01

「もうすぐ十一歳ね、ハリー」
 ヴァイオラが言った。プライマリースクールの卒業をもう間近とした、五月下旬の、よく晴れた日曜日のことだった。雲ひとつないうんざりするほどの晴天だ。夏を帯びた陽光が、ジリジリと容赦なく照りつける。ハリーはおばさんから庭の雑草を残らず抜くようにと言い付けられていて、ダドリーは居間でお気に入りのテレビを大音量にして見ていた。
「そうだね。それがなに?」
 聞こえてくるダドリーのバカ笑いにイライラしながら、ハリーは引き抜いた雑草を投げるように放った。軍手をつけた手で額を拭えば、すかさず「汚れるわよ!」と注意が飛んできた。
「どうせもうとっくに汚いよ」
「だからって――まあいいわ。とにかく、十一歳になって九月になったら、ほら、なんて言ったかしら――あなたが入る予定の中等学校――?」
「ストーンウォール」
「そうそれ。七年生の学校。ダドリーとは違う学校!」
「そうだね」
 ヴァイオラは明るかったが、ハリーの気持ちは少し違った。もちろんあの横暴な従兄弟と離れられるのはハリーも楽しみだ。ただ、公立ストーンウォール校は、この地元でもあまりいい噂の聞かない学校だった。ハリーは溜息を吐いた。
「贅沢は言ってられないよね」
「うぅん」
 ヴァイオラの返事は妙に曖昧だった。
「ヴァイオラ?」
「……きっとなにかあるわ」
「え?」
「私、その……あんまりうまくは……言えないのだけど……」
 いつもはっきり物を言うヴァイオラにしては、珍しく自信なさげに声が萎む。「でも!」ヴァイオラは言葉を続けた。
「もうすぐなにか、きっと素敵なことが始まるはずよ」
 なにを根拠に言うのだろうとハリーは目を眇めた。まったく信じていないハリーに気が付いているだろうに、ヴァイオラは優しい調子で言った。
「だってハリーは……ハリーは素晴らしくいい子ですもの」



   ✲✲✲



 年に一度、いやでも訪れるダドリーの誕生日には、ハリーは二筋向こうのフィッグばあさんの家に預けられる。家中キャベツの匂いがするし、歴代の飼い猫の写真を嫌という程見せてくるので、ハリーもヴァイオラもフィッグばあさんの家が大嫌いだった。二人きりになった時に猫の悪口を言い合うのが、二人が無理やり見出した唯一の楽しみだった。
 ところが今年はそれがない。フィッグばあさんが足を怪我してしまって、ハリーを預かれなくなった。骨折したばあさんに同情しつつも、ハリーは自身の胸が期待で膨らむのが分かった。
「どうします? マージはこの子を嫌ってるし、電話できないわ」
「それなら、お前の友達の――イボンヌだったかな? どうかね?」
「バケーションでマジョルカ島よ」
「僕をここに置いていったら」
 このまま預け先が見つからなかったら、ソファに寝転んで夕方までテレビを見れるかもしれないし、ダドリーのコンピュータをいじったりできるかもしれない。オレンジジュースをほんの少しだけ飲むことができるかもしれない。そんな淡い期待のもと、ハリーは二人の会話に口を挟んだ。
 最終的に、事態はハリーの思ってもみていなかった方へと転がった。時間に迫られたダーズリー夫妻は、ついにハリーを動物園に連れて行くことを決意したのだ。苦渋の決断だった。これはダドリーのコンピュータでシューティングゲームをするよりも、遥かに幸運なことだった。ハリーは生まれて初めて動物園に行くのだ。今ほどヴァイオラと話せないことを惜しく思ったことはない。ハリーは車の後部座席でダドリー達に必要以上に押し潰されたが、そんなことも気にならないほど幸福な気持ちだった。
「僕、オートバイの夢を見た――空を飛んでたよ」
 ――だから道中、うっかり口を滑らせてしまったりした。こんな“まともでない”話、普段ならヴァイオラ以外には絶対言わない。そのくらい人生初の動物園に浮かれていた。バーノンおじさんに怒鳴り散らされたハリーは大人しく口を閉じた。ヴァイオラなら、きっと面白がって話を膨らませてくれたのに。ヴァイオラが隣にいないことに、ハリーは心底落胆していた。



