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数週間の航海の末、彼らの船はそこそこ栄えていそうな島に辿り着いた。
一味がなにやら話し合ってるうちに、私はコソコソと支度を済ませていく。
迷惑はかけられない。これ以上は貰えない。
ましてや必要のないものなんて、貰えるわけもない。
船のイラストにバツをつけ、その隣に手を振っている絵を描く。それから、エー……『ここまで送ってくれてありがとう』……ありがとうってどういうふうなイラストで描けば……? 分からないからとりあえず日本語で書いておいた。どうせ通じないだろうけど。悲しいね。
そんな五歳児が描いたん? ってくらいの拙い手紙を、ダイニングに置いてこっそり船から抜け出す。我ながらよくバレなかったなと思う。
上陸した島で、私はあてどなく森の中をぶらついた。これからどうしよっかなぁ。どうしようもねえよなぁ、なんてぼんやり思考を巡らせて歩いていれば、どこからともなくふわりと甘い香りが漂ってくる。果物の芳香に誘われるがまま歩けば、辿り着いたのは巨大な木の前だった。
根元にある木の洞の中を覗き込むと、ぽつんと大きな黄桃のような果物が置いてあった。鮮やかな黄色に、渦巻き模様がピンク色で入っている。
これでも私はバカがつくほど真面目な日本人。常であれば落し物は交番に届ける。し、拾い食いなんて有り得ない。大体、こんなきったない場所に落ちてる果物を水洗いもせずに丸齧りなんて、絶対にしない――しないのに。
なぜか手が勝手に動いていた。
甘い香りに口が吸い寄せられる。
ひと口頬張れば、途端に程よく熟れた果肉から瑞々しい果汁が口いっぱいに溢れ――。
「まっっっず!!!!」
私はそのくっっっそ不味さに嘔吐き、そのまま吐き出せばよかったのに、なぜか反射的に飲み込んでしまった。バカヤロウが。ゲロマズな果物もどきが嚥下された無性にイガイガする喉を、顔を顰めて外側から掻き毟る。
「不味い不味い不味い。不味すぎる。詐欺すぎ。ていうかなんで食べちゃったんだ私も……あ゙ー、水、今すぐ胃を丸洗いしたい……」
『勝手に食べたくせに、勝手な言い草だなぁ』
『人間らしいね』
『水なら、森の奥に湧水があるよ』
「――え?」
森の中を全力で走る。枝やら葉やらがギャーギャー鳴き喚くのを無視し、何度も足をもつれさせながら少しでも声が、音がないほうへとただそれだけを思ってがむしゃらに走る。そうして息もからがらに森を突きぬけた私は、島の端っこ、誰もいない海岸に辿り着いた。
一見すれば人どころか生き物は一匹もいない――いない、けれど。
疲労で膝から崩れ落ちた私を受け止めた砂が――無限にある亜麻色の砂たちが、「イッッタ?!」「大丈夫?」「どうしたんだ?」「まーた人間が黄昏れにきたよ」「人間は悩みが多いなあ」なんて口々に言っていた。それを聞いてか周囲の草木が訝しみ、風が唸り、海辺の生き物たちがざわめく。逃げてきたはずなのに、結果としてますます音が増えてしまった。止まないやかましさに、砂についていた手に思わず力が入り、地面を抉るように爪を立ててしまう。
『いたいいたいいたい』
『なにすんだこのバカがよォ!』
うるさい。私だって痛い。彼らの声のせいで、今にも脳みそが弾けてしまいそうなのに。
しかし今は、そんな文句を声にすることすらしんどかった。砂が木が風が生命が、丸くなる私を取り囲んで、絶え間なく喋り続ける。
うるさい。
どいつもこいつもやかましい。頭が痛い。なんでこんな――あのゲロマズ黄桃食ってから、急におかしくなった。そこらじゅうから音がなだれ込んでくる。なんでこんな、絶対あれのせいじゃんなんなのあれほんとああもう――。
「うるさい!」
耐えきれなくなってとうとう叫んでしまった。静寂が訪れたのはほんの一瞬だけ。四方八方から轟々と非難してくる音に耳を抑えて蹲る。けれど脳内で直接響く声に対してのそんな抵抗は、今更なんの意味も成さなかった。
「うるさい……黙って……」
お願いだから、と呟く。
私の情けない掠れ声は周りの音に呑み込まれてしまったのか、願いが叶うことはなかった。
やだ、やめて、うるさい、ごめんなさい、いたい、吐きそう――。
『 ナツ 』
ふとなにかに名前を呼ばれたような気がして顔を上げる。この世界じゃ誰も知らないはずの名前は、ささくれだった神経に柔らかく溶け込んできた。
「だれ……?」
首を回すも、相変わらず周囲には誰もいなかった。先程までわんわんひっきりなしに脳内で反響していたはずの“彼ら”の声も、急にボリュームが絞られたかのように、どこか遠く聴こえた。
『 ナツ 』
