと感じていた。進んでいく『物語』の中に身を投じるのは、不安で堪らなかった。本来なら存在しないはずの自分はいったい何処へ行くのだろうと、いつも恐ろしくてしょうがなかった。

 あのスマホは、そんな未知の恐怖を乗り越えるためのお守りのようなものだった。

「ひどい、ばか、大雑把、ガサツ、最低」
「ごめん」
「一生許さない」
「分かった。いいよ、それで」

 あれがそのくらい大事なものだとみんなに伝えていたら、こんなことは起こらなかったと思う。だからルフィにばかり非があるわけじゃないと、本当に分かっていた。しかもほら、こんなに真剣に何度も謝ってくれてる。それなのに私の口からは、子どものような駄々がとめどなく溢れて止まらなかった。

「ごめんな」

 ルフィは理不尽な言い分に反論ひとつせず、コツンと額を合わせ、後頭部を緩く撫でた。ほんと器が広いなあ、ルフィは。さすが未来の海賊王。まだ心から許そうと思えていない私との差が浮き彫りになるな。そんな惨めさからか込み上げた熱が目頭をノックして、喉の奥が絞られたように引き攣る。口内で震えた歯がカチカチと合わさる音が鳴った。


 不意に店の方からカランカランとドアベルが揺れる音がした。次いで大勢の足音。団体客が来たらしい。私は鼻を少し啜って、呼吸を整え――それから、膝を勢いよく持ち上げた。「ホギャッアッ?!」手が外れ、ルフィが後ろによろりと倒れていく。

「おびゃ、おびゃえ……?!」
「お客様がいらしたので、仕事に戻らせていただきますね」

 私は素早くバレッタを拾い、ひらりと身を翻して営業スマイルを浮かべて一礼した。股間を抑えてピクピク震えるルフィを残してその場を後にする。
 うん、ちょっとスッキリしたな、色んな意味で。ざまぁみさらせアホゴムが。許さなくていいって言ったのはそっちなんだから。ていうかどさくさに紛れて近いんだよ、ばか。



「……あらナツ、ちょっと待って」

 ホールに戻るなり、ロビンがいきなり私の肩に手を生やしてきたので心臓が止まった。急になに、と硬直していれば、襟元が手際よく整えられていく。ああ、ルフィに掴まれてたんだった。そういえば頭を直すのも忘れていたと、握り締めていたバレッタで急いで髪をまとめる。
 ロビンにお礼を言おうとしたけれど、ロビン含め、一同が――この場にいないルフィを除く一味全員が、意味深にニヤニヤしていて鼻白む。な、なにその顔……。なんて困惑しかけたが、すぐに分かった。

 肌蹴た襟に乱れた髪。それから、赤くなっているだろう目元。極めつけに不在のルフィ。恐らくきっと、とんでもない誤解をされている。

「っ、そんなんじゃないから!!」
「ど、どうしたんだ?!」
 
 思わず叫ぶと、唯一なにも分かっていなさそうだったチョッパーが、びくっと驚いた。
 

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