   ✲✲✲


 窓ガラスが消えたのは、絶対に自分のせいではない。
 しかしガラスが消えた時一番近くにいたのはダドリーとピアーズを除いて自分だったというのは、変えようもない事実だった。ダーズリー夫妻は、自分たちの周りで起こる“まともでない”出来事は、全てハリーのせいだと信じて疑っていなかった。
 動物園から帰宅するなり、ハリーは物置部屋での謹慎を言い渡された。食事抜きだ。絞るように空腹を訴える胃に、昼間に食べたレモンアイスを思った。
「……ヴァイオラ」
「いるわ」
 物置部屋のベッドに横たわりながら、ハリーは呟いた。帰ってきて何時間も経ってから、やっと暗闇を見つめる以外のことをした。声は当たり前に返事をする。そのことに、ハリーは今日初めて泣きそうになった。
「今何時だろう」
「二十一時よ。おじさんはさっき部屋に入ったばかりだから、キッチンへ行くのはもう少し待った方がいいわ」
「そっか」
「ええ」
 静かな相槌は、ハリーをやさしく包んだ。あまりに優しいものだから頭を撫でられているように錯覚して、ハリーは自身の頭部にそっと手を伸ばした。しかしそこにはいつも通りのくしゃくしゃした髪の毛があるだけで、頭を撫でる手なんて当然存在しなかった。胸に巣食っていた寂しさがとうとう爆発して、ハリーは言うまいと固く誓っていたことを、ついに口にしてしまった。
「きみが、ほんとうにいてくれたら」
 ヴァイオラが傷付いたように息を呑む。途端にハリーは罪悪感に駆られ、見えない視線から逃げるように寝返りを打った。
「……わたしもそうおもうわ、ほんとうに」
 ごめんなさいと囁く声は、泣きそうに震えていた。



   ✲✲✲



 与えられたばかりの部屋を見回す。誕生日に一度使ったきりの8ミリカメラ。数年前に隣家の犬をひいた小型戦車。隅にはダドリー専用の初代テレビが置かれている。癇癪を起こしたダドリーが蹴りつけたせいで大穴があいていて、使い物にはならない。大きな空の鳥かごに、銃身の曲がった空気銃に、一回も頁を捲られたことのなさそうな棚の本……。
 そんなダドリーのガラクタが山ほど置いてある寝室が、今日からハリーの新しい寝室になっていた。下では部屋の前の持ち主が、母親に向かって喚いて暴れている。こんなガラクタだらけの狭い部屋でも、ハリーには絶対あげたくないらしい。ハリーはフッと溜息を吐いて、ベッドに体を横たえた。物置部屋のベッドより、段違いに柔らかかった。昨日までなら、この部屋に住めるなら他にはなにも要らないと思っていた……けれど今は――。
「ハリー、ハリー、ハリー!」
 踊り出しそうな――なんならすでに踊っていそうな声だった。
「なにかが起こってるわ!」
 ハリーにもそれはよく分かっていた。なにせハリー宛に手紙が来たことなど、一度もなかった。しかしどうしてヴァイオラがそんなに嬉しそうなのかは分からない。
「あなたに手紙が来たのよ、ハリー!」
「そうだね。でもその手紙はもうないんだよ」
 バーノンおじさんに奪われ、焼かれてしまった。自分で言ってハリーは項垂れた。「あら」しかしヴァイオラは楽しそうなままだ。
「これで終わりなものですか」
「どうしてそう言えるのさ?」
 差出人の名はなかった。真ん中に大きな『H』とあっただけ。ライオン、鷲、穴熊、蛇のイラストに取り囲まれた封筒を思い出す。
「分からないけど、でもだって、私、言ったでしょう」
 不貞腐れるハリーへ、ヴァイオラは言い含めるように言葉を紡いだ。
「きっと、素敵なことが始まるって」
 

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