半泣きでキョロキョロと困惑している私の名前を、再び誰かが呼ぶ。呼ばれた方をハッと見るも、その方向に広がっているのは、どこまでも青い海だけだった。茫然と見つめていれば、三度目となる呼び声が、目の前の青藍からたしかに鳴った。私は立ち上がっていた。
赤子の眠る揺籃を揺らすようにそよぐ、穏やかな声。この声は、きっと私を救ってくれる。
理由なんて分からないけれど、なぜだか漠然と私はそんなことを確信していた。やさしい音に誘われるように、フラフラと海原へ歩を進めていく。私が近付くのに合わせて波が深く沖へと引き、変色した砂が大きく露出した。
「まって」
波たちはきゃらきゃら笑いながら、遠くへ遠くへと去っていく。それはまるで、無邪気なイタズラをしているかのような動きだった。老若男女問わない色とりどりな笑い声たちに胸をザクザクと刺され、泣きそうになる。
まって、まってよ。いかないで。
私をひとりにしないでよ、こんな世界で。
焦燥感に駆られるがまま、私は広く歩幅を開き――ついにちゃぷん、と、潮の飛沫が辺りへ跳ねる。泥のついたスニーカーの爪先が、海へと触れた。『あーあ、捕まっちゃった』残念そうな口ぶりをしながらも、海は至極愉しげにクスクスと笑う。
『おいで』
『もっとおいで、そこまでおいで』
『そう、そう、ふかぁく。さあ、おいで』
「……うん、うん。行く、いくから、まって」
潮をたんと含んだ空気の中に右手を伸ばして、そのまま二歩、三歩とどんどん前へ進んでいく。気が付くと、膝まで濡れるくらい海に入っていた。
でも足りない。まだ遠い。まだ、もっと奥、奥へ、深く、もっと――。
急にグンとうねった海が膝に絡みつき、両足を取っていく。為す術なもなく傾いた私の体を、戻ってきた波がぱくりと飲み込んだ。全身にぴっちりとまとまわりついてきた冷たい海水が、五感に無理やり蓋を落としてきて、ひどい閉塞感に襲われた。
「(――あ)」
閉じる暇もなかった口からぼこぼこと溢れた気泡が、降り注ぐ陽光にきらきらと反射していた。クラゲのようにゆらゆら揺蕩って昇っていくそれがとても綺麗で――そう、綺麗だ、と思った瞬間のことだった。
『あはは!』
『遊ぼう、遊ぼう!』
『そこで遊ぼう! “底”で遊ぼう!』
『あははははははは!!』
そこら中から、爆音が溢れてきた。
地上にいた時とは比にならないほどの音が、身体いっぱいに。
頭どころじゃない。体が木っ端微塵のバラバラになってしまいそうなくらいに激しい音の嵐を、ひと息でぶち込まれたような感覚だった。許容量を遥かに超えている。あまりの苦痛に四肢をばたつかせて、海中で身を捩って暴れる。一心不乱に目の前を引っ掻くけれど、当然何も掴めなかった。手のひらが捉えた重たい海水たちさえも、私の足掻きを嘲笑しながら、開いた指の隙間から踊るように逃げていく。
痛い、痛い、割れる。裂けて砕けて散ってしまう。
あ待って、でもそのまえに息、が――。
閉じる気力さえなくなった口から、最後の酸素を吐き出すように、喉がビクリと痙攣する。私の中に酸素なんてもうとっくになかったので、周囲の水は微かに揺れるのみだった。
意識が薄れ、笑い声すら段々と聞こえなくなってくる。後ろ髪を戯れにくんと引くような軽い感覚にすら抵抗する力がでなくて、私はぐっと喉を反らした。遠くなる海面に、無意味と悟っていながらも、往生際悪く手を伸ばす――。
ほんの少しだけ海から突き出た指先に、突然何かが触れた。なにかは分からなかったけれど、触れたそれに夢中で指を絡める。
次の瞬間には肩から手が外れてしまうと思うほど強い力で上へと引っ張られ、海に掴まれていた体が一気に持ち上がった。耳元でひゅんと風を切る音がしたかと思ったら、顔面から勢いよく壁にぶつかる。痛いし苦しい。壁にもたれながら、酸素を取り込もうと口を開いたが、肺に溜まっていた海水が逆流してきたせいで、せっかく陸に戻ってこれたというのに暫くは呼吸もままならなかった。
ゲホゲホとひとしきり水を吐き終え、肺がやっと空気で満ちる。散々咳き込んだせいで、息を吸う度に荒れた喉がヒリヒリと痛んだが、体を巡っていく新鮮な空気は、文字通り私を生き返る心地にさせた。
「なにしてんだ、お前」
すぐ真上から降ってきた声に、倦怠感が爪の先まで蝕む中、なんとか顎を持ち上げる。海水やら涙やらでボヤけていたが、しばらく見つめていれば彼の黒い瞳とピントが合った。
ああ、壁じゃなかった。まあ、壁にしてはやけにあったかいなとは思ったけれど。ていうかこの人、こんな静かに喋れる人だったのか。こんなに底の見えない顔をする人だったんだ。
「る、ふぃ」
ガラガラになった声で、この世界に来て初めて彼の名前を口にする。返事はない。
けれどその代わり、私の手を握ったままの手に、またさらに力が篭った。